2021年12月14日火曜日

学ぶこと 4

 B. 離脱のプロセス

私は以上のプロセスを「取り入れのプロセス」として描いたが、それはあなたがおおむねその教育機関での方針を受け入れ、実際に取り込んでマッサージ師になっていくだろうからだ。しかし次に論じる「離脱のプロセス」はこの「取入れのプロセス」においてはすでに静かに始まっていた可能性がある。
 先ほどすでに述べたことだが、あなたは教育マッサージを受けつつ、その上級者のマッサージのやり方をそのまま受け入れるとは限らない。というのもその上級マッサージ師とのすれ違いが、より頻繁に起きるかもしれないからだ。「そこ、もっと力を入れてやってくれませんか?」とあなたは要求するかもしれない。すると上級マッサージ師は「わかりました。ではそうしてみましょう」と言うかもしれないが、「いや、ここはこのくらいがいいんですよ。私の経験上そうなんだから」と言うかもしれない。また教育マッサージ師が次のように言ったとき、あなたの反応は込み入ったものになるだろう。「今は少し痛いかもしれませんが、きっと後で効いてきますよ。」「本当は気持ちいいはずですよ。あなた自身がそれに気が付かないだけです。」何しろあなたはそれを受けている張本人であるから、「どうしてあなたに私の気持ちがわかるの?」と疑問に思ってもおかしくない。
 そのような対応を何度か受けるうちに、あなたはもう少し教育マッサージ師にチャレンジしてみたくなるかもしれない。「そこの部分はもう少し優しく揉んでほしいといつも言っているのに、どうしてやり方を変えてくれないんですか?」あなたが少しきつく教育マッサージ師に不満を言うとすればそれなりの訳がある。というのも教育マッサージでは、それを受ける側は、心に浮かんだことを何でも言っていいということになっているのだ。しかしあなたは少し躊躇する。そして心の中でいろいろ考えるのだ。「この教育マッサージ師には随分お世話になったし、あまり文句ばかり言って機嫌を損ねられても困るから、このくらいにしておくか。それに狭い業界だから、これからお世話になることもあるし。」あるいは次のように自分に言い聞かせるかもしれない。「しかし待てよ、ここで教育マッサージ師ととことん問題のありかを明らかにすることが、自分がこれからマッサージ師として独り立ちをする上で大事かもしれない。」気が付くとその教育マッサージ師とのかかわりは5年に及んでいる。そろそろ潮時かもしれない。それに私もマッサージ師として随分自信もついてきたし。
 おそらくこのプロセスはこれまでの取り入れや受容のプロセスとはずいぶん違うことになるであろう。私はこれを離脱のプロセスと表現するが、それはいくつかの形をとる可能性がある。一つにはあなたが「この先生にはもう何を言っても通用しないな」とその上級マッサージ師を心の中で見限る場合があるだろう。そしてこれはかなり平和的に行われる可能性がある。あなたは上級マッサージ師の先生にあまりそれ以上ダメ出しをせず、静かに教育マッサージの過程が終了するのを待つかもしれない。もちろんそこにはその先生に対する不満ばかりが残るわけではない。ここまでよく体をほぐしてくれた、おかげで自分は生まれ変わったという感謝の気持ちもあるのが普通ではないか。
 しかしもう一つの離脱の仕方は少し荒波が立つようなやり方かもしれない。それは「私が本当に目指しているのは、先生のやり方とは少し違ったやり方です。それがようやくわかりました。私はこれからは別のマッサージ師について修業します。」という、一種の決別や喧嘩別れといった形をとるかもしれないのである。
 このあたりからマッサージの比喩にも限界があるので、実際の教育分析に即して考えたい。教育分析の場合には、あなたの体のどこが凝っていて、それが教育マッサージ師によってどのように揉みほぐされていくかということが中心テーマではない。あなたが分析家に自分自身のことを本当にわかってもらえて、受け入れられていると感じることができ、的確な指摘や解釈を与えてもらい、そしてカウチの上でできるだけ抵抗なく話すことができるようになるかどうかが最も重要な問題である。とはいえこれは教育分析であるため、そこには治療と同時に教育やガイダンスのニュアンスも伴っていることを、あなたもあなたの教育分析家も互いに前提としつつセッションが行われるはずである。そして最初は教育分析家の言動を「自分がクライエントを扱う際の見本」として体験しているかもしれないが、そのうちそれどころではなくなる。この人は私とどうかかわっているか、信用するに足る人間なのか、自分の秘密をこの人に話して大丈夫なのか、などの問題の方がより重要になってくる。これはあなたが分析家との間で本格的な転移関係に入ったから、と言ってもいいかもしれない。そしてこれが離脱のプロセスの始まりである可能性がある。
