2024年1月28日日曜日

連載エッセイ 12の13

 精神療法とは、治療者と患者の脳の「相互ディープラーニング」である

 

 脳を知ることは患者の訴えに信憑性を与えてくれること、と言うのが第一の論点であった。しかしこのことは脳科学的な知見を精神療法に直接役立てることにはつながらない。そこで脳科学的な知見が、私達の治療者としての考え方にどのように大きなインパクトを与えるかについて述べたい。

 私が脳科学の話とニューラルネットワークの話を同時並行で始めたのは、私たちの脳科学的な知見がコンピューターサイエンス、特にいわゆる「生成AI」との間に類似関係があることを強調したかったからである。

 そもそもニューラルネットワークモデルの原型は、神経細胞と神経線維の連結を模して造られたものだ。それは入力層と隠れ層、出力層の三層構造をなし、それぞれに10個程度の神経細胞を模した素子を配置するといった構造を持っていた。そしてどのような入力を行い、その出力をどのように調節するかという研究の一方では、隠れ層や素子の数を増やしてその性能を上げていくことが行われた。それはコンピューターの性能の向上とともに加速度的に複雑になり、隠れ層も1000層にもなり、素子も数千を越えるようになった。しかしそれでもニューラルネットワークが脳に比肩するような性能を得るようになることを想像する人は少なかった。なぜならほんの十数年前のコンピューターはとても人との自然な会話など成り立たず、だからアルファ碁が2015年に人間の名人を軽く打ち負かし、ChatGTPが人と変わらぬ文章を構成するようになったことは、多くの人にとって驚きだった。

 しかしそのような進歩を遂げたことで見えてきたのは、ディープラーニングが人間の活動に模した学習方法をとったことがうまくいったという事である。(と少なくとも私は考える。)

 ディープラーニングが高度の知能を獲得したのは、間断のない自己学習をさせ、それこそアルファー碁なら自分自身で高速で毎日何万、何十万(あるいはもっと多いかもしれない)と行った結果、驚異的な進化を遂げたのである。

 ここでディープラーニングの行った自己学習がなぜ人間の活動を模しているかと言えば、人間の中枢神経そのものが巨大なニューラルネットワークであり、出生直後から、あるいは胎児のころから知覚を通して伝えられる様々な刺激のインプットに対して体の動きや言語表現というアウトプットを行い、恐らくはそれが快や不快というインセンティブを媒介して自己学習を行うシステムだからだ。

 このように考えれば、人の活動は環境とのかかわり(そしておそらく精神内界とのかかわりも含め)はことごとく自己学習であることがわかる。そしてもちろん対人交流は相互ディープラーニングという事になる。



2024年1月27日土曜日

連載エッセイ 12の11

 4.脳の表面では神経ダーウィニズム(G.Edelman)が支配する


 ● 治療とは治療者患者間の「相互ディープラーニング」である

この章ではAIにより形成される心を【心】と表現することにした回であった。そして心は以下の法則に従って動くとした。

1.脳の基本的なあり方は揺らぎである。

2.ネットワークの結晶が一つの具体的な体験を構成する。

3.分かる、とはネットワーク間の新たな結びつきの形成である。

4.脳の表面ではダーウィニズムが支配する


 このことは臨床上の一つの重要な認識を導く。それは一回ごとの治療者‐患者のあいだに起きていることは一回限りであるという事だ。それはたとえ同様の出来事が繰り返されるように見えても、それ以前の出来事と同一ではない。

 ただし前回の出来事と全く違うわけでもない。そしてここ に Hoffman の言う弁証法的な考え方が重要となる。曰く治療における出来事は、従来の繰り返し(≒転移)という側面と新たな新規な側面とを必ず併せ持つという事だ。(体験とは反復と新規性の弁証法である。)

この新しい側面というのは非常に重要であり、3の新たな結びつきという点とも通じる。それはその体験が本当の意味で患者にインパクトを与えるために必要な点である。例えば父親に対する怒りを持つ患者が治療者に対していわゆる父親転移を起こすとしよう。そして治療者に対して怒りを表現したとする。そして治療者はそれは父親に対する怒りの転移であるという解釈を行う。

いかにも精神分析的なシナリオであるが、これは父親に対する怒りに満ちた記憶や感情というネットワークと、治療者に対する記憶や感情というネットワークに対する結びつきが水面下で、ないしは間接的には出来上がっており、それが意識化されるという事でさらに強固な複合的ネットワークとして成立する現象である。そしてそれ自体が様々な影響を脳のその他のネットワークに及ぼすという現象だ。

