2017年11月21日火曜日

甘えの裏側の病理 2

2.相手の気持ちを読む器官としての「皮膚」

日本社会には西洋にあまり存在しない表現がある。それは「空気を読む」(字義通りには、”read the air” となる)という表現である。辞書的には、”read the situation”、”take a hint” などと訳されることもあるが、いまひとつ語感を伝えていない。「空気を読む」とは、集団において、非言語的な想定や要求が生じていることを察知し、それに応じることである。たとえばある会議などで、席次などが定められていなくても、誰がどこに座るかについては暗黙のルールがある。いわゆる上座と下座という表現がそれを示す。それを無視して下座に座るべき人間が上座に座ると、その人はたとえおおっぴらに非難されないとしても、「空気が読めない人」という烙印を押されてしまい、その集団から疎まれる運命にある。
  もちろん西欧社会でも同様の状況は生じるであろうが、日本においては非常に重要な意味を持つ。レストランで食事を終えた際に誰がお金を払うか、という場合などでも的確にこれを読まないと、人の気持ちを傷つけることにも繋がる。このような感覚はもちろん、相手の欲していることを読む場合の感覚と非常に近いことになる。すると、それを読むための一種の器官を想定してもいいであろう。
 日本の精神分析家の鑪 (タタラ)幹八郎先生は「皮膚自我」という概念でこれに近いことを言い表している。彼の理論に「アモルファス自我論」というものがあるが、そこにこの皮膚自我という概念が登場する。彼はこれをディディエ・アンジューのいう皮膚自我 moi-peau とは別の文脈で着想し、論文化した。要するに日本人においては、社交的な文脈での皮膚が自我の重要な役割を占めるという理論だ。「顔色を伺う」という表現を見れば分かるだろう。相手の表情を見ながらこちらの表情を決める。相手の振る舞いから内側の心を察する。この理論をそのままウィニコットの偽りの自己、本当の自己の概念と組み合わせてもいいだろう。言うならば、日本人にとっては、偽りの自己に主たる重きが置かれ、本当の自己こそが形骸化していたり、空虚だったりすると言えるかも知れない。そしてその偽りの自己の機能を果たすために社会的な皮膚が重要な受容装置となっているのだ。そしてそれを通して人はお互いの心を、特に「相手が何を自分に期待しているか?」を読みあうのである。
 ちなみにアンジューの「皮膚自我」という概念は鑪のそれとはかなり異なる。それは生物の由来として、神経と皮膚が伴に外胚葉系と言う共通の起源を持ち、感覚のオリジンは皮膚感覚である、と説明し、たぶんに哲学的で観念的な概念である。他方では日本の皮膚自我は対人関係論的な文脈で論じられている点が特徴といえる。

