2010年8月3日火曜日

失敗学 その7 失敗がどうして起きるのか、という根本的なテーマ

毎日暑い日が続くが、やはり私は冬がいやである。こんなに暑くて苦しいけれど、たとえば外出から帰って冷たい●●を口にする時はたまらない。(●●はビール、ではない。)これは冬には味わえない快感だ。

なぜ失敗が起きるのか、という根本的な問題に触れてみよう。それは突き詰めて言えば、私たちが毎日を送る上で、予想可能性を前提としているからだ。

例えばこの間の日曜に見た竜馬伝の中から。竜馬は薩長連合を画策して、長州の桂小五郎のもとを訪れ、「薩摩の西郷が絶対来るから、下関で待つように」と説得する。薩摩を憎んでいる藩士たちを束ねる桂小五郎は、それでも龍馬を信じて待つことにした。ところがとうとう西郷は現れず、桂は激怒して、「キミを信じた僕が馬鹿だった。二度とおれの前に現われるな!」となった。彼は藩士たちを前にして大恥をかかされたのだから無理もない。そして龍馬はどうして中岡慎太郎が西郷を説得できなかったのかと悔やむ ・・・・・・。絵にかいたような失敗である。

しかし考えれば、これはおかしな失敗だ。実際はストーリーを追えば分かる通り、それぞれの部分で成功する率は決して高くない。(少なくともドラマではそうなっている)。この計画が失敗したのは、「絶対に西郷が・・・・・」「必ず薩長連合は成就する・・・」という形で蓋然性を必然性に置き換えたからである。そこの時点で間違っている。西郷がおとなしく中岡慎太郎と一緒に下関まで来る確率はおそらく6割くらいだったのではないか?(←まったくテキトーな数字である。)とすれば龍馬はこう言えばよかったのだ。

「桂よ、おそらく西郷は此処に来るのは五分五分の確率だ。でもそれはすごいことなんだ。是非ここにいる長州藩士たちを説得して、待っておくれ。」

これでは薩摩を討つべし、と息巻く長州藩士たちを説得できるはずはない。「絶対!」ということで人はやっと動くものである。では龍馬は、7割(←少し上がった)のの確率にかけて、ハッタリで桂小五郎を説得しようとしたのか?

ここからは私の想像だが、龍馬の頭の中に、そして私たち皆の心のなかにある種の新年があるのだろう。それは強く期待し、強く念じれば、蓋然性は必然性になる。祈り、である。祈って、「多分」を「絶対」に置き換えることで、人は力を発揮できることがある。そしておそらく実際に西郷をつれてくる確率は、例えば6割から7割に上がるのだろう。だから私たちは「Aが起きる」ということを祈る、強く念じる、という行為をやめることがない。そして結果として蓋然性は必然性に「誤認」され、当然ありうる「Aは起きない」という現象を、失敗にしてしまうのだ。かくして私たちは普通の生活を送っている以上は、常に失敗を避けることができない・・・・。