2017年8月18日金曜日

第2章 解釈を問い直す (1)

第2章 解釈を問い直す(1)
「共感と解釈」について― 本当に解釈は必要なのか?
小寺セミナー 2017年7月23日にて発表

 精神分析の世界ではとかく、共感と解釈は両極端のものと考えられやすい。そして決まって「共感ばかりでは患者さんの洞察は得られないだろう。」という主張が優勢となる。洞察よりも共感の方がより本質的であり大事だ、という議論はほとんど聞かれないといってよいだろう。百歩譲っても、洞察は最終目的であり、そのための解釈を受け入れてもらうためには、まず共感が必要であるという言い方がなされるのである。そしてもし「共感だけでもいいのだ」という主張をしようものなら、あの恐ろしい宣告を受けてしまうのである。
「それは精神分析ではありません。」
私は分析学会の会場ではそんなことは怖くて言えず、またそれを提唱しようとは思わない。その代りに次のように申し上げることが妥当であろうと思う。
精神療法とは、洞察と共感がその両輪なのだ。

     (以下略)

2017年8月17日木曜日

精神療法と倫理 ① 真っ白体験 ③

精神療法における倫理
精神療法における倫理の問題は極めて重要である。臨床家としての私が常日頃それを思うのにはある理由がある。

(中略)

特に駆け出しのカウンセラーにはありがちな対応であろう。このカウンセラーの取った行動は倫理的だろうか?
勿論一概にこのセラピストの行動の是非を論じることが目的ではない。一つ考えていただきたいのは、このセラピストの行動に関連した倫理性には、大きく分けて二つが存在することだ。
①    クライエントの気持ちを汲み、それに寄り添う行動だったか?
②    「治療者としてなすべきこと」を遵守した行動だったか?
私が長年のスーパービジョン体験から感じるのは、このうち2.に関連した懸念が少なくともセラピストの意識レベルでの関心のかなりの部分を占めているということである。「セラピストとして正しくふるまっているのか」はおそらく大半の経験の浅いセラピストの胸にある。そしてそれは多くの場合、①を検討する機会を奪っているようである。その結果としてセラピストにとっては②は満たされたことになるのかもしれない。しかしクライエントは気持ちを無視され、いたたまれない気持ちになった可能性がある。

ところでこのような問題については倫理についての議論が助けとなることは、心理の世界では意外と論じられていない。倫理に関する分類として1970年代より提出されている、道徳的倫理か、慣習的倫理か、という考え方である。その代表であるElliott Turiel は、道徳的な決まりmoral rulesと慣習的な決まりconventional rulesとの区別を挙げ、それは次のように理解されている(Kelly, et al, 2007) 。前者はより普遍的で、それが守られない場合には具体的な被害者が出るが、後者は地域や文化に依存し、守られない場合に具体的な被害者が出ない。ただこれをより心理学的に翻訳するならば、前出の①,②という表現に相当することになる。ただし慣習的な決まりにおいてだれも被害者は出ないのであろうか?②により①が犠牲になる形で生じるという問題がある。そしてそれはたとえば治療構造を守る(②)ことで患者の気持ちがくみ取れなくなる(①)という形が多いようである。
Turiel , E . 1979 : Distinct conceptual and developmental domains: social convention and morality . In Howe , H . and Keasey , C . ( eds ), Nebraska Symposium on Motivation, 1977: Social Cognitive Development. Lincoln : University of Nebraska Press .
Kelly, D., Stich, S., et al (2007) Harm, Affect, and the Moral/Conventional Distinction. Mind & Language, Vol. 22 No. 2 April 2007, pp. 117–131.


真っ白体験と認知症
 ちなみにこの真っ白現象、認知症では定番である。認知症では、たとえば近所を歩いていて、突然パニックに陥る。家へ帰る道が分からなくなるのだ。ある原爆の語り部は、認知症が始まり、形の途中で絶句してトイレに駆け込みでてこない、という体験を持ったという。意識(ワーキングメモリースペース)に内容を送り出すというプロセスが、特に認知症では深刻な障害を受けるらしい。WMスペース、このターム今思いついたが使えるだろう。ここに次の瞬間の内容が繰り広げられるのだ。