2017年11月20日月曜日

甘えの裏側の病理 1 

1.はじめに

日本文化や日本社会における人々の関係の仕方は、これまで様々に形容されてきた。それは恥の文化と称されたり(ベネディクト)、甘えの社会(土居)と理解されたりする。そこでは人々は一般的に自己主張を抑え、互いのことを考え、和を重んじ、争いごとを避ける傾向にある。町は静かでゴミ一つなく、人々は整然と列を作って静かにタクシーの順番を待つ。
私はこのような特徴をかつて、対人間の敏感さと受け身性という観点から捉えたことがある(岡野、1994、2017)。しかし そこであまり触れられなかったのは、そのような日本社会において、人は特異なストレスにさらされ、それが様々な病理を生み出している可能性があるということである。この発表で、私はそのテーマについて、改めて、土居の「甘え」の概念との関連から論じたい。なぜなら「甘え」の概念は日本的なメンタリティのポジティブな面だけでなく、ネガティブな面を理解するためのヒントも与えてくれると考えられるからである。
土居が甘えの理論を説き起こす際にそうしたように、私もまた自身の異文化体験を紹介することから始めたい。私がアメリカ社会での経験を十分長く持った後に帰国した際のことである。一つ驚いたのは、私が働き始めた日本の職場は、いまだに遅くまで残っていることが美徳とされる環境であった。同僚たちは終業時間を迎えても、上司やほかの同僚が残っているのに先に帰ることには後ろめたさを覚えていたようだ。わざと仕事を見つけてでも、彼らは仕事場に残る傾向にある。また彼らは自分の有給休暇がどのくらい残っているのかについてほとんど気にしていなかった。彼らには有給休暇を使い切るという発想はないようであった。そうすることは自己中心的であり、会社に対して奉仕する気持ちがないと受け取られてしまうのだ。退職時間には仕事を終えること、有給休暇を使うことは個人の権利であろうが、それを守ろうとする姿勢が自己中心的な印象を与えることに、日本の労働者は後ろめたさを感じるのである。
私の帰国は今から十数年前であるから、この様な職場の体質はずいぶん改善されているかもしれない。しかし依然として、自分の都合より集団の利益を第一に考えないという姿勢は、必ずその集団から何らかのネガティブな評価を受けるのだ。現在でも多くの小、中学校で、親がPTA(parent-teacher association)の活動に積極的に無報酬で参加することを求められ、そこで学校への忠誠や奉仕を請われているという現実がある。
私は帰国当時は、これらの体験をどのように理解することが出来るかに頭を悩ませてきた。一つ確かなことは、日本では自らの行動について、周囲からどのように思われるか、という他者からの視点に基づくかなり強固な判断基準を持っているということである。
 かつて日本の分析家小此木啓吾(1983)は、そのような日本人の行動を「他者志向的」と呼び、それが人からどう思われるかに基づく、他律的な恥の感情に基づくものとした。それは自分自身の持つ価値観から自らを判断する内発的、自律的な行動(自己志向的行動、小此木)とは明らかに異なるものとして論じた。(小此木啓吾(1983)「人間の読み方つかみ方」PHP研究所) 特に日本では個人が周囲から、あるいは所属する集団全体から何を期待されているかを想像し、それに応えるような行動を要請される傾向にある。

2017年11月19日日曜日

愛着と精神分析 3

ところで論文の正式なお題は、「愛着理論から見た発生論」である。でも私は発生論がよくわかっていない。ということで精神分析学事典(岩崎学術出版社)にあたってみた。以下は小此木先生の記載。PDFしたものからOCR変換したものを基にしているから、誤字を直すのが大変であった。性は「小生」になっちゃうし、肛門は「月工門」になっちゃうし。それとたいてい 」 は j になってしまうのだ。

発生論的観点  [英] genetic point of view
すべての心的現象は,その心理的な起源と発達に関する命題を含蓄するという観点で,フロイト Freud,S.はこの観点を慨念化しなかったが,実質的にはその精神分析理論にとって最も基本的な観点であった。ラパポート Rapaport,D .とギル Gill,M.M は,この発生論的な観点について次のような命題を明らかにしている。第1に,すべての心的現象は心理的な起源と発達を持っている。第2に,すべての心的現象は心的な資質に起源を持ち,漸成説的な方向に従って成熟する。第3に早期の心的現象の原型は後期のものに覆われてはいても,なおも活動的となる可能性を持っている。第4に,心的発達過程において早期の活動可能性のある原型が後期のすべての心的現象を決定する(例えば二相説,反復強迫これらの命題は,精神性的発達論とその発達図式における固着と退行の論議の形でまずフロイトによって提起された精神分析の伝統的な発生的な観点の基本的な命題であるが,さらにハルトマンHartmann,H. は先天的に与えられた素質によってプログラムされた準備体制 readiness をつくる成熟 maturation と環境との相互作用の中で, それらの心的な機能が実現する発達 development という自我の発達図式を提起した。精神分析のそれぞれの流れは,この発生論的観点に立ったそれぞれに特有な発達図式 developmental schema を提出している。例えばフロイトの精神性的発達論(口愛期から肛門期,男根期さらに性器期へ),スピッツ Spitz,R.のオルガナイザー organizer のモデル,あるいはマーラ一 Mahler, M の分離個体化,アンナ・フロイト Freud,A.の発達ライン,エリクソン Erikson,E. H. の心理社会的漸成説,クラインKlein,M の妄想・分裂ポジション,抑うつポジション,ウィニコットWinnicott,D. W.の絶対的依存から相対的依存へ,未統合から統合へ,メルツアー Meltzer,D の心の次元論などは,いずれもこのような発達図式論の典型で,常に段階 stage とか相 phase という概念を含み,それぞれの段階に応じて心的な機能と対象関係の水準は変遷すると考える。さらに,この観点は,エリクソンによってより包括的なライフサイクルの観点へと発展した。しかし一方では,成人の精神分析療法の中で再構成されたこれらの発達図式論やモデルを,生物学的な基礎を持ち,乳幼児の直接観察や児童分析によって観察される時間的 chronological な発達との対応関係を持つ発達過程としてとらえる考えに疑問と批判を提出する動向が見られる。例えばクラインのポジションの考え方のシュタイナー Steiner,J らによる大幅な修正に見られるように,この発達図式は生物学的・時間的発達との対応関係から自由なそれぞれの心的状態とその推移をあらわす力動的概念として用いるべきであるという主張が次第に有力なものになり始めている。この動向は,発生論的観点から生成分析論的な観点への移行を意味している。しかし,その一方で,乳幼児研究 infant research と母子相互作用の研究の知見を成人の精神療法理解と結びつける新たな動向も生まれ,このような発達観察と臨床的認識との栂互関係を理解する方法論的概念として,スターン Stern,D . N.は,被観察乳児 observed infant と臨床乳児 clinical infant の概念を提起している。(小此木啓吾)