 教育分析家がいかにかかわってくるかという問題が非常に重要なのは、それがあなたの気分をかなり大きく左右するからである。週に4回ないし5回のセッションを受け、それなりの対価を払うというプロセスにおいては、分析家はあなたがかかわりを持つ人間関係の中でかなり大きな部分を占めることになる。あなたは分析家に依存的になるかもしれず、また理想化の対象とするかもしれない。すると自分の人生について話すことで、分析家の頷きやコメント、直面化、ないしは解釈の一つ一つが特別な意味を持ってくるはずである。当然のごとく、分析家の一言に反発したり、疑問を呈したりということが出てくるだろう。そしてそれが分析でどのように扱われるかはその後の治療を左右するほど重要なことになるだろう。
 あまり抽象的な話になってもよくないので、もう一つ例を挙げよう。私は自分自身の分析の体験で、分析家の言ったことにかなり不満を覚えたことがある。ある時「自分に自信が持てないというのは私だけの問題でしょうか。先生は同じような訴えをほかのクライエントからも聞きますか?」と問うた。私は分析家に質問をぶつけることは少なかったので、これは明らかに例外的な出来事だったのだが、よほどこのことを分析家に直接訊ねたかったのだろう。そしてその時分析家の言ったことをはっきり覚えている。「ほかの人がどうか、ということは問題ではないのです。あなたがどう体験しているか、というあなた自身の問題としてここで扱うことに意味があるのです。」
 私はこの分析家の言い方にかなり抵抗を感じ、分析家に「今の言い方にはちょっと納得できません…」と言ったと思う。そのあとのことを私ははっきり覚えていないので、おそらく大きな問題としては発展しなかったのであろうと思う。そして私の分析家の応答の仕方は私を納得させるか、あるいは引き下がらせるのに十分なものであったのだ。しかし分析家の応答の仕方によってはここから大きな対立に発展したという可能性もある。もし私がこの「それはあなた自身の問題であり、ほかの人のことは関係ない」という返答の仕方に一種の不誠実さや欺瞞を感じたとしたら、もう少し食い下がったのではないかと思う。そしてここでとても大事なのは、この種の齟齬に誠実に向き合ってくれるかどうかでその分析家の度量の大きさがわかるということである。幸い精神分析ではクライエントは何を言っても許されることになっている。不満や憤りは抑えられるべきものではない。もちろん分析家だって教育分析家になれば、クライエントからの攻撃性の表出には慣れているし、覚悟ができているはずである。そしてこの分析家への不満や考え方の齟齬はゆっくり治療の中で扱われていくのである。私がこの問題でいかに分析家と対決してそれなりの解決を見出したかはこれ以上は触れないが、少なくとも私の分析家ドクターKはそれに根気強く付き合ってくれたことだけは確かである。
 私は精神分析においていろいろな対決が生じる場面としては、教育分析よりもスーパービジョンの方が多いような気がする。そこではあるケースをめぐってあなたの考え方とバイザーの考え方に違いが生じる。そしてそれはあなたがどの程度治療者として自己を確立しているかということにかなり大きく関係している。そこで生じうるのが、私が最初の例で示したような事柄である。あなたはAという扱いをしたが、バイザーはBとすべきではないかと提案する。そして両者がなかなかかみ合わなかったりする。あなたは結局BではなくAを選ぶことになるかもしれないが、それはそのスーパービジョンを継続することに意味があるのか、という問いにも発展するかもしれない。私もそのような体験をしたことがあるので、その経緯を述べたい。(以下略)