2017年8月16日水曜日

真っ白現象の続き 第1章 純粋主義を批判する ③

真っ白現象の続き
ちなみに真っ白現象、臨床的にはたとえば緘黙という現象とも関係する。場面緘黙に関する漫画(「かんもくって何なの!? モリナガアメ著 合同出版」に描かれた緘黙状況は、頭が真っ白になり、言葉そのものが出てこない状況が描かれている。勿論緘黙の状況がすべてそうではないにしても、例えばクラスで急に先生に刺されて、「わかりません」すら言えない状況がこれに類似する。言葉はそれを発する前に心の中でそれを準備する。脳科学的に言えば、運動前野premotor cortex でその発声が準備されるわけである。ところが真っ白状態では、ここに何も準備されない。つまり「わかりません」すら思いつかないということになる。これは周囲からは実に不思議に映るだろう。どうしてそんな簡単なことが言えないのか?しかし本人には深刻である。

ちなみにこのような現象は通常人でも起きる。緊張して言葉が出てこない、自己紹介しようとしても自分の名前が分からなくなる、などの状態は対人場面でも生じるわけだが、基本的には解離の機制に類似すると考えていいだろう。解離とはこのような脳の機能の抑制がいきなりかかる現象である。


第1章 精神分析の純粋主義を批判する

精神分析の純粋主義を否定した小此木先生
私は本章で小此木先生の思い出を語りつつ、彼から学んだ姿勢について書いているわけであるが、ここまでは私のあいまいな記憶を掘り起こしたものである。しかしここからは多少なりとも「エビデンス」を伴った記載をしたい。実は私はちょっとした録音マニアである。そして小此木先生の晩年の声を記録してある。具体的には、それは2002年の初旬に撮られたものであり、小此木先生が既に闘病生活に入られていたころのことである。全体で3時間の録音の記録は、ある場所で行った精神分析の講演であり、そこで小此木先生には細やかなコメントをいただいた。その後小此木先生の入院先まで同行し、ベッドサイドでの会話も撮ってあるのだ。もちろん小此木先生には録音の許可をいただいてあった。
さてその講演の中で、私は精神分析家を「純粋主義者」と「相対主義者」に大きく分類している。思えばかなり乱暴で挑戦的な内容だ。一歩間違うと、精神分析の理論的な支柱となる人の多くを、純粋主義者として切り捨ててしまうことになる。そんなことをフロイトの大家である小此木先生の前でいうのだから、叱りつけられてもおかしくない。しかしその講演に対する小此木先生のコメントはとてもサポーティブなものだった。彼は「オカノ君、純粋主義者、とはいい呼び方だね。ふつうは教条主義者ということになるだろうけれど、それだとネガティブな意味が強すぎるからね。」なんとやさしいフォローの仕方ではないか。そしてそこには「僕も実は相対主義者なんだよ。大きい声では言えないけれどね。」というニュアンスが含まれていた。
そこでこの講演の内容についてもう少し説明しよう。そのほうが先生のコメントの意味が分かりやすくなる。テーマは、「治癒機序について」というものだった。「チユキジョ」といっても精神分析の話を聞いたことのない人には何の事だかわからないと思うが、要するに、精神分析は、具体的にはどこのどういう点が、患者をよくするの?ということだ。最近よく聞く話では、患者さんが「ああ、このお薬は、セロトニンを増やすから、うつが治るのね?」ということが多くなってきたのだが、これがいわば抗うつ剤の治癒機序、ということになる。(もちろん「セロトニンが増える」というだけではあまりに単純化しすぎているわけだが、「フーン、それでこのお薬は効くんだ」と患者さんが納得するとしたら、そこで頭に思い描くこととしては、ある種の具体的なメカニズムを考えているわけだ。
 この話の中で、私は「精神分析的には、解釈、つまり患者の無意識内容を治療者が伝える、というのが古典的な理論における治癒機序が、私は違うことを考えています。」ということを聴衆、および小此木先生の前で話したのである。フロイトはこの解釈こそが治癒機序だといった。そこから精神分析がスタートした。そしてそれを原則的に守る人たちが、私が「純粋主義者」と呼ぶ人たちである。だから私が主張したことは、ある意味では従来の精神分析にとっては異説である。当時45歳の若輩者としては、挑戦的な内容だったといってもいい。これに対して小此木先生は、まるで駄々っ子をニコニコ見守るような視線なのである。