2017年11月18日土曜日

愛着と精神分析 2

ウィニコットの貢献
精神分析プロパーの中で愛着の問題をその高みにまで持ち上げたのは英国の精神分析家ドナルド・ウィニコットである。小児科医として長年臨床に携わったウィニコットが描き出した愛着理論は、実際の赤ん坊の観察に基づき、しかもフロイトやクラインの欲動論的な理論的な影響をまったく無視した独自のものであった。ウィニコットの心の発達論は、母子の間でどのように子供の自己が生成され、それが母親の目の中に自分自身の分身 double を見出す作業を通したものであるとした(Roussillon)母親は子供の分身を宿すとともに、自分という、子供とは異なった存在であることを示す。それにより子供は自分という存在と、母親という異なる存在を同時に体験していく。その際ウィニコットは乳児の心に根本的に存在するものとして、フロイト流の攻撃性や死の本能を想定しなかった。その代わり赤ん坊が持つ motility を重んじた。すなわち動因としてはそこに外界や対象への自然な希求を重視したのである。
このような点に着目したウィニコットは愛着論者の筆頭としてすらあげられるべきであろう。「赤ん坊というものなどいない」というやや過激な表現で、乳児は常に養育者と存在することが自然であるという彼の発言は、同時に他者の不在や過剰なまでの侵入についてその病理性を論じた。その路線は後に述べるボウルビィの系譜に繋がる発達論者と軌を一にしていると考えていいだろう。


2017年11月17日金曜日

愛着と精神分析 1

愛着理論は精神分析の中で特殊な位置づけと共に発達してきた。それは精神分析の最早期から、ボウルビイやスピッツらによりその基礎が築かれていたものの、そしてそれはフロイト自身の著作の中にその多くのヒントが与えられていたにもかかわらず(Emde, 1988) 精神分析の歴史の中では、長い間傍流扱いされてきた。これは精神分析理論の多くが乳幼児期の心性を扱つていたことを考えるならば、実に不思議なことと言うべきであろう。20世紀後半になり、英国でボウルビーに学んだメアリー・エインスワースが緒理論における画期的な研究を行ない、メァリー・メインやエムディらによリひとつの潮流を形成するに至つて、愛着理論は精神分析の世界において確たる地位を築いたと言えるだろう。しかしなぜそれは、精神分析の本流とも言うべき緒理論からは一定の距離を保ったままであるとの観を抱かせるのであろうか?そのひとつの理由は、愛着理論がフロイトやクラインの分析的なモテルを用いることのない、独自の方針を打ち出したからと言えるだろう。ボウルビィは乳幼児を直接観察し、その実証データを集めることから出発した。それは分析理論にもとずいて乳幼児の内的世界を想定し、それを理論化したメラニー・クラインやアンナ・フロイトとは全く異なるものであった。クラインやアンナ・フロイトが、フロイトの欲動論を所与として出発したのに対し、ボウルビイは実際の乳幼児のあり様から出発したのである。

