2023年8月28日月曜日

連載エッセイ 8の1

  第8回目は右脳問題である。今回このテーマについて扱う伏線は解離について論じた第6,7回目にあった。この流れで右脳について論じない手はない。

ちなみに右脳に関しては素晴らしい導入書がある。Robert Ornstein のThe Right Mind 右の[正しい]心 という、1997年出版の、少し古い本だ。

 私の今回の要点を申し上げよう。右脳こそが私たちの本音であり、true self であると言える。そして左脳はそれを正当化し、論理付け用としているに過ぎない。左脳の機能は驚くべきことに、偽り、糊塗する機能を有するとさえ言えるのである。かなり過激な言い方であるが、そこまで行っても言い過ぎでなないことについて述べたい。

 第6回の分離脳に関する記述をお読みになっていて不思議な感覚にとらわれた方はいらっしゃるだろう。分離脳の患者さんが右脳の心と左脳の心を持つという事情を説明した。左右の脳は相手のことなど構わず、独自に判断を下す。左右の脳に別々の絵を見せ、「見たものを描いてください」というと、右脳は視界の左側からキャッチした形を左手で描く。左側に見せた像は左脳が右手で描く。この場合左右の手は、特に混乱することなく同時に別々の絵を描くのだ。このことが、左右脳が「お互いを構わない」理由である。両方の脳が繋がっている「普通の」私達にはこんなことは出来ない。

 ためしに左右の手に鉛筆を持ち、右手で三角を、左手で四角を同時に描いて欲しい。ふつう私たちの手はどうしても左右で影響を及ぼし合い、どちらも上手くかけないものである。右利きの人が右手であれば問題なく描ける四角形を、ここまで邪魔する右脳はいったい何なのだろうか。

 ところが私たちは日常生活での様々な決断を下す際に、そこまで迷うことなどないのはなぜだろうか?左脳と右脳の機能はかなり異なるにもかかわらず、両者があたかも協調するようにして活動が出来るのはどうしてだろうか?

 分離脳の話に戻るが、このプロセスで右脳は何かを「考えている」のだろうか。恐らくそうである。左右別々の画像を見せると、例えばある女性の患者の右脳だけに性的にきわどい写真を見せると、顔を真っ赤にしてドギマギするが、左脳は「今日はとても緊張しているんです」などと言い訳をするのだ。(Ornstein,p.3)

 この言い訳の仕方はシレっとしている、というよりはそれがもう左脳の本来の姿かもしれない。左脳は言い訳をするということに後ろめたさがない。というよりはそういう倫理的な価値観を有さないのが左脳なのである。もしそうだとしたら驚くべきことだ。
 これに関しては反側無視という現象が知られる。これは右脳の機能を広範囲の脳梗塞などで失い、左脳だけになった状態に見られることだ。すると4割近くの患者さんが、左側のものを無視する。お皿の右半分のものしか食べなくなり、左から声をかけられてもそちらを向かなかったりする。右脳梗塞により左側の身体が動かなくなったことに対して、左脳は動いていますよ、とウソをついたり、これは私の体ではありません、と嘯いたりするのだ。(ちなみに逆に左脳の広範な脳梗塞の場合は、右側の無視という現象は起こらない。)


2023年8月27日日曜日

複雑系の脳と心 3

 ここで一つの表を示したい。これは砂山。地殻、経済、心のそれぞれについて、それが複雑系として、どのような臨界状況を有しているかを示したものである。


複雑系の

種類

基本となる揺らぎ

どのような臨界状況がみられるか?