2017年8月15日火曜日

カオスの淵 ② あるいは真っ白現象

「人間の行動においては、常に賽が振られている」または
「真っ白現象の真相」
かつてあるところで講演をしていて、久しぶりに「真っ白体験」をしたことがある。帰宅してカミさんに「今日凄くスリルがあったよ。何しろ100人くらいの聴衆の前で話をして、頭が真っ白になったんだから。」するとカミさんは驚いていた。「どうして? もう何度も話していて、慣れているんでしょ?そんなことおきるの?」そういうカミさんは、アメリカにいた時、たった3人の前での英語のスピーチで頭が真っ白になったことがあるという。そんな体験が嫌だから、人前で話すことなど絶対にしたくないというのだ。
もちろん私も真っ白になったことがある。それでも何度も授業や講演をしている。しかし私が慣れているのは、「真っ白にならないようにする」ことではない。「いつ真っ白になるかわからないような状況で話すこと」に慣れているだけだ。それに真っ白にならないだろうと気を抜いていると、やはりそれは起きる。ちょうどベテランの役者がセリフをさらうのがいい加減になり、そのために帰ってセリフが抜けてしまう、というのと同じだ。しかし最近の私の興味の一つが脳科学であることもあり、「真っ白になることの脳科学」について考えることの方が興味深かった。
真っ白現象は私たちの脳の在り方の一つの特徴を表しているのだ。そもそも私たちは普通はどうして真っ白にならないのか?私は普通の日常生活で真っ白になることはない。真っ白になるのは、自分が人前である種のパフォーマンスをしている時である。
私たちがある文章を朗読している時を考える。通常このような状況で真っ白になることはない。私たちが文章を朗読している時の目の動きを観察してみるとよい。今発音している文字のおそらく8~10文字先までも目は先に読んでいる。例えばこのパラグラフの、「私たちが」を声に出している時、目は「ある文章を朗読・・・」あたりまで進んでいる。つまり次の行動はそのようにして準備されている。次の瞬間の行動が準備され、そこにすぐにでも移れる形で提供されている、というのが私たちの普通の体験なのだ。少なくとも私たちが行動を起こす際に、一瞬先はすでに予測され、準備されている。真っ白になる、とはパフォーマンス状況で、この一瞬先の予期が突然出来なくなる時である。これは「次にどうしようか」、とか「どのような言葉を選ぼうとか」、あるいは「あれは何だっけ」、と考えている時の状況とは違う。そのような時に心は一種のサーチ、探索を行っている。そこではいくつもの内容が意識野に浮かび、その中から何かが選択されようとしている。ところが「真っ白になる」現象は、このサーチ機能そのものも停止する。

皆さんは次のような体験はないか? 教室でボーっとしていて、突然教師に当てられるのだ。そしてある問題について答えさせられる。普段ならちょっと考えれば答えが見つかる問題だ。ところがあなたの頭は真っ白になっている。すると、問いを解こうとし始めることが出来ない。思考停止状態になる。学会などに出ていて、私は思考停止状態になった発表者を見たことがあるが、彼らは思考することが出来ずに立ち往生するのである。頭が真っ白になった状態で解けなくなるような問いは、たいていは単純な記憶に依存するようなものではない。いくつかの推論を組み立てる必要が生じる。その時脳は、その問いそのものを無意識に送り込み、おそらく一種のデフォルトモード、マインドワンダリング状態になる。これは無意識がそれを説いてくれるためにどうしても必要な状態だ。講演などをしていると、自分がそうしているのがよくわかる。私は講演を続けるために、次の内容が自然に浮かんでくるように、心を開放するのだ。喩えは尾籠だが、これは私たちが排泄する時の括約筋のコントロールに似ている。考えが自然に出て来るためには括約筋を緩め、解放しなくてはならない。頭が真っ白になっている状態とは、精神の括約筋を緩められなくなってしまっている状態に非常に近い。「あ、あ、あ、」と思った時は、それまで自然に流れていた思考が止まり、その先に何もなくなってしまう。

2017年8月14日月曜日

① 現代精神分析の純粋主義を批判する ②

今から思えば小此木先生の後進を指導するスタイルは、一種独特だったような気がする。小此木先生はいわば、どのような理論にも興味を示し、ご自分の該博な知識の体系にとってまだ目新しいものについては、それを専門とするお弟子さんに目をかけ、取り込むということをされていたという印象がある。弟子としては先生に可愛がられつつ、いつの間にか小此木先生の頭の引き出しに入っているという不思議な感覚があったであろう。それはあるお弟子さんにとっては、いつの間にか小此木先生に「利用されてしまっている」という印象を与えていたかもしれない。
 それにしても小此木先生ほど新しい知識を吸収することにあれほど知的興奮を覚える方は、他に出会ったことがない気がする。弟子たちをその学派で差別する、ということはおよそなかったのは、先生の知的な好奇心が関係していたように思う。私は小此木先生のお弟子さんというと真っ先に大野裕先生を思い浮かべるが、大野先生は米国留学後は精神分析とは距離を置かれ、東京に戻られたあとは、認知療法の方面の第一人者になられたが、小此木先生は特に意に介されるというところはなかった。
 弟子の属する学派やそれに従った治療スタイルを受け入れる際の幅の広さは、私が精神分析を学ぶ上でも随分助けになった。私は1993年以降は、毎年精神分析学会に出席しているが、小此木先生にお会いするたびに近況を伝え、最近の勉強の進捗状況について報告するようにしていた。その際私が従来の精神分析的な考えに対して疑問を持ち始めたことに関しても、その代わりに新しい考えを取り込むことを積極的に勧めて頂いたと思う。他方では、それとはかなり相容れない他学派を学ぶお弟子さんたちをも積極的に先生が励まされていたことを思うと、その姿勢の柔軟性には今更驚かされる。