2017年11月16日木曜日

公認心理師に向けて 推敲 ④

次に「症候学」を挙げたいと思います。症候学とは、心理師はたとえば『うつ病』の診断はつけられなくても、鬱の症状を把握するだけの知識は身に着けるべきであろうということです。アメリカの心理師は、そしておそらくほとんどの先進国において、臨床心理士は症候学を学び、ついでに薬のことも非常によく知っています。アメリカのいくつかの州では、心理師が薬の処方をする権利を与えられているほどです。入院時のカルテの最後の部分には診断名があり、そこにはソーシャルワーカーも心理師もサインをする欄があります。つまり診断は各職種の合意で決められるわけです。と言ってももちろんイニシャチブを取るのは精神科医ですが。
私は将来の心理師像として次のようなイメージを持っています。それは精神疾患について勉強し、診断までは至らなくても、症候学的な知識を身に着けておくことです。抑うつ的な患者さんには、食欲や睡眠、倦怠感や不安、希死念慮の有無などを問い、把握しておくこと。もちろん臨床心理士なら診断を付けることは出来ないということになっていますが、症状の把握はできるようにしておくこと。さらには精神科の薬物についても基礎知識を持つこと。これにより医師との疎通性はずいぶんよくなるでしょう。あるいは入院患者のインテークの際に、過去の病歴や治療歴に踏み込んだ情報を聞くことが出来、医師があまり付け加えることがないほどのインテーク記録を作成することもできるでしょう。ところが現在は心理士さんは社会生活歴のみ聞いておしまい、という場合が圧倒的に多いという印象を受けます。そしてこのことは次に述べる「面接力」を高めることにもつながります。


以上医師の立場から、そして分析家の立場から、公認心理師のあるべき姿について考えをお話しいたしました。ご清聴ありがとうございました。

2017年11月15日水曜日

公認心理師に向けて 推敲 ③

「面接力」としての小精神療法(笠原)あるいは支持的療法

面接力と言ってもかなり漠然としていて、皆さんはぴんと来ないかもしれません。そこでもう少し限定していうと、公認心理師が特に身に着けていただきたいのは支持的療法です。例えば「サポーティブ・サイコセラピー入門」(ヘンリー・ピンスカー著)などのテキストを読んでいただきたいと思います。支持的な療法について語られることは本学会では非常に少ないのは残念なのですが、精神分析は転移解釈ばかりではありません。クライエントの話に共感し、その不安を軽減することも非常に重要な役目の一つです。ともすれば本学会では学問的な議論に重点が置かれ、深層の解釈に目が行きがちですが、分析的療法の両輪のうちもう一つは支持的なアプローチです。おそらく病棟で患者を扱う際も、異なる職種のスタッフとのコミュニケーションでも、分析的な深層解釈がその本領を発揮することはあまりないでしょう。相手との感情的なわだかまりを軽減し、防衛を解くために有効な面接力は支持的な療法の中に多く含まれます。
それに関して我が国では笠原嘉先生の「小精神療法」というのが提唱されました。これは忙しい精神科医でも、力動精神医学的治療を施すことを目的として、名大の笠原先生が考案したものです。これが支持療法に非常に近く、またきわめて応用可能性に富んでいます。
笠原嘉先生による小精神療法8つの定式をご紹介しましょう。


(a)病人が言語的非言語的に自分を表現できるよう配慮する。
(b) 基本的には非指示的(non-directive)な態度を持し、病人の心境や苦悩を「そのまま」
受容し了解する努力を惜しまない。
(c)病人と協力して繰り返し問題点を整理し、彼に内的世界の再構成をうながす。しかし治療
 者の人生観や価値観を押しつけない範囲で、必要に応じて日常生活上での指示、激励、医学的啓蒙を行う。
(d)治療者と病人との感情転移現象につねに留意する。
(e)深層への介入をできるだけ少なくする。
(f)症状の陽性面のうしろにかくされている陰性面(たとえば心的疲労)に留意し、その面での悪条件をできるだけ少なくする。
(g
)必要とあらば神経症と思われる状態に対しても薬物の使用を躊躇しない。
(h) 短期の奏功を期待せず、変化に必要な時間を十分にとる。
笠原嘉『精神科における予診・初診・初期治療』(星和書店)より