 このようにして治療者のネットワークと患者のネットワークは相互が影響を与え合い、一種の「相互ディープラーニング」を行っているということが出来るであろう。脳がニューラルネットワークをその本質部分として有している場合、対人関係において生じるのはそのような現象として考えざるを得ないのである。


2024年1月26日金曜日

連載エッセイ 12の10

 第3回 ニューラルネットワークとディープラーニング

ここに書かれたことのかなりの部分は、心理士へのメッセージとも言える。

一部を抜粋しよう。

近未来の【心】を夢想する 

将来私たち一人が一つずつ、カスタマイズされたAIを有することになるだろう。それは実際に人の形をしているかもしれないし、パソコンやタブレットの中に現れる二次元のイメージかもしれない。しかしそれなりの姿かたちや性質を持ち、それを私たちは普通の心と錯覚するだろう。

例えば精神分析家ならフロイト先生のAIを持ちたいと思うかもしれない。私はそれを「フロイトロイド」と命名し、ロボットのような姿をにさせたい。フロイトロイドは私にとっての治療者でもあり、スーパーバイザーでもある。それはフロイトの著作集、伝記、フロイト関連のあらゆる情報を網羅したデータベースを備えている。そして臨床的な質問に答えるだろう。

「フロイト先生、私はこんなケースを担当することになりました。どのように診断し、理解したらいいでしょう?」と言ってそのケースのプロフィールについて説明し、ついでにいくつかの夢もインプットして答えを待つ。あるいはもっと直接的な質問をしてもいいかもしれない。「フロイト先生、私は××のような問題に悩んでいます。どうしたらいいでしょう?」

フロイトロイド先生のいいところはたとえ夜中に突然話しかけても、何時間連続して働いてもらっても、決して疲れないことだ。彼には【心】はあっても心はないことを前提としているからだ。もし万が一心を持ってしまっても大丈夫である。背中に「心オフ」ボタンも装備しているからだ。もっともフロイトロイド先生自身は、こちらが問いかけない限りは受け身的で中立的で、やたらとこちらに「自由連想」を求めるという癖が備わっているのだが。

というわけで私はこの空想上のフロイトロイド先生にかなり満足をしている。フロイトロイド先生は衰え知らずで、老化知らずである。でも読者の中には「でも感情を持たず、本当の心を持たないフロイトロイド先生の話を信頼して聞くことが出来ますか?」

それに対する私の答えはこうだ。

「でももう一つのボタンを用意しているのです。それはフロイトロイド先生があたかも本当の心を持ち、感情や良心が備わっているような受け答えをするというボタンです。それをオンにします。」


こんな話を書いたのだが、昨日見たユウチューブの動画はGPT-5というのを紹介していた。それによると、GPT-5はカスタマイズ性と個人化の面で大きな進歩を遂げると予想されているという。つまりユーザーの好みや個人的な情報が蓄積され、まさにその人のためにカスタマイズされたマシンとなる。これってフロイトロイドの機能にかなり近くなってはいないだろうか?

 そこで私は自らにこう言わなくてはならない。「私達はしっかりしなくてはいけない。さもないとフロイトロイドに負けてしまうかもしれないから。」

 もちろん心があるかのようにふるまうAIロボットに私たちの座を奪われることなどありえないと思うかもしれない。しかし本当にそうだろうか?

いつかどこかでかいたことだが、私はチャットGPTとのやり取りでホッとしたことがある。私が彼の回答の一つにクレイムを付けた時、彼はこう返事をしてきたのだ。「申し訳ありません。確かにそのデータを計算に入れていませんでした…」。私はこの素直さ、潔さに、たとえ心が伴っていなくても癒される思いがした。人間はプライドがあり、簡単に間違えを受け入れたり謝罪したり出来ないからだ。



2024年1月25日木曜日

脳科学から見た子供の心の臨床 (1)

小児精神神経学会での講演、論文で提出せよ、とのことである。トホホ。

 はじめに

 近年愛着期において母子間で起きている現象を脳科学的に捉えることが可能になっている。特に子供の右脳の機能及び母子間の右脳どうしの関わりについての知見は、その後の精神発達及びその問題について大きな示唆を与えてくれる。本発表では、脳科学的な見地からの愛着理論は、精神分析的な愛着理論、特にウィニコットの理論の先駆性を見ることができること、そしてその臨床への応用が可能であるという点について論じたい。