2017年8月13日日曜日

第一章 精神分析の純粋主義を批判する ①

初出:「小此木先生との思い出」 小此木先生没後10周年追悼式典にて発表

精神分析とは一体なんだろうか? これほど様々な治療法がしのぎを削り、主として米国から発信される新しい治療法のセミナーが開かれるのに、精神分析のセミナーはいまだに多くの聴衆を集めている。人はそこにある種の本質的な議論を求めて集まってきているようである。真に治療的で人の心のあり方を変えるような治療手段。人の心の本質にまで迫るような方法論。精神分析はそれを一環として目指しているようである。
精神分析のセミナーに出ている主として若い心理士や精神科の先生方の表情を見ると、まるで自分の30年前の姿を見ている気がする。私も同じような情熱と期待を持って「慶応の精神分析セミナー」に応募し、受講したのだった。その当時は慶応大学医学部の助教授であった小此木啓吾先生がリーダーシップを取り、精神分析を広める運動を担っていた。彼のグループが主催する精神分析セミナーは当時の精神科医や心理士の多くの関心を集めていたのである。

本章はここから少し小此木先生の思い出話となる。私と小此木先生との出会いは、1983年からの精神分析セミナーへの参加がきっかけである。私たちのクラスは「3期生」と呼ばれた。つまりおそらくは1981年にセミナーが始まって、3年目というわけである。人数も10人程度だったと思う。藤山直樹先生、島村三重子先生、柘野雅之先生、佐伯喜和子先生といった先生方と同期である。きっかけは、その時大学の精神科で精神分析の勉強会を主催なさっていた磯田雄二郎先生に、精神分析を本格的に学びたいと相談したことである。すると先生が「それならオコさんに電話してみるよ。」と気軽に応じてくれたのだ。オコさん、とは小此木先生の愛称である。磯田先生は今でもサイコドラマの権威としてご活躍中であるが、その時の私はこう思ったものだ。「オコさんに夜中に電話を出来るなんて、なんとすごいんだろう。」と言ってもオコさんは夜中に最も活躍するというのは一種の都市伝説化していた。彼は夜中になってもお弟子さんを呼び出してスーパービジョンをしていたという。現在認知療法で有名な大野裕先生もそのようにして小此木先生に呼び出された一人であったという。

2017年8月12日土曜日

新しい精神分析 3 その②


名前を付け替えたりいじくり回しているうちに、本らしくなってきた。こんな感じで行こう。相当加筆修正が必要だろうな。


新しい精神分析 3
第一部 精神分析理論を問い直す
1.     精神分析の純粋主義を批判するー小此木先生の思い出」←「小此木先生との思い出」
2.     解釈を問い直す(1)←「解釈と共感」
3.     解釈を問い直す(2)← 「解釈―共同注視の延長として」
4.     転移解釈を問い直す ← 「転移解釈の意味するもの 自我心理学の立場から」
5.     自己開示を問い直す ←「自己開示ってナンボのモンだ」
6.     無意識を問い直す ←「自己心理学から見た無意識のとらえ方」
7.     攻撃性を問い直す ← 「精神医学からみた暴力」
8.     終結論を問い直す ←「自然消滅としての終結」
第2部 解離をキータームとする精神分析
9.     トラウマ理論としての解離 ←「トラウマと解離」
10.   解離の分析的治療 (1)←「解離治療における心理教育」
11.   解離の分析的治療 (2) ←「転換、解離性障害」
12.   解離性障害と統合失調症 ← 「解離性障害か、統合失調症か?」
13.   医原性としてのBPDと解離性障害 ← 「BPDと解離性障害」
第3部 未来志向の精神分析
14.   治療的柔構造の発展形 ← 「週一度というより強度のスペクトラム」
15.   死と精神分析 ←「死生学としての森田療法」
16.  汎用版の精神分析に向けて←「認知療法との対話」
17.  精神分析と倫理 ←「精神分析のスキルとは」
18.  神経科学と精神分析 ← 「神経科学と心理療法」