砂山

常に降り注ぐ砂粒


いつどこに雪崩現象が起きるかわからない

地殻

プレートの動きや火山活動などにより常に生じる微震。

いつどこで大地震が起きるかは予測が付かない。

経済

常に個人投資家が少額の株を売買している。

いつ大暴落が起きるかは予測が付かない。

心

常に対人関係で影響を受け、また脳自体が揺らいでいる。

いつ洞察、ターニングポイント、出会い、悟り、トラウマが起きるか予測が付かない。


脳と心は臨界状況である

ここで脳や心が置かれる臨界状況の典型的なものについて挙げたい。

  • ようやくここであることを思い出しそうで思い出せない時。

  • あるアイデアが閃きそうな時。

  • 怒りの爆発をギリギリで抑えている時。

  • 解離状態において人格の交代が起きる時。

これらの時私たちは「考え」てはいない。「脳」が自動的に動いている(サイコロを振っている?)だけである。


2023年8月26日土曜日

複雑系の脳と心 2

 そしてもちろん、ここが肝心なのだが、私達の脳がまさに複雑系なのだ。そして複雑系を私たちが理解し始めたということは、脳の生み出す心についても私たちはようやく理解し始めたに等しいということである。これまで提唱されてきた様々な哲学理論、心理学、精神医学も例外ではない。それは少なくとも「複雑系」仕様ではなかったのだ。  世界を複雑系としてとらえ直す、とはどういうことかについて、心の問題とは直接関係ないが、一つ例を挙げておきたい。私たちが日常的に体験している地震を例に取ろう。地震は忘れたころにやってきて、それがいつ起きるかを予想することは極めて難しい。東海地震などは何度も予測されては肩透かしを食らってきた。しかしこの地震の起き方には、ある驚くべきルールがある事が分かっている。それは地震の大きさ(マグニチュード)と、その頻度の対数の関係を見ると逆比例の関係があるということだ。グーテンベルグ・リヒター則と呼ばれるこの法則は、1941年に発見された。これにより少なくとも地震の起きる頻度についての「予測」はかなり出来るようになっているのだ。

 このグーテンベルグ・リヒター則とはわかりやすく言えば、マグニチュードが1大きくなるとその頻度は十分の一になるということである。だから頻度を対数表示すると両者の関係は直線に表されるというわけだ。そしてこのような関係(いわゆる冪[べき]乗則  power law)が複雑系の性質を最もよく表現する法則なのである。そして驚かなくてはならないのは、このような法則が、20世紀の前半になってようやく発見されたという事実なのだ。
冪乗則は人間の関与する複雑系において生じる様々なものに当てはまる。例えば株価の急落とその頻度、各人の持つ富とその人口における割合、本の売れ行きとそれが生じる頻度・・・・。

臨界状況とは何か

 さて複雑系についてその面白さを語ると本一冊を費やさなくてはならないが、その中での肝の部分を紹介したい。それは臨界という現象である。それをなるべくわかりやすく紹介したい。
 複雑系においてはそこで様々な現象が起きるが、特に相転移という現象が特徴的である。それはそのシステムである事件が起き、それをきっかけにすっかりそれまでと様子が異なってしまうことだ。地震などはそうである。大きな地殻変動はそこに存在していたものを破壊したり根絶やしにしたりする。自然現象を考えると最も分かりやすい地震の例を出したが、火山の爆発などもそうだ。大きさによってはその周囲にあるものを溶岩で押し流し,地形をがらっと変えてしまう。株価の大暴落などもその例だ。相転移という現象としては、まず水が暖められて気化する過程を思い浮かべるだろう。それまである程度秩序だって集まっていた水の分子はバラバラになり、お互いにはるか遠方に飛び去ってしまう。液体という層から気体という層に変換することからその現象が相転移と呼ばれるが、火山も株価の暴落も比喩的な意味での相転移なわけである。

 そして複雑系において見られる相転移が意味するのは、あらゆる複雑系が、相転移の準備状態であるということだ。大地は地震や噴火が起きる前の準備状態。経済は株価の暴落を待つ準備状態。ただし皆さんはこうおっしゃるかもしれない。

「でも私たちは毎日平穏に暮らしていますよ。大きな事件(相転移)は例外的に起きることではないですか?」

 ところが相転移はそのサイズがピンからキリまであり、小さい相転移は日常的に起きている。ただ大きいもの、目立つもの、私達の生活に深刻な影響を与えるものはめったに起きないというだけである。冪乗則を思い出そう。物事の深刻さがワンランク上がることに、その頻度は10分の1など(実際に何分の一になるかは、その現象により異なる)に急速に減っていく。ということは小さい相転移なら私たちは日常的に体験しているということだ。

 たとえば東京に暮らしていると、小さな地震はしょっちゅう起きる。少し揺れたな、と思ってもすぐやんでしまう程度の地震は結構あり、ニュースにすら取り入れられない。しかしたまに、ヒヤッとするような揺れを感じ、テレビをつけると、数分経って地震速報が近隣の件で震度3の地震があったというような報道を聞くことが出来る。

 株の変動なら、日常的に取引をしている人にとってはもっと深刻だろう。株価の大暴落はめったに起きない、などと高をくくってなどとてもいられない。それこそただ一社だけの株を保有している人なら、小さな暴落、急騰はそれこそ分刻みで起きていることを知っているはずだ。
このように考えると臨界状況は常に起きている。ただそれに慣れてしまって、意識しないだけだ。でもこれは人間関係においても起きていて、だから人との実際の面会でヒヤッとする思いを私たちはしょっちゅうしているのだ。


