2.相手の気持ちを読む器官としての「皮膚」
日本社会には西洋にあまり存在しない表現がある。それは「空気を読む」(字義通りには、”read the air” となる)という表現である。辞書的には、”read the situation”、”take a hint” などと訳されることもあるが、いまひとつ語感を伝えていない。「空気を読む」とは、集団において、非言語的な想定や要求が生じていることを察知し、それに応じることである。たとえばある会議などで、席次などが定められていなくても、誰がどこに座るかについては暗黙のルールがある。いわゆる上座と下座という表現がそれを示す。それを無視して下座に座るべき人間が上座に座ると、その人はたとえおおっぴらに非難されないとしても、「空気が読めない人」という烙印を押されてしまい、その集団から疎まれる運命にある。
もちろん西欧社会でも同様の状況は生じるであろうが、日本においては非常に重要な意味を持つ。レストランで食事を終えた際に誰がお金を払うか、という場合などでも的確にこれを読まないと、人の気持ちを傷つけることにも繋がる。このような感覚はもちろん、相手の欲していることを読む場合の感覚と非常に近いことになる。すると、それを読むための一種の器官を想定してもいいであろう。日本の精神分析家の鑪 (タタラ)幹八郎先生は「皮膚自我」という概念でこれに近いことを言い表している。彼の理論に「アモルファス自我論」というものがあるが、そこにこの皮膚自我という概念が登場する。彼はこれをディディエ・アンジューのいう皮膚自我 moi-peau とは別の文脈で着想し、論文化した。要するに日本人においては、社交的な文脈での皮膚が自我の重要な役割を占めるという理論だ。「顔色を伺う」という表現を見れば分かるだろう。相手の表情を見ながらこちらの表情を決める。相手の振る舞いから内側の心を察する。この理論をそのままウィニコットの偽りの自己、本当の自己の概念と組み合わせてもいいだろう。言うならば、日本人にとっては、偽りの自己に主たる重きが置かれ、本当の自己こそが形骸化していたり、空虚だったりすると言えるかも知れない。そしてその偽りの自己の機能を果たすために社会的な皮膚が重要な受容装置となっているのだ。そしてそれを通して人はお互いの心を、特に「相手が何を自分に期待しているか?」を読みあうのである。
ちなみにアンジューの「皮膚自我」という概念は鑪のそれとはかなり異なる。それは生物の由来として、神経と皮膚が伴に外胚葉系と言う共通の起源を持ち、感覚のオリジンは皮膚感覚である、と説明し、たぶんに哲学的で観念的な概念である。他方では日本の皮膚自我は対人関係論的な文脈で論じられている点が特徴といえる。