ちなみに笠原先生は、うつ病に対する小精神療法的アプローチについてもお書きになっています。これなどは、心理師としても十分に通用するのではないかと思います。

笠原の小精神療法
1)うつ病は病気であり、単に怠けではないことを認識してもらう
2)できる限り休養をとることが必要
3)抗うつ薬を十分量、十分な期間投与し、欠かさず服用するよう指導する
4)治療にはおよそ 3 ヶ月かかることを告げる
5)一進一退があることを納得してもらう
6)自殺しないように誓約してもらう
7)治療が終了するまで重大な決定は延期する


要するに基本的には受容的に話を聞くとともに、必要に応じて指示、激励、医学的啓蒙を行うということを強調しています。そして感情転移の要素に気を配るともあります。支持療法と言うと転移を扱わないのではないか、という誤解を受けることがありますが、転移感情はいかなる人間関係においてもその底流に流れています。それを直接扱うか、扱わないかは別として、それを否認したり無視したりすることが感情的なわだかまりを増すことにつながります。職場でどのようなことが問題になるかと言えば、それはスタッフ同士の反目や陰湿ないじめです。それはしばしば上司と部下の関係、あるいは医師とそれ以外の職種との関係です。そこに働く力動の多くは、比較的単純なものであり、それは私の考えでは自己愛的な問題に帰着することが多いと思います。
例えばあるベテランの看護師が、新入りの看護師が自分に十分な敬意を払っていないことにいら立ちます。それはほんの少しのちょっとした出来事で、朝職場に出たときに新入りの看護師の挨拶の声が小さく、聞こえにくかった、などのことです。新入りとしてはまだ自分に自信がなく、挨拶の声もいつも以上に小さくなってしまったことでしょう。しかし上司には挨拶は十分に伝わったつもりになっています。上司はそれを根に持ち、しかし「挨拶の声が小さい」ということを問題にすることは自分の包容力のなさ、器の小ささを示すことになるのではないかという懸念からは何も言わず、その結果として新入りの看護師は上司に悪い心証を与えたということなど全く知らなかったとします。すると上司がほんのちょっと自分にそっけない態度を取ったことの背景を読み取ることが出来ず、一方的に上司から冷たい態度をされたことに被害感を持ちます。するとベテラン看護師への不信感はすぐに相手に伝わり、感情的な隔たりや対立は増していく可能性があります。そのような様子を見てその二人の間に起きていることの手助けをするのはおそらくマネージメントの役割を担った心理師の役割というわけです。そしてそのような場合に精神分析のトレーニングはそれほど役に立たないかもしれません。ただここの心理師の話を聞く際にはやはり支持療法的な態度が基本にあるでしょう。ただし私はスプリッティングや投影などは日常的に起きているであろうとの考えを持っていますから、そこで起きていることを自分なりに理解するためには結構クライン派の概念を頭に浮かべています。
ところで実際の病棟では、おそらく心理師は対立する看護師の間に入って感情的なわだかまりを取るというところまでは到底力が及ばない可能性がありますから、二人の間の問題を解決するというよりは、両者の間のメッセンジャーとしての役割を取る形になるかもしれません。そしてその意味でスタッフミーティングでは積極的にその役割を取り、少なくとも二人のナースの間で起きている対立が病棟での機能を失うまでに発展しないように努力をするということまでしかできないでしょう。

しかしこのように考えていくと、では果たして心理師がこのように他のスタッフの間の問題の緩衝材になることが出来るのか、と言うことが実は大きな問題になってきます。なぜなら心理師も普通の人間であり、自分自身も様々な感情的な問題に巻き込まれる可能性があります。そうすると結局最終的に生きてくるのが、自分の逆転移をどうするのか、という問題です。