2023年8月25日金曜日

複雑系の脳と心 1

 複雑系としての脳

 心について脳の観点から考える際には、まず話を複雑系というテーマに戻さなくてはならない。というのも脳はそもそも複雑系だからだ。ここで言う複雑系とは、それを構成する部分の間の交流が、部分そのものの性質からは予測できないような新たな性質を生むような系(システム)である。
 ところでこの複雑系という概念と少し似ており、半世紀前に一世を風靡した概念がある。それがいわゆる「構造」である。構造主義という言葉をお聞きになった方は多いだろう。筆者が大学生だった頃は、この「構造」の概念がもてはやされていた。クロード・レヴィ=ストロース、フェルディナンド・ソシュール、ルイ・アルチュセール、ジャック・ラカン等の名前が浮かんでくる。日本でも「構造と力」を書いた浅田彰氏等は時代の寵児のような扱いをされた。
 構造の概念自体は非常にダイナミックであるが、そこで生じる動きには一定のルールや法則が想定されていたというのが私の印象である。それに比べて複雑系システムにおいてはそこで起きていることが複雑すぎて、そのルールを知ることが出来ないというニュアンスを持つ。「構造」の場合はその仕組みを探求し、解明しようとするという私たちの意図があったが、複雑系の場合はむしろその様な努力を諦めているようなところがある。例えば「人体」は複雑系だが、そこでの法則を私たちは一律に知ろうとするだろうか?


2023年8月24日木曜日

意識についてのエッセイ 追加分

ずいぶん前に書いた「意識」についてのエッセイ。ゲラが返ってきて、A41ページ分の隙間が出来ましたから付け足して結構です、とのことだった。そこで最終的に以下のようになった。長さが1.5倍になり、得した気分である。途中の赤が今回の追加分。


「意識」についてのエッセイ

                            

はじめに


 今回この「意識」というテーマで文章を書くにあたり、現在非常に大きく取り沙汰されている生成AIについて最初に触れないわけにはいかない。というのも意識や心について考える際、それが生成AIにおいてもすでに存在し得るのではないかという疑問や関心はこれまで以上に高まっているからである。

昨年Googleの社員であったブレイク・ルモイン氏が、同社の対話型言語AI「LaMDA」がとうとう心を持つに至ったという報告を行った。

(Google AI 'is sentient,' software engineer claims before being suspended By Brandon Specktor published June 14, 2022)

 この発言がきっかけでGoogle社を解雇されたというルモイン氏の後日談は特に聞かないが、すくなくともしばらく前なら、心を持った存在にしか可能と思えなかったことを、現在の生成AIは行っているように思える。

私はこれまで、ある事柄を「理解する」ことは、人間の心にしか出来ない芸当だと考えてきた。私が言う「理解する」とは、その事柄について言い換えたり要約したり、それに関するいろいろな角度からの質問に答えることが出来るということである。要するに頭の中でその内容を自在に「取り廻す」ことが出来ることだ。例えば学生があるテーマについてきちんと理解することなく、ネットで拾える専門的な情報のコピペでレポートを作成したとする。彼はそのテーマについて頭の中で自在に取り廻すことが出来ないから、ちょっと口頭試問をしただけですぐに馬脚を現わしてしまうわけだ。

 ところが現在生成AIがなし得えていることはどうだろうか? あるテーマについて、内容を要約したり、子供に分かるようにかみ砕いて説明したり、それについての試験問題を作成することさえできるのだ。


Ⅰ 知性と心


この様な生成AIは少なくとも知性intelligence を有すると言えるかもしれない。いわゆるチューリングテストには合格すると考えていいのではないか。(まだ時々頓珍漢な答えが出てくるとしても、現在のAIのすさまじい成長速度を考えれば、愛嬌に等しいのではないだろうか。)

 ただしその様な生成AIが心を有しているためには、もう一つの重要な条件を満たさなくてはならない。それは主観性を備えているか、という点だ。たとえば景色を「美しい」と感じるようなクオリアの体験を有するかということである。そして現時点では、生成AIに知性はあっても主観性は有さない、というのが一つの常識的な見解であろう。(少なくとも私はそう考えている。私は折に触れてChat GPTに「あなたには心や主観性があるのですか?」と尋ねるが、「私には心はありません。」というゼロ回答ばかりである。)