2021年12月13日月曜日

学ぶこと 3

 A.取入れのプロセス

教育分析のプロセスがはじめは取入れのプロセスであることは論を待たないであろう。その分野において初心者である場合には、教えられたことはなんでもその通りに取り入れるということは、むしろ安全で確実なことであろう。
 ここからは一つ比喩を思い浮かべよう。貴方がマッサージ師になりたいとする。調べると自宅近くに「分析的マッサージ養成所」という不思議な名前の付いた養成所があったので、そこに入会することにする。そこでは、自分が指導を受けつつ人に施術を行うというトレーニングとは別に、「教育マッサージ」というのを受けなくてはならないという。それは上級のマッサージ師(「教育マッサージ師」という資格を与えられている)に実際にマッサージをしてもらいながら学んでいくというシステムだという。自分の体のケアをしてもらいながら、他人の体のケアの仕方を学ぶ。そこには「マッサージをする人は、される側の体験を持つべきである」という基本精神も謡われており、それはとても理屈にかなっているように思える。
 あなたはともかく「教育マッサージ」を受けてみる。週4回、50分というのはきついシステムだが、幸い料金が安いので受けることにする。まずあなたは「教育マッサージ師」に
体のどこが凝っているのかを聞かれる。ここで「どこも凝っていません」とは言えない雰囲気である。「自分の体の凝りを否認し、抑圧している」などと言われかねない。それにこの「分析的マッサージ養成所」に入所した時、「まずは自分の体のどこがどのように凝っているかを知るところから、真のマッサージ道が始まる」というような講義を聞いたことがある。さらに本当に体のどこも凝っていないかと自問すると、自信がなくなってくるものだ。そこでちょうど腰のあたりが少し凝っている気がしてきたので、そこからほぐしてもらうことにする。こうして週4回の「教育マッサージ」は始まるが、それはどのように進んでいくだろうか?

 あなたは上級のマッサージ師に体を揉んでもらううちに、多少なりとも凝っているところがいくつかあることを自覚する。そして「ああ、こうやって揉んでもらうと楽になるのだ」という体験を幾度となく持つだろう。どのような揉み方をしてもらえば痛くもなくくすぐったくもなく、ちょうど「いた気持いい」のだ、ということを学び、自分もそのようにマッサージを客に対して施してみようと思う。またその上級マッサージ師の客扱いのマナーや客への声のかけ方なども、実際にされていろいろ参考になる。というよりは最初はそれ以外のやり方はありえないと思うかもしれない。そして少し遅れて始まる実際のお客さんを相手にした訓練でも、自分がマッサージをしてもらったのと同じようにお客さんにすることになるだろう。
 ただこの比喩を続けると、あなたはおそらくその教育マッサージ師からは、学ぶことだけではないであろうことが分かるだろう。その教育マッサージ師は教師であるとともに反面教師でもありうるという事がやがてわかってくるはずだ。実際身体を揉んでもらっていても、「それちょっと違うんじゃないかな?」と思うことも増えてくるかもしれない。最初は教育マッサージ師のマッサージの仕方はどれも正解だと思っていたが、少しずつ疑問がわくようになってくるのだ。それにマッサージを自分自身でも施術するトレーニングが進むにつれて、「ここは自分だったらこうするな」と思うことも増え、また上級のマッサージ師は案外迷いながら、手探りでマッサージをやっているんだな、という事もわかってくるだろう。
 さてあなたは教育マッサージを受けつつ、自分自身もお客さんを取って低額でマッサージを施すことになる。これには「コントロールケース」と呼ばれるそうだ。こちらはどうなっているだろう? このコントロールケースはあなたがお客さんにどのようなマッサージをしたかを上級のマッサージ師に報告して、ここをこうしたらよかった、などの助言を聞くことになる。これがマッサージ・スーパービジョンと言われる。そしてこのコントロールケースを無事二例継続して行わないと、訓練の過程を卒業できないという。そして途中でマッサージに来なくなってしまうと、最初からやり直しというシステムもあるそうだ。もちろんこれはこれでとてもあなたにとって参考になるのだが、自分自身が受ける教育マッサージと、自分自身が施術するコントロールケースではある種の質の違いを感じることにもなる。

例えばあなたがマッサージ・スーパービジョンで、スーパーバイザーから「あなたはAという揉み方をしたが、そこはBという揉み方をするべきだった」という助言を受けることがある。あなたは実はそれについてあまり納得がいかないとする。しかしスーパーバイザーにそのように反論しても、「いや、お客さんの側からは、Bの揉み方が心地よかったはずですよ」と言われた場合、それで終わってしまうかもしれない。つまりその時のお客さんに詳しく確かめることが出来ないのである。ところが教育マッサージでは、何しろ自分がマッサージを受ける側なので、ある意味では正解を自分自身が知っていることになる。

