2017年11月20日月曜日

甘えの裏側の病理 1 

1.はじめに

日本文化や日本社会における人々の関係の仕方は、これまで様々に形容されてきた。それは恥の文化と称されたり(ベネディクト)、甘えの社会(土居)と理解されたりする。そこでは人々は一般的に自己主張を抑え、互いのことを考え、和を重んじ、争いごとを避ける傾向にある。町は静かでゴミ一つなく、人々は整然と列を作って静かにタクシーの順番を待つ。
私はこのような特徴をかつて、対人間の敏感さと受け身性という観点から捉えたことがある(岡野、19942017)。しかし そこであまり触れられなかったのは、そのような日本社会において、人は特異なストレスにさらされ、それが様々な病理を生み出している可能性があるということである。この発表で、私はそのテーマについて、改めて、土居の「甘え」の概念との関連から論じたい。なぜなら「甘え」の概念は日本的なメンタリティのポジティブな面だけでなく、ネガティブな面を理解するためのヒントも与えてくれると考えられるからである。
土居が甘えの理論を説き起こす際にそうしたように、私もまた自身の異文化体験を紹介することから始めたい。私がアメリカ社会での経験を十分長く持った後に帰国した際のことである。一つ驚いたのは、私が働き始めた日本の職場は、いまだに遅くまで残っていることが美徳とされる環境であった。同僚たちは終業時間を迎えても、上司やほかの同僚が残っているのに先に帰ることには後ろめたさを覚えていたようだ。わざと仕事を見つけてでも、彼らは仕事場に残る傾向にある。また彼らは自分の有給休暇がどのくらい残っているのかについてほとんど気にしていなかった。彼らには有給休暇を使い切るという発想はないようであった。そうすることは自己中心的であり、会社に対して奉仕する気持ちがないと受け取られてしまうのだ。退職時間には仕事を終えること、有給休暇を使うことは個人の権利であろうが、それを守ろうとする姿勢が自己中心的な印象を与えることに、日本の労働者は後ろめたさを感じるのである。
私の帰国は今から十数年前であるから、この様な職場の体質はずいぶん改善されているかもしれない。しかし依然として、自分の都合より集団の利益を第一に考えないという姿勢は、必ずその集団から何らかのネガティブな評価を受けるのだ。現在でも多くの小、中学校で、親がPTAparent-teacher association)の活動に積極的に無報酬で参加することを求められ、そこで学校への忠誠や奉仕を請われているという現実がある。
私は帰国当時は、これらの体験をどのように理解することが出来るかに頭を悩ませてきた。一つ確かなことは、日本では自らの行動について、周囲からどのように思われるか、という他者からの視点に基づくかなり強固な判断基準を持っているということである。
 かつて日本の分析家小此木啓吾(1983)は、そのような日本人の行動を「他者志向的」と呼び、それが人からどう思われるかに基づく、他律的な恥の感情に基づくものとした。それは自分自身の持つ価値観から自らを判断する内発的、自律的な行動(自己志向的行動、小此木)とは明らかに異なるものとして論じた。(小此木啓吾(1983)「人間の読み方つかみ方」PHP研究所) 特に日本では個人が周囲から、あるいは所属する集団全体から何を期待されているかを想像し、それに応えるような行動を要請される傾向にある。