2010年8月3日火曜日

失敗学 5 関取の残心 ← なぜか今日の投稿になってしまった

このブログは無計画で思いつきで書いているので、説明不足が多い。昨日の話も、どうして受話器を置いてため息をついた話と残心が関係あるのか、と疑問に思う人もいるかもしれない。要するに両方とも終わり方の問題だと言いたかったのだ。
残心と終わり方、というテーマとの関連で、最近相撲を見るのが少し面白くなった。相撲取りによって相手を土俵に押し出した後の態度がぜんぜん違うのだ。要は残心をそこに込めることができるかどうか、ということだ。私の関心の発端は、朝●龍だ。はっきり言って彼は残心のかけらもなかった。相手が土俵を割ってからも、バーンとダメ押しをして、その結果相手は土俵を割っただけでなく、そこから突き落とされそうになる。これは危険行為だ。私は常々相撲の土俵を最初につくった人間は間違っていたと思う。あれは臼状に作るべきであり、土俵を一段高く作ったがために、押し出された人は高いところから突き落とされるために怪我をしかねなくなった。土俵を一段高くするのなら、本来ならボクシングやプロレスのリンクのように、ロープを張っておきたいものだ。いわゆる「砂被り」にいる人は、まるでクッションになって相撲取りの怪我を防いでいるのか、とさえ思ってしまう。(ということはあそこにいたという反社会的な屈強な方々は、その意味で役に立っていたということになる。)
話を戻すが、朝●龍の態度はあまりに品がなかった。土俵を割った相手にどのような態度を取るかが、相撲取りの品格の表れなのである。その意味では琴欧州などは優等生ではないか。相手を押し出した後は、力を抜いて、むしろ抱えてあげるようにして、相手が土俵下に転落するのを防いで挙げる。相撲取り同士が抱き合うような形で静止して戦いが終わる。激しい戦いが、勝敗がついた瞬間静寂に戻るという感じだ。撲取りはあそこで相手に思いやりを示し、同時に品格を表すといっていい。投げられた相手に手を差し伸べる、というのも同じ類だ。負けた相手に情けをかけると言ってもいい。それをされた側の相撲取りも、それにより卑屈になることもないようだ。(朝●龍だったら、投げられて手を差し伸べられたら、払いのけるのがイメージできそうだが、実際にはそれも見たことがない。)
ともかくも一連の動から、すぐに静にもどるという流れは、その人が自分の動きをコントロール下に置き、それによる周囲や自己への影響を掌握しているということを表す。そしてこの動から静へ戻った状態が残心というわけである。とすれば残心を欠いた動きとは、アクティングアウト、衝動的で刹那的、無反省で無駄の多い動き、ということになるだろう。ある意味では「動物的な動きと同じじゃないか」、というわけだ。いや動物だって、例えば鷹ははるか上空から獲物を狙って一直線に急降下してうさぎをしとめるという動作を残心をもって行なえるかもしれない。鷹はそれを迷いなく、同様もなくいとも自然に行なうだろうからだ。するとやはり残心は「余裕」と関係しているのだろう。そして余裕のなさこそ、失敗への近道だといってもいいのかもしれない。(失敗学の話をしているのであった。)