そこで最近のクオリア論について少し調べてみると、かなり「脳科学的」であることに改めて驚く。クオリアは物理現象、たとえば神経細胞の興奮の結果として生じるという捉え方が主流となっているようだ。そして私たちが主観的に体験するあらゆる心的表象は、脳の物理的な状態に随伴して生じているもの(「随伴現象epiphenomenon」)に過ぎない、というのが、いわゆる「物理主義的」な立場である。

もちろんこの立場にはDavid Charmersらによる二元論的な立場からの反論もある。つまりクオリアの問題は物理学には還元できない本質を含んでいるという立場だ。しかしこのクオリア論争を少し調べてみようとすると、あまりに錯綜していて頭がくらくらしそうになる。そこでその代わりに前野隆司氏の理論に沿って考えたい。彼の説はクオリアにまつわる頭の痛くなるような議論を颯爽と回避しつつ、このテーマについての有用な指針を提供してくれるのだ。


Ⅱ 前野隆司の「受動意識仮説」


  前野氏は言う。「意識とは、あたかも心というものがリアルに存在するかのように脳が私たちに思わせている、『幻想』または『錯覚』のようなものでしかない」(前野2007, p.20)。そしてその錯覚には主体性や能動性の感覚も含まれると考える。少し長いが引用しよう。

「機能的な『意識』は、『無意識』下の処理を能動的にバインディングし統合するためのシステムではなく、すでに『無意識』下で統合された結果を体験しエピソード記憶に流し込むための、追従的なシステムに過ぎない。したがって『自由意志』であるかのように体験される意図や意思決定も、実は『意識』がはじめに行うのではない。」(同書、p.46)

この前野氏の立場は徹底して「物理主義的」であるが、クオリアの存在の生物学的な意義についても強調している。以下に述べるように、それは私たちの生存にとっての意味を持っていると考えられるのだ。


Ⅲ 意識という錯覚の兆すところ


 前野氏の言うように、脳に裏打ちされた私たちの心は、そのかなりの部分が数多くのニューラルネットワークの競合により(彼の言葉を借りるなら「小人たち」により)営まれていると考えられる (Edelman, 1990)。それはニューラルネットワークそれ自体が自律性を有している事を意味し、私たちの脳はいわば自動操舵状態なのである。私たちの意識はそれを上から監視している状態と言える。逆に言えば、脳が全く問題なく安全運転を行っている場合は、意識には何も上らず、記憶は形成されず、したがって何も想起されないということになるだろう。ただし前野氏によれば、監視しているという能動感自体も錯覚であることになる。

この様な意味で前野氏は、意識やクオリアや主観性という錯覚ないしは幻想は、エピソード記憶を作るという合目的的な進化の結果として生まれたとする。要するにクオリアを体験するのは、それをエピソードとして記憶にとどめ、重大な問題が生じたときに随時想起、参照するためなのだ。脳は意識的な行動をその様な重要案件のために取っておき、それ以外は自動操舵できるようなシステムを有していることが明らかになっている。

意識に関する有名な理論である Karl Friston の「自由エネルギー原理」はそのような文脈で理解できるだろう。Fristonによれば、脳の活動は常に予測誤差の指標である「変分自由エネルギー」を最小化する方に向かう。すなわち脳は外界からの情報をもとに、そこから期待される外界の在り方を推測し、体験を通して明らかになるその誤差を最小化するように自動的に働いているということを、数理モデルにより示し、大きな注目を集めている。


Ⅳ 脳科学的に見た意識と無意識

 

 最後にこのテーマについてもひとこと述べておこう。これまでに述べたように、知性はAIにも宿る。ただ人間(および多くの生命体)の場合、意識という幻想がそこに加わるのだ。 そして意識が幻想であるということは、意識も無意識の一部だと言っていることになる。そうすると、私達が通常行っている意識と無意識の区別には、果たして意味があるのか、という疑問も当然ながらわいてくる。

  正直な話、これまでの話との整合性を保つためには、私達の心はことごとく無意識により成り立ち、意識などあろうがなかろうが、十分に主体性や能動性を発揮する(かの)ようにふるまっているのだ、と言わなくてはならない。言い換えるならば、脳そのものの機能がいわば全体として無意識であり、そこに開けられたのぞき穴からたまたま見える部分を、私たちが意識と読んでいるに過ぎないということになる。前野氏も述べるとおり、意識は「追従的なシステム」でしかない。意識が無意識に影響を及ぼすということは全て錯覚ということになる。