こうしてあなたは教育マッサージとスーパービジョン付きのコントロールケースを無事終了し、そして週末に4年間にわたって行われるマッサージ理論を学んでその「分析的マッサージ養成所」の過程をすべて終了し、一人前のマッサージ師として巣立っていく。

2021年12月12日日曜日

学ぶこと 2

 

2.教育分析、またはパーソナルセラピーについて

次に私が話を進めたいのは、パーソナルセラピーを通して関係精神分析をいかに学ぶということであるが、これは実はかなり混み入ったテーマである。いわゆる「教育分析」という概念は、特に精神分析の分野ではかなり私たちに馴染みがあるはずだが、このプロセスで起きうることは実はとても複雑なのだ。

従来教育分析には、教育、指導する、という意味と治療するという意味が両方含まれていた。実際に自分自身がある意味では実験台になって、上級者にお手本を示してもらえるという意味では、実に分かりやすく効率の良い学び方と言える。人によってはこれこそが究極の学び方と考えるであろう。
 精神分析には、一つとても興味深い慣習がある。それは教育分析を受けた被分析者は、その分析家の学派に属するようになることが多い、というものである。もちろん例外はたくさんあろうが、いわば世襲制のようにある経験豊富な分析家が後継者を育てていくことをあまり疑問に思わない。それだけそのような例を私たちはたくさん知っているのである。
 例えば父親であるフロイトに分析を受けた(ただしそのことはあまり公にはされなかったが)アンナ・フロイトは、父親の死後は彼の精神分析理論の守護神のようになったことはよく知られる。あるいはメラニー・クラインに分析を受けたハンナ・シーガルやジョアン・リビエールは当然クライン派になるし、ウィニコットに受けたマスッド・カーンはウィニコッチアンと目される。フェレンチに教育分析を受けたバリントはフェレンチアンである。コフートに分析を受けた人たちでコフート派にならなかった人はむしろ例外的であろう。
 しかしこれがどうして当たり前の様に考えられているのかについては、一度問い直す必要がある。少なくとも私が考える限り、どのような治療スタイルを選択するかには、その人の性格や感受性、人生観などが大きく影響しているはずだ。○○派の先生に分析を受けたぐらいで簡単に○○派になれるものだろうか? 私の考えでは、ちょうど芸能や習い事の世界で弟子が師匠の後を継ぐように、精神分析の世界でも被分析家も分析家の後を継ぐような慣習がきっとあるのだと思う。少なくとも教育分析と言われる分析についてはその様なことが起きているのだ。
 でも私の考えでは、そもそも精神分析とはそのようなことが起きる場では必ずしもないはずだ。精神分析はある意味では分析家との対立であり、戦いであってもおかしくないだろう。戦い、対立を通して、被分析者は自分の進む道を見つけていくのだ。ところが教育分析では本来の分析とは異なる、一種の教育のようなもの、それは弟子が師匠の理論を引き継ぐという、いわば家元制のようなプロセスが生じる。そしてはある意味では馴れ合いも生じ、おそらくそれは純粋な心の探求というものとはかなり質の違うものとなる可能性がある。そしてこの馴れ合い的な関係は教育分析ではない、一般の分析においてもある程度は生じる可能性があるものと思われる。

2021年12月11日土曜日

学ぶこと 1

 半年ほど前にまとめたものを正式な文章にすることになった。

精神分析を学ぶという事                           

  

1.まずは「学び」、そして「学びほぐし」という事

  私が臨床家や心理を学ぶ学生から問われるのが、「心理療法や精神分析をどのように学ぶべきか?」という事である。本稿ではこの本質的でかつとらえどころのない問いについて、私の個人的な体験を交えて考察を加えたい。ちなみに私はかつて2017年秋の日本精神分析学会の「精神分析をいかに学んだか」という企画で、「精神分析をどのように学び、学びほぐしたか?」というタイトルで発表し、その発表の内容が論文化されたという経緯がある。そこで書いたことを復習しよう。以下はその発表の内容である。