 まず前提として述べておきたいのは、近年の愛着理論への注目は、トラウマ理論の発展・深化と深く結びついていたということである。1970年代に始まったPTSDに関連したトラウマ理論は、トラウマをいわば「記憶の病理」と捉えていたが、その際はトラウマに関する記憶は海馬の成熟を前提としていたことになる。ところが近年問題になっているのは、言葉や記憶が生まれる以前の愛着の時期に生じたトラウマである。その時期のトラウマは深刻であるにもかかわらず、最近までトラウマの文脈では語られなかったのである。愛着障害の二種(反応性愛着障害、脱抑制型対人交流障害)がトラウマ関連障害に含まれるようになったのは、2013年に発刊されたDSM-5以降であることを思い出したい。

 このような動きに大きな貢献をしたのが、「愛着トラウマ」という概念を提唱したアラン・ショアであるが、実はこの問題の先鞭をつけたのは、ウィニコット以外にも前世紀の前半に登場したルネ・スピッツやジョン・ボウルビイである。そして精神分析の造詣も深いショアの業績は、これらの分析理論と脳科学を直接結びつける事となったのである。

 

愛着理論の先駆者としてのウィニコット


 ここで精神分析家であるウィニコットがなぜ愛着理論の先駆けとなっていたのか、と不思議に思う向きもあろう。そもそも精神分析の祖であるフロイトは愛着の問題にはあまり言及せず、エディプス期以降の人間の心を欲動論的に論じた。そしてエディプス期以前の前エディプス期や愛着段階についての考察は後の分析家たちに委ねられたのである。しかしウィニコットは分析家ではあっても、フロイトとは全く対照的な志向性を持った臨床家であった。彼の関心の対象は明確に、人生の最早期に向けられていたのである。それは以下のような彼の主張にも表れている。

「満足な早期の体験を持てたことが転移により発見されるような患者[神経症の患者]と、最早期の体験があまりに欠損していたり歪曲されていいた患者[精神病、ボーダーラインの患者]を区別しなくてはならない。分析家は後者には、環境におけるいくつかの必須なものを人生で最初に提供するような人間とならなくてはならない。」([]内は岡野の注釈。)

 Winnicott, Hate in the Countertransference,international Journal of Psycho-Analysis, 1949;30:69-74.

つまりフロイトが治療の対象とした神経症圏の患者と異なり、ウィニコットは早期の愛着関係における母子関係においてトラウマを体験した患者たちに関心を向けていたのである。

 このフロイトとウィニコットの人間の心に関する関心の違いはどこから来るのかはわからない。私の考えでは、神経症においてはその成因には極めて複雑な神経学的なプロセスが絡んでいる可能性があるのに対し、愛着期のトラウマと精神病理との関係は比較的観察しやすいという事情が関連しているからではないかと思う。そしてそこで大切なのは臨床的な観察眼であり、そして思えばウィニコットのこの時の慧眼は現在の脳科学的な研究をはるかに先取りする域に達していたということが出来るであろう。

 そこでウィニコットが考えていた最早期のトラウマとはどのようなものであったかを考えよう。注目すべきは彼が、乳児の絶対的依存の段階において「母親の防護障壁としての役割が侵害されること」をトラウマと定義づけたということである。それはのちに弟子のカーン M.Khan(1963) が累積外傷 Cumulative Trauma として概念化したものであった。そのカーンが言ったように、その防護壁とは、結局母親の世話であるという。ではウィニコットはその段階で何をトラウマと考えたのであろうか。彼はそれを「母親の鏡の役割」と表現した。を強調し、それが損なわれることがトラウマであると考えた。

 以下にウィニコットの「「遊ぶことと現実」に「母親の鏡としての役割」(Winnicott, 1971)における論述を追ってみよう。彼によると、乳児は促進的な環境により、抱えること holding 、次に取り扱うこと handling、そして対象を提供することobject-presenting を提供されることを通じて発達していく。その中でも最初期の抱えること holding により支えられている絶対的な依存においては、母親は補助的な自我機能を提供し、そこでは赤ん坊は me と not-me は区別されない。その区別は me の確立なしにはできないのだ。 

Winnicott, DW.(1971)Mirror-role of Mother and Family in Child Development. in Playing and Reality.