 このような立場からすれば、「意識の働きが無意識に影響を与える」というような言説は意味を持たないことになる。しかし私たちはこのような考え方を普通に受け入れているのだ。例えば Freud は「自我を脅かす願望や衝動を意識から締め出して、それが意識されないままで保持する」ことを抑圧と称したが、それなどは典型である。

 もちろんこのように意識に自発性を持たせるような考え方が無意味というわけではない。むしろ人間の意識から見たらそのように思えるような現象を無意識(脳)が起こす可能性を示しているということなのだ。

  例えばあるAIと人間(Aさんとしよう)に、「この夏の避暑地としては軽井沢と那須高原ではどちらをお薦めですか?」と問うとしよう。AIは様々な条件を考え合わせたうえで「軽井沢の方がベターです。」と答えるとしよう。実際に客観的に見てその答えが妥当だとする。ところがAさんに同じ質問をしても、「那須高原の方ですね。」と答えるのだ。そこでAさんがあえて那須高原と回答した理由を考えると、一つの仮説が浮かび上がる。Aさんにとっては軽井沢という地名が、ある忘却された不快な記憶に触れる可能性があり、そのために無意識に軽井沢を選択することを避けていたのだ。実際にAさんは過去に軽井沢を何度か訪れており、かつて何かがあったのかもしれない。するとこれは Freud のいう抑圧が実際に生じていることを意味しているようにも見える。

  しかし実は問題はそれほど容易ではない。Aさんが通常なら選択していたはずの軽井沢ではなく、那須高原を選んだ理由はその他いくらでも考えられる。彼の脳が軽井沢を思考プロセスに算入させたかった原因を一つに絞ることはたいていは不可能なのだ。AIと違って身体と感情と、過去の膨大なエピソード記憶を備え、持って生まれた性質(素因、器質)を有する人間の脳は、そこにかなり頻繁に生じる勘違いや計算間違えなどが複雑に絡み合うことで、AIよりはるかに異なる意味を形成するのだ。 

 「私たちの意識は幻想で、無意識がすべての出発点だ」という現実が示してくれるのは、次のことだ。「謙虚であれ。心をわかったつもりになってはいけない。」

なにしろ最初にサイコロを振るのは常に無意識=脳だからだ。


Ⅴ さいごに


意識についてのエッセイということでかなり思いつくままに書いた。最近の生成AIの発展に気を取られがちであるが、それは翻って人の心の特殊性について再考する機会になっているかもしれないとも思う。


参考文献


Edelman, G. (1990) Neural Darwinism. Oxford Paperbacks. 

Friston, K. (2010)The free-energy principle: a unified brain theory?Nat. Rev.Neurosci, Vol.11, pp.127-138.

前野隆司 (2007) 錯覚する脳 ―「おいしい」も「痛い」も幻想だった.  筑摩書房.

2023年8月23日水曜日

男性性とトラウマ 文字起こし 4

 さてこれまでの論述から言えることは、男性の性愛性は多くの加害性を有するとともに悲劇的な色彩を持っているということである。一つの悲劇は、サイコパス性や小児性愛の多くは生得的なものと考えられ、それらの性質を備えた人は自らそれを選んだというわけではなく、生まれながらにして加害性を背負っていることである。もう一つはひょっとしたら侵入的、暴力的、サディスティックな性質は男性の性的ファンタジーや性行動にとって本質の一部ではないかということである。実は男性の性愛的なファンタジーが攻撃的な性質を有するということは、巷で言われているほどにはエビデンスはないという研究も見たことはあるが、ここでは詳しい話は割愛しよう。(実はこの発表の前にチャットGPT4に、男性のファンタジーがより暴力的だというエビデンスはあるのかと尋ねたところ、そのような答えだった。)
 しかしもう一つの、おそらく最大の悲劇性は、男性が性的な存在であることそのものが、すでに加害性を帯びている可能性があることである。私の患者さんで街に出ると男性がいるだけで、その男性から視線を浴びるだけでパニックが起きたり、場合によっては過去の性被害のフラッシュバックが起きるという方もいる。これは男性は女性に視線を向けることにも後ろめたさを感じる必要があるということなのだろうか?
男性は不感症」という議論と嗜癖モデル
 ここでこのテーマに関する学術的な論考を探し、森岡正博(2004)の「感じない男」ちくま新書)に行きついた。彼の理論は以下のいくつかの要点にまとめられる。