  かつて精神療法の技法論についてのセミナーで、何人かの講師とともに話をしたことがある。その時あるテーマが議論を呼び起こした。それは「患者からのメールにこたえるべきか」、という類の話題であった。そのセミナーは複数の講師が担当していたが、講師によりその問いに対する答えが異なっていたらしい。ここで「らしい」というのは前の講師が話を終えて帰るのと入れ替わりで私が話をしたので、その講師も私もお互いの講義の内容を聞いていないからである。

そのセミナーでは私が「そのメールに答えるべきである」というようなことを言って、別の先生が「答えるべきでない」と言ったのか、その逆だったかはわからない。しかしともかくも両方の言うことがかなり異なっていたということである。そしてそれを聞いていた聴衆の方から、後で苦情があった。講師が同じ質問に対して違う答え方をしたので混乱したというのである。

私はこの苦情のことを知った時一瞬「しまった、受講生を混乱させてしまった」と焦った。しかしその考えに対して、別の自分が突っ込みを入れているのを感じた。「ホラ、こここそ皆さんに学ぶという事の意味を伝えるときじゃないか。」と。そこで私はこの苦情について、次のような応答の仕方をした。

「異なる先生が異なる意見を持つというのは臨床場面では日常茶飯事です。そして異なる専門家が違う意見を言うという事は、そこにおそらく正解はないという事を表しているのでしょう。そしてこれからのみなさんの課題は、どちらの言い分がすんなり飲み込めるか来るかを判断し、ご自分で判断することです。もちろんどちらに決めなくてもいい場合も少なくありません。意見が分かれるのはほとんどがケースバイケースのことですから。そして断っておきますが、いかなる先生も、どちらが正しいかを教えてくれないという事です。」

そしてこのプロセスで重要なのがいわゆる「学びほぐし」のである。(ちなみに似ている概念として、フロイトの学習learning と事後学習after-learning という区別があり、少し関連性がある。)精神療法を学ぶためには、この「学びほぐし」が重要なのである。

そこでこの「学びほぐし」という言葉について説明しなくてはならない。この言葉は、哲学者である故鶴見俊輔さんがかつて作った言葉である。彼が若いころにヘレンケラー女史と面会をした際、彼女が自分は「沢山学んでは脱学習しました I learned a lot and then unlearned them」と言ったのを聞いて、即座に鶴見先生の頭には「学びほぐし」という言葉が浮かんだのだという。ちょうど編まれたセーターの毛糸をほぐして自分自身のセーターを編む、というニュアンスをそこに込めたようだ。つまり学びほぐしとは、いったん教わったことを改めて自分のものとすることだ。

 

 

 

そもそも物事を学ぶという事は「ABである」とか「●●はしてはならない」などのいくつかの決まり事を頭に叩き込むプロセスと言える。しかしそれを深く学んでいくうちに、「ABであるという教えはこのような根拠から生まれたのだ」とか「●●はしてはならない」とはあのような意味が込められていたのだ、と知ることで、逆に「でもABではないこともあるな」とか「●●はしていい場合もあるな」という考えが生まれ、これらの決まりごとが常に正しいわけではないことが分かってくる。そこから先は「いつ、どんな状況でABなのか?」とか「●●してもいいのはどんなときか」という自分にとっての判断の基準を作っていくというプロセスに入っていくべきであり、それがこの「学びほぐし」だと言える。

ではそもそもどうして学びほぐしが必要かと言えば、ある理論はそれを作った人思い付きや気まぐれがかなりの部分を占めているからだ。ここではとくに精神分析を考えよう。

フロイトの理論には素晴らしい概念や発想と、彼の誤りや気まぐれの産物ではないかと思えるものが混在している。フロイトは天才だったが、天才はいくつもの真実を発見するだけではない。いくつものミスショットもあるのだ。霊能力者と言われる人たちでも、その発想や直感のいくつかは真実であってもその他の多くが誤っているものであるが、それと似ているのだ。そしてフロイトの理論の中にも、無意識や転移や抵抗と言った優れた概念もあれば、リビドー論、死の本能などのように、後世の分析家にあまり受け入れえられなかった概念もある。そしてその中間にある多くの概念は、それが当てはまるかどうかはケースバイケースとしか言えないものもある。例えば「人間は想起する代わりに反復する」という言葉も、素晴らしい考え方ではあるものの、例外もまた見出すことが出来るというわけだ。

