2017年8月15日火曜日

カオスの淵 ② あるいは真っ白現象

「人間の行動においては、常に賽が振られている」または
「真っ白現象の真相」
かつてあるところで講演をしていて、久しぶりに「真っ白体験」をしたことがある。帰宅してカミさんに「今日凄くスリルがあったよ。何しろ100人くらいの聴衆の前で話をして、頭が真っ白になったんだから。」するとカミさんは驚いていた。「どうして? もう何度も話していて、慣れているんでしょ?そんなことおきるの?」そういうカミさんは、アメリカにいた時、たった3人の前での英語のスピーチで頭が真っ白になったことがあるという。そんな体験が嫌だから、人前で話すことなど絶対にしたくないというのだ。
もちろん私も真っ白になったことがある。それでも何度も授業や講演をしている。しかし私が慣れているのは、「真っ白にならないようにする」ことではない。「いつ真っ白になるかわからないような状況で話すこと」に慣れているだけだ。それに真っ白にならないだろうと気を抜いていると、やはりそれは起きる。ちょうどベテランの役者がセリフをさらうのがいい加減になり、そのために帰ってセリフが抜けてしまう、というのと同じだ。しかし最近の私の興味の一つが脳科学であることもあり、「真っ白になることの脳科学」について考えることの方が興味深かった。
真っ白現象は私たちの脳の在り方の一つの特徴を表しているのだ。そもそも私たちは普通はどうして真っ白にならないのか?私は普通の日常生活で真っ白になることはない。真っ白になるのは、自分が人前である種のパフォーマンスをしている時である。
私たちがある文章を朗読している時を考える。通常このような状況で真っ白になることはない。私たちが文章を朗読している時の目の動きを観察してみるとよい。今発音している文字のおそらく810文字先までも目は先に読んでいる。例えばこのパラグラフの、「私たちが」を声に出している時、目は「ある文章を朗読・・・」あたりまで進んでいる。つまり次の行動はそのようにして準備されている。次の瞬間の行動が準備され、そこにすぐにでも移れる形で提供されている、というのが私たちの普通の体験なのだ。少なくとも私たちが行動を起こす際に、一瞬先はすでに予測され、準備されている。真っ白になる、とはパフォーマンス状況で、この一瞬先の予期が突然出来なくなる時である。これは「次にどうしようか」、とか「どのような言葉を選ぼうとか」、あるいは「あれは何だっけ」、と考えている時の状況とは違う。そのような時に心は一種のサーチ、探索を行っている。そこではいくつもの内容が意識野に浮かび、その中から何かが選択されようとしている。ところが「真っ白になる」現象は、このサーチ機能そのものも停止する。

皆さんは次のような体験はないか? 教室でボーっとしていて、突然教師に当てられるのだ。そしてある問題について答えさせられる。普段ならちょっと考えれば答えが見つかる問題だ。ところがあなたの頭は真っ白になっている。すると、問いを解こうとし始めることが出来ない。思考停止状態になる。学会などに出ていて、私は思考停止状態になった発表者を見たことがあるが、彼らは思考することが出来ずに立ち往生するのである。頭が真っ白になった状態で解けなくなるような問いは、たいていは単純な記憶に依存するようなものではない。いくつかの推論を組み立てる必要が生じる。その時脳は、その問いそのものを無意識に送り込み、おそらく一種のデフォルトモード、マインドワンダリング状態になる。これは無意識がそれを説いてくれるためにどうしても必要な状態だ。講演などをしていると、自分がそうしているのがよくわかる。私は講演を続けるために、次の内容が自然に浮かんでくるように、心を開放するのだ。喩えは尾籠だが、これは私たちが排泄する時の括約筋のコントロールに似ている。考えが自然に出て来るためには括約筋を緩め、解放しなくてはならない。頭が真っ白になっている状態とは、精神の括約筋を緩められなくなってしまっている状態に非常に近い。「あ、あ、あ、」と思った時は、それまで自然に流れていた思考が止まり、その先に何もなくなってしまう。