· 男性にとっての性的興奮の高まりは、その行為が終わることで一挙に消えてしまい、その快感の程度は極めて低い。
· それに比べて女性ははるかに強くまた継続的な快感を体験し、それに対して男性は羨望の念を持つ。
· それが女性に対する攻撃性として表れることがある。

 さて私はこの森岡氏の議論に一部賛成で、一部は意見が異なる。それを含めて、男性の性愛性と嗜癖モデルということでここで提示したい。
 まず一つ言えることは、男性は不感症とまでは言えないかもしれないが、その性的な欲求は、それが楽しさや心地よさには必ずしもつながらず、ただエクスタシーを求めて突き進むというところがあるということだ。男性の性的満足の機序は、嗜癖モデルにも似て、 いわゆるincentive sensitization model (ISM)に従った理解をすることが出来る。すなわち性的な刺激を受けると抑えが効かないような衝動が生まれる。
 男性が性的満足を追求する時、目の前の対象と共に心地よさを追求するということからはどうしても逸脱する。男性はその瞬間は別の人を想像している。これは女性をモノ扱いすること objectification に繋がる。
  ここで参考までに、この incentive sensitization model(ISM) について一言説明したい。
嗜癖行動においては、最近liking と wanting は違う、という議論をしばしば耳にする(Berridge, 2011)。そして嗜癖が生じると、人は liking (心地よく感じること)よりも wanting (渇望すること)に突き動かされる。つまり心地よくもないことに駆り立てられることになる。すると何らかの刺激 cue は wanting を著しく増大させるが liking には変化を及ぼさない、という奇妙なことが起きるのだ。男性においては性的な衝動が刺激により生じると、強烈な渇望が生まれ、それを途中で止めることが非常に難しい。
Berridge, K. C., & Robinson, T. E. (2011). Drug addiction as incentive sensitization Addiction and responsibility, 21-54. The MIT Press.

2023年8月22日火曜日

男性性とトラウマ 文字起こし 3

サイコパス性について

 サイコパスと見なされる人々は圧倒的に男性に多いことを前提として話す。だからこそこの論述で取り上げるべき問題なのである。

 まずサイコパスの定義としては、良心の欠如、他者に対して冷淡で共感性がない、慢性的な虚言、罪悪感が皆無、自分の行動に対する責任を取らない、自尊心が過大である、口が達者で、表面上は魅力的である、などの特徴を有する(R.ヘアのチェックリストより)。

このサイコパス性については、それがかなり生物学的に、あるいは遺伝的にさだめられているということが言われている。たとえば脳科学的には扁桃体や眼窩前頭皮質等に異常が見られることが多い。

 また遺伝率(※)は40~70%程度とされる。これはかなり高い値だと考えるべきである。

※ 全表現型分散に対して遺伝分散が占める割合で定義される。量的遺伝学において平均への回帰の程度を示す量であり、小さいほど回帰が大きい。

 そしてサイコパスは従来は治療は不可能とされてきた。今でも多くの臨床家は同じような意見を持っている。不治の病、と言ったところだが、もちろん本人たちはこれを「病」とは認識していない。

小児性愛について

 もう一つが小児性愛、ペドフィリアである。これは後期思春期以降(16歳)で、思春期以前の子供(13歳以前)に対してのみ性的な興味を持つことと定義される。いわゆるパラフィリアの一つの形態とされる。そしてこれも圧倒的に男性に多い。(パラフィリア自体が圧倒的に男性に多い。パラフィリアの他の形である覗きや露出を好んで行う女性、ということは普通はイメージできないだろう。)

 小児性愛は原因は不明であるが、神経学的異常と心理的な病理が複雑に関係していると考えられている。たとえば遺伝負因は明らかでないが、低知能、低身長、高い左利き率、幼少時の頭部外傷(失神を伴う)が関係していると報告されている。

 小児性愛の遺伝率は14%といわれるが、ここがサイコパスと大きく異なるところである。つまり遺伝負因を背負って生まれたということはパラフィリアに関してはない。もちろん幼少時から小児性愛の傾向があったということもあり得ない。(幼稚園児の頃からおなじ幼稚園児の異性に興味を持つことは、決して異常とは言えないからだ!)しかし思春期を過ぎて気が付く。「自分は思春期前の対象にしか性的な興味を持てない ・・・・」)そしてそれはその語一生続くのである。その意味では小児性愛も運命であり、通常は生涯にわたる障害である。つまり治療は通常は不可能と考えられているところがサイコパスと同様である。