フロイトが治療原則として掲げた、匿名性とか禁欲原則、受け身性なども、同様である。これらはどの患者との治療においても守らなくてはならないものではなく、相対的なものであり、ケースバイケースであるということを、グレン・ギャバード先生がそのテクスト「精神力動的精神療法」の中で喝破している。だからフロイト理論を学ぶことは、必然的にその理論のどれを自分のものとするかにおいての取捨選択がどうしても必要になるのである。

 

さて学びほぐしは、師弟関係でも、バイザーバージ―関係でも起きる。フロイト全集を何度も読んでまずは学び、それを学びほぐしていくことはできるが、多くの場合私たちは実在する師匠やバイザーとの交流の中で何かを学ぶ。そしてその学んだものをほぐしていく過程で、彼らとの一種のバトルは必然的に起きてくる可能性がある。そのことを次に論じたい。

2021年12月10日金曜日

偽りの記憶の問題 6

 という事でこれからは少しずつこの本を読んでみる。と言ってもキンドル版なので書き込みも出来ず不便だが、流し読み程度ならできる。P.401あたりには、1994以降のSpanos らの研究があり、被検者は自分たちの眼球運動や視覚的探究の能力が高く、それは生まれた病院にカラフルなモビールがつるされていたからだ、と伝えた。これはもちろん嘘の話だが、今度はその被検者たちに年齢退行催眠を施し、生まれた時のことを「思い出させ」たという。すると51%の被検者がカラフルなモビールのことを「思い出せた」、という結果が得られたという。

という事でこの本を読み進めようとしていたら、新たな事実が発覚。実はこの本には日本語訳があり、私はこれをすでに持ってパラパラとは読んでいたのだ!!!

そこで今後はこれを読み進めていくことになる。日本語だから助かる!


2021年12月9日木曜日

偽りの記憶の問題 5

  さてトラウマ記憶を想起させると、その時間に応じて3つのフェーズに分かれるらしい。再固定化期(最初の1分)、移行期、消去期(3から10分)である。大切なのは、再固定化も消去も、タンパク合成が伴うという事だ。つまりはシナプスを工事しなくてはならない。(忘れると言ってもただで忘れていく、というわけではないのかもしれない。例のエビングハウスの曲線も、ただダラダラと下がっていくのではない???ここら辺は私にもよくわからないが、まあ先に進もう。)そのことはタンパク合成を阻害する薬を注入すると、再固定化も消去も両方とも阻害されるからだという。ちなみにタンパク合成が行われるのは、再固定化なら扁桃核と海馬であり、消去は扁桃核と内側前頭前野だという。
 ところで私はこれを先述の論文を参照しながら書いているが、ここら辺までは追えたが、論文はさらに難解になって行ってこれ以上読み進められなくなったのでこのくらいにしておく。ともかくも記憶が増強されたり、逆に薄れたり、というメカニズムは結構込み入っていて、これから解明されなくてはならない点は多いが、かなり治療に直結した重要な研究であるという事である。

 ところで私が書こうとしているのは「偽りの記憶」についてのものだが、この再固定化や消去という現象はそれと関係しているのだろうか?一つ言えるのは、ある記憶が再固定化を繰り返した場合に、その内容にどのような変化が起きるのか、という問題が関係しているであろうという事だ。例えば記憶内容は「コンビニにコーヒーを買いに行った」だとしよう。その記憶が増強されていったら、その記憶にいろいろな尾ひれがついていくのであろうか? 例えば実際にコンビニにコーヒーを買いに行った場合、コンビニに行く途中で体験したこと、コンビニでほかに手にした商品についての記憶なども一緒に覚えているであろうが、だんだんエビングハウスの曲線に従って忘れていくであろう。ところが「コンビニにコーヒーに行った」という事だけが再固定化されて増強していったら、途中で見たものなども一緒に残っていくのか、それとも「新たな尾ひれ」が付け加わるのか。想起されるのがコンビニにコーヒーを買いに行ったことだけであるなら、それが生々しく保存する際にはその周辺部も必ず一緒に思い出される筈である。するとそれが新生されてしまうことはないのか。おそらくこの辺が偽りの記憶とも関係しそうである。なぜならロフタス先生をはじめとするFMS派の先生方の実験は結局は子供に架空の話を何度か教示することでそれが定着してしまうというパラダイムに従っているからだ。

