2010年8月6日金曜日

失敗学について その10.バイクでの私の失敗

畑村先生の失敗学の理論は、一言で言えば「痛快」なのだが、それは彼の直接的な物言いにある。実にわかりやすい。そして彼のもうひとつわかりやすい主張が、「人間は、失敗からしか学べない。」である。失敗からしか、というのだ。もちろんこれは極端だ。人間は成功からも学ぶことは出来るだろう。でも敢えてそう言わないところに意味があるのだろう。
これは例えば何かの技術を学び、トレーニングを行う際の考え方を大きく変える可能性がある。ある技術を修得するためには、その技術を学ぶことに、そしてそれを用いることに失敗する必要がある・・・・・。私たちの技術を学ぶプロセスに、ほとんどこの考えが顧みられない。ある技術Aを学ぶということは、Aを用いないとどういう事が起きるかを身をもって体験しなくてはならないが、たいていはこのプロセスは無視される。Aはたいてい、テキストで学習したあと、実地で試される。

私たちの多くが体験する運転について考える。自動車教習所ではまず教科の学習があり、その後実際に運転席にすわる。教科の内容は頭だけの内容であり、完全に習得されていないはずだから、なかなか教えられたとおりに体が動かずに失敗する。それを繰り返していくうちに運転は習得されていく。でも実はそれは運転を本当の意味で学ぶということではない。ではどうするのか?

私はその昔研修医時代にバイクに載って通勤した。はじめは50ccのミニバイクを、そして後には250ccに出世して乗り回していた。その体験で忘れられないことは、転倒した体験だ。とくに50ccでタイヤが小さなバイクは、ブレーキをかける時ほんの少しでもタイヤが曲がっていたら、つまりハンドルを切っていたら、本当にあっという間に路面を滑り、そして転倒する。あのバイクがコントロールを完全に失い、道を斜めに横切って行く時の絶望的な感覚は決して忘れられない。

ある朝、病院に向かっていたら、雨が降ってきた。教習所では、特に雨の降り始めに路面が非常に滑りやすくなっていることを教わっていた。 そこで太い通りのカーブを緩やかに曲がっている最中に、こんなに交通量の多いところで車体が滑っては大変、といつもよりスピードを緩めるつもりでブレーキをかけると、ツーっと滑っていった。その時私の直後に車が走っていたら、私は今この世にいなかったかもしれない。

バイクのブレーキを、ハンドルが曲がった状態でかけると大変なことが起きる・・・・。それを身をもって学習するためには、私はこの生命を危うく失いかねない失敗を、4度ほど体験した。最後の一回など、「このくらい緩やかなブレーキなら、大丈夫だろう、というのは誤りである。」というかたちで。
私がバイクを運転して命を失わないための方法についての学習は、少なくとも教科書に太字では書いていなかった。それにそのような間違いを普通の人はしないらしく、そのような怖い体験を語って私に警告してくれる人もなかった。
私の知っているかなりの数の人が、若い頃バイクを乗り回し、ある時期からぱったりやめてしまった。私の職場の上司がそうであり(彼からバイクを安く買ったのだ)、私の妻もそうだ。彼らはバイクで事故を起こし、あるいは目の前で事故を起こして救急車で運ばれる運転者を間近に見て、あるいはトラックに巻き込まれる運転者を見て「バイクは怖い。運転してはいけない。」ということを学習して、乗るのをやめていくのだ。
私たちは自分の身を危険に晒すような技術については、「失敗」から学んでそれを防ぐ方法を知る。しかし自分の用いる技術が他人を、それも見えにくい形で害するという形でしか「失敗」しない限り、それは決して身をもって学ばれることはなく、決して失敗はこの世からなくならないのだろう・・・・。