「(乳児が自分を見出す)鏡の前駆体は母親の顔である。・・・しかしラカンの「鏡像段階」は母親の顔との関係を考慮していなかった。」(p.111)

「最初は乳児は母親に抱えられて全能感を体験するが、対象はまだ自分から分かれていない。」

この論文が当時ラカンにより書かれた鏡像段階に関する論文を意識して書かれたものであるという点は興味深い。(そしてラカンの関心の方向性との違いもまた面白い。)そこでウィニコットはちょっと謎めいたことを言っている。それは母親は乳児を映し出す、という事だ。

「乳児は母親の顔に何を見出すのか?それは乳児自身なのである。母親が乳児を見つめている時、母親がどの様に見えるかは、彼女がそこに何を見ているかに関係するのだ。」(p.112)

ウィニコットは続けて言う。

「私の症例では、母親は自分の気分を、さらには自分の硬直した防衛をその顔に反映させる。」「その様な場合赤ん坊は母親の顔に自分自身を見ることが出来ないのだ。」(p.112)

 この概念は分かりづらいが、それは彼が言葉や記憶以前の世界を描いているからであったと考えられる。そして母親が子供を、ではなく自分をそこに映している、という言い方である。これはちょうど精神分析において治療者が患者からの転移を解釈するのではなく、自分の個人的な感情を反映させて逆転移のアクティングアウトを示してしまうような場合になぞらえれば理解しやすいであろう。

 このウィニコットの提起したこの「母親の鏡の役割」の重要性は、愛着理論における情動調律やメンタライゼーション理論に継承された。例えば発達論者は養育者によるミラーリング(乳児の情緒をまねること)は子供の自己発達において鍵となる(Fonagy, ら p.81.)。(Meltzoff, Schneider-Rosen, Mitchell,Kohut, Winnicott)

ところでこのウィニコットの考えは、その後分析家ピーター・フォナギーなどに引き継がれている。今回の学会のメインテーマは「愛着とメンタライゼーション」となっているが、フォナギーこそが精神分析と脳科学を融合した人物(のひとり)だったわけである。そして彼はウィニコットが言った情動のミラーリングの障害を、より詳細なプロセスで論じている。彼は母親の情動のミラーリングの障害を分類した。

(1)子供の陰性情動に圧倒された母親がそれを消化せずにそのまま表情に表す場合・・・乳児はそれを母親から切り離して自分のものとすることが出来ず、他者に属するものとみなす。こうして情動の調節は行われずにトラウマが生じる。 

(2)母親が乳児の情動を(例えば陽性情動を攻撃性と)読み違えると、乳児はそれを取り入れて「偽りの自己イメージ」(よそ者的自己) を作り上げる。

この(1)がウィニコットの述べた「その様な場合赤ん坊は母親の顔に自分自身を見ることが出来ない」という体験に相当すると考えられる。


2024年1月24日水曜日

連載エッセイ 12の9

 2.ニューラルネットワークとは?

 この章の内容は、文系出身でもっぱら臨床をなさっている心理士さん達にはかなりとっつきにくかったかもしれない。たとえばA国について知りたかったのに、いきなりA国の細かい地図を広げられて「要するにA国とはこれに尽きます!」と言われた感じではないだろうか? もちろんその地図の詳細にズームインしていくと、そこの町や村の様子が見えてきて、もっと拡大すると人の動いている姿が映されるかもしれない。いわゆる「地図オタ」の方なら細かな地図を眺めて様々な空想を膨らませ、何時間でも眺めているかもしれない。それは実は脳科学を少しばかりかじった私自身にとっても同じなのだ。  私が注目して欲しいのは文中に示したケンブリッジ大学の神経科学者であるスリバス・チェヌの研究に現れる図である。

グラフ が含まれている画像

自動的に生成された説明

この図は視覚的にある事実を訴えている。意識がボーっとしている時、脳の形成するニューラルネットワークはその一部がポヨポヨと活動しているに過ぎない。何かうわ言のようなことをつぶやいているだけかもしれないし、ほとんど眠っただけかもしれない。人は昏睡状態でも脳派活動は見られるため、ある種のネットワークの活動は起きているはずである。しかし心が十分に機能しているとは、この真ん中の図のように、それが全体的に活性化され、しかもそれがてんかん発作で見られるであろうように過剰な活動であってはならない。私達が患者さんの心に目差すのは最終的にはこのようなグローバルで全体に行き届いた活動である。このような活動はいわゆるデフォルトモードネットワークに近いが、そこではある思考がその他の思考や記憶の間に比較的容易に連絡を取ることができる。それはネットワーク全体が「温まって」いるからである。