2021年12月8日水曜日

偽りの記憶の問題 4

 昨日は東大の喜田グループの最新研究の「まとめ」を私なりに書き直して示したが、読んでも分かりにくかったかもしれない。そこで私なりにさらにもう少しわかりやすくまとめ直してみる(と言っても自分でも十分に納得していないので、ちゃんとわかりたいからに過ぎないが)。
 まず私たちはある出来事を記憶する際、特に印象に残った記憶は海馬が強く働いてそれをよりしっかりと記憶にとどめる。しかしそれでも記憶は次第に忘れていくものだ。それを心理学用語で消去という。これは時間経過とともにいわゆるエビングハウスの曲線に従って忘れられていくと考えられる。この図に書かれた一番下の黒い曲線がそれに相当する。


これを見る限り、何と一日後には40パーセントくらいしか覚えていないが、繰り返し復習すると記憶の定着度が高まるというわけである。それが赤線部分が示すところだ。(ちなみに記憶した内容は一晩寝た後にはより多く定着するという研究がなされている。)つまりある印象深い内容は、最初に強く記名されるとともに、何度も思い出されることで「復習」という効果があり、それだけ定着していくというわけだ。そしてここでの記憶は一般的なものであり、トラウマ記憶に限ったことではない。例えば、辛い出来事、驚いた出来事以外にも、嬉しい出来事なども何度も反芻するから長く記憶に残るというわけである。

 ではトラウマ的な記憶はどうだろうか。すでに書いたように、いやな記憶は何度も反芻され、それだけ定着しやすいという事が言える。でも単に嫌な、怖い出来事、というだけでなく、PTSDで問題になるような明らかなトラウマ記憶はどうだろうか?

 トラウマ記憶は通常の記憶と異なる性質を有するという事が知られている。一番の特徴はそれが通常の記憶と異なり、いわば情緒的な部分が時空間的な情報の部分と別れてしまったものである。これについてはかつて「忘れる技術」という本を書いた時に、記憶は認知的(「頭」の)部分と情緒的な部分と情緒的(「体」の)部分の組み合わせであるという説明の仕方をした。前者は時空間的な情報の部分であり海馬で作られるが、後者は扁桃核や小脳で作られる。一般的な記憶はその両方を備えているのがふつうであるが、それが分かれてしまい、例えば体の部分のみになってしまったり、両者はバラバラに思い出されると言ったことがトラウマ記憶の特徴であると説明した。
 さてその上で喜田グループの研究である。彼らはPTSDで生じるようなフラッシュバックを伴う記憶がどのように形成されるかを長年にわたって研究してきた。フラッシュバックとはあることを思い出そうとしないのに突然襲ってくる記憶である。それはトラウマ記憶として理解でき、つまり認知的部分と情緒部分が分かれてしまっていて、襲ってくるのは情緒的な部分のみである。それは自分でもよく分からないような何らかの切っ掛けで突然襲ってくる。その詳しいメカニズムは十分に分かってはいないが、一つたしかなのは、その記憶の想起の仕方が、その後その記憶がどの様な運命をたどるかに関係しているという事である。特に興味深いのは、トラウマ記憶は、そしておそらく記憶一般は、それを思い出すという事で一時的に「不安定」になるという事だ。不安定、とはそれがその後より強く記憶され続けるか、それとも忘れられていくかという選択肢を与えられるという事である。誤解を恐れず比喩を用いるならば、それまでパズルの一つのピースとして治まっていたものが、それを思い出すことでそこから外れ、それから先にどのような形で嵌っていくかが未定になるという事である。そして彼らが見出したのは、トラウマ記憶を思い出す時間が短いと、その記憶はよりしっかりと定着し(つまりそのピースはよりしっかりと嵌り)、思い出す時間が適度に長いと(例えば10分以上)それは薄れる方向に働く(つまりピースはサイズが小さくなったり、より外れやすくなる)という事だ。これを私はサラッと書いたが、実は臨床的にとても大きな意味を持つ。ある種のトラウマ記憶を短時間思い出しただけではそれは消える方向にはいかない。どうせ思い出すなら、安全な環境で10分以上思い出す必要があるという事だ。そしてひょっとしたらこのことは、EMDRがどうして有効な場合があるかとも関係しているかもしれない。EMDRではかなり時間をかけて個々のトラウマ記憶を想起し、作業を加える。それがその記憶の消去に繋がるのではないかという考えにも一理あるだろう。