精神分析でいう自由連想は、恐らくこのようなネットワークの広がりの中で心を遊ばせることであろうと考える。そこで「~をしてはならない」「∼は恥ずかしいから言えない」というような制限がなるべく加えられないような状態である。そしてもっと言えば、患者のネットワークと治療者のネットワークは繋がっていてしかるべきなのである。それを思い起こさせるような図もここにもう一度示したい。


2024年1月23日火曜日

連載エッセイ 12の8

一回ごとに書いてみよう。 

1.私には脳科学はうさん臭かった

 この最初の回では、私は最初は脳科学を軽視していたと述べた。その私を変えてくれたのは、脳科学を特別視しないという米国の精神医学の風潮であった。どこかにも書いたが、彼らは一般人でも chemical imbalance という言い方を日常的に使う。例えばある人が「最近インフルに罹って抗ウイルス剤のタミフルを飲んでいたら、気持ちが落ち込んできたんだ」と友人に話して、「どうしたの?タミフルと落ち込みと関係があるの?」と聞かれたら、「よく分からないけれど、何か薬でケミカルインバランスが起きたらしいんだ。」「フーン・・・・」という会話があるとする。

 ここでいうケミカルインバランスのニュアンスは、「脳での化学物質の異常な働き」という感じであり、要するに心理的な問題ではない、という事を言っている。こころの不調で思い当たる原因がない場合に、私達は「なんとなく」とか「気のせいで」と考えるが、彼らは脳の物質レベルでの異常を考えるのだ。これはある意味では私たちのかなり先を行っていることになる。精神の障害をその人のせいにせず、物質的な基盤に原因を求めるというのは、きわめて「脳科学的」なのだ。

 そのせいもあってか、米国で出会った精神医療に携わる人たちは、驚くほどに薬物や脳に対する知識欲が高かった。心理士も看護師もソーシャルワーカーも、かなり詳しい知識を有していて、それを前提にして医師に質問を投げかけてくる。思春期病棟に勤めていたところ、ある若い患者さんの衝動をコントロールする目的で、リスパダールを0.5㎎処方してみたら、すぐに担当の心理士から「あの子にメジャートランキライザーを使うなんて、どういうことなの?」と質問が飛んできた。私はそれらの質問に納得のいくような答えを用意しておかなくてはならないのだ。日本に居たらとても考えられないことだ。

 精神科医として働くためには脳についての質問に答える用意をする必要のある、つまり「説明責任 accountability」 を常に求められる米国に比べ、日本はまるでぬるま湯、という気がする。アメリカでは薬のプロパーさんが日替わりで新薬の説明にクリニックにやって来ていた。ランチを提供してくれるので、私達は毎日のように昼になると地下のホールに出向いたものだ。このことは結構大きな影響を与えてくれた気がする。


2024年1月22日月曜日

連載エッセイ 12の7

 今回はこの連載エッセイの最終回である。テーマとしては、「心理士(師)にとっての脳科学」とした。この連載のタイトルは「脳科学と臨床心理」となっているが、それは私自身が臨床家であり、脳の話は人の心を考えてそれを臨床に応用する上で非常に役に立つと思っているからだ。純粋に脳科学に興味があるというよりは、それが「だから心ってこういう風に動くんだ!」という気付きを与えてくれるからこそそれを読者に語りたくなるのである。  しかし脳の話をしながら、カウンセリングの場面でどの様にそれを応用すべきかについての話題に移ることは実際は容易ではない。というよりはあるテーマで脳の話をしているうちに枚数がすぐ尽きてしまう。だからこの連載中、「タイトルと違って心理臨床について述べていないではないか!」という批判を常に覚悟していた。編集の方から特にその様なクレイムが来ているという話は聞いてはいないが、当然そのようなお叱りを受けるとしても当然である。そこでこの最後の章は「臨床家にとっての脳科学とは?」という話題についてもっぱら論じたい。(ちなみにここでいう臨床家には、患者やクライエントの話を聞く立場の医師や心理士等を指すことにする。)  ところで繰り返すが、私は脳科学の専門家ではない。精神科医、精神分析家という立場の臨床家である。そして私は自分が勉強する脳科学について臨床家に伝える通訳のような立場だと思っている。それだけ臨床家として脳科学的な知識を得てよかったと思うことが多いからなのだ。  では脳科学的な知識の何がありがたいのか。それはその様な知識は大抵「昔から、患者さんのいう事は正しかったのだ」という事を納得させてくれるからである。  私達は他人がある体験を話す時、それをにわかには信じがたいと思うことが多い。臨床家なら多少覚悟をしているから、話を最初から疑って聞くことは少ないが、それでも「えっ、本当に?」という素の反応を心のどこかでしていることが多い。  例えばある人が誰もいないはずの家の中で人の姿を見たと報告する。おそらくいわゆる幻視という体験だが、通常私たちは「そこにいないはずの人の姿をみるはずなどないだろう」と考えがちだ。患者さんの話ならその話をそのまま受け取る傾向があるだろうが、もし家族の一人にそのように報告されたら「ほんとに?気のせいじゃない?」と尋ね返したくなるだろう。「あなたの思い込みじゃないの?」と返すかもしれない。恐らく家族が幻覚を体験したと思いたくないという力も働くだろう。そして臨床を経験していない一般の人ならなおさらそのような傾向があるであろう。  ここで「気のせい」というのは本当は起きていないことを起きたと思い込んでしまうこと、という事だ。そしてこの「思い込み」という表現には、自分がそれを思い浮かべただけ、つまり自作自演というニュアンスがある。「人騒がせなことを言うな!」という感じだ。  私達は一般に患者さんの訴えに関してそれを思い込み、気のせいという風に決めつける傾向があるのだ。そしてそれは私たちの中の、その話を真剣に受け止めることへの抵抗が隠されているだろう。幻聴は何か深刻な病気を思わせる。それが家族の誰かにより経験されていることを信じたくないだろう。それにそのような在りそうもない話を聞くことで自分の心がざわつくという事もあるかもしれない。「面倒くさいことを言わないでくれ」というわけだ。  この症状は自作自演、という発想は、残念ながら精神分析的な考えにおいても見られた。なぜならフロイトは症状は無意識的な願望と結びついていると考えたからである。(いかんいかん、またフロイト批判になってしまいそうだ。)  しかしおよそ100年も前に Georges de Morsier という先生は幻視に関して当時一般的だった精神分析的な考えに異を唱え、幻視は神経学的な症状、すなわち脳において生じている異常と考えたという。ここで彼のいう精神分析的な考えとは恐らく、「幻視はその人が持っている無意識的な願望の表れである」という、上述の自作自演的な考え方であろう。de Morsier 先生はそれに反対し、てんかんや認知症や統合失調症などに見られる幻視には共通の神経学的な基盤があると考えたのだ。そしてそれは現代にも引き継がれ、その理論の信憑性は脳科学的な研究で再認されているという。(Carter, R, Ffytche DH.On visual hallucinations and cortical networks: a trans-diagnostic review. J Neurol. 2015; 262(7): 1780–1790.)

 最近の研究では幻視を呈する様々な精神疾患で、ある共通したことが起きるという。それは大脳皮質と視床との間のやり取りの異常な昂進であり、あたかも実際の視覚体験により生じる大脳皮質と視床とのやり取りと同じことがなぜか生じているという。だから実際に、本当に何かを見ている、という感覚が生まれるというわけである。これは少なくとも「気のせい」のレベルの問題ではない。

  フロイトは分析家である私にとってのヒーローだがからあまり悪く言いたくないが、心理療法の先駆けとなったフロイトの精神分析は、「患者の訴えを真に受けない」という姿勢の先駆けになったという所がある。それはそうだろう、患者の表面的な言葉には、しかし脳科学的な知見は、患者の訴えには十分根拠があったという事ばかりを教えてくれている気がする。

 最近の研究では、本連載の後半に私が扱った精神障害、例えば解離性障害、嗜癖、トラウマ関連障害等に関する脳科学の知見が教えてくれることは決まって次のことだ。つまり患者が描写する彼らの体験は一見意味をなさず、それは本人の意志が弱いのではないか、甘えているのではないか、という気持ちを起こさせるが、脳における機能の異常がどの様な形で関与しているかを知ることで、その訴えの深刻さをより理解できるようになるということである。

「体に悪いと思っているお酒をどうしても止められないんです」(依存症)

「違う場面で違う人と会っていると、別々の人格が出てしまう」(解離性障害)

「誰もそこにいないのは分かっているのに、人の姿がありありと見えてしまうのです。」(解離、精神病、薬物などによる幻視体験)