2017年8月16日水曜日

真っ白現象の続き 第1章 純粋主義を批判する ③

真っ白現象の続き
ちなみに真っ白現象、臨床的にはたとえば緘黙という現象とも関係する。場面緘黙に関する漫画(「かんもくって何なの!? モリナガアメ著 合同出版」に描かれた緘黙状況は、頭が真っ白になり、言葉そのものが出てこない状況が描かれている。勿論緘黙の状況がすべてそうではないにしても、例えばクラスで急に先生に刺されて、「わかりません」すら言えない状況がこれに類似する。言葉はそれを発する前に心の中でそれを準備する。脳科学的に言えば、運動前野premotor cortex でその発声が準備されるわけである。ところが真っ白状態では、ここに何も準備されない。つまり「わかりません」すら思いつかないということになる。これは周囲からは実に不思議に映るだろう。どうしてそんな簡単なことが言えないのか?しかし本人には深刻である。

ちなみにこのような現象は通常人でも起きる。緊張して言葉が出てこない、自己紹介しようとしても自分の名前が分からなくなる、などの状態は対人場面でも生じるわけだが、基本的には解離の機制に類似すると考えていいだろう。解離とはこのような脳の機能の抑制がいきなりかかる現象である。


第1章 精神分析の純粋主義を批判する

精神分析の純粋主義を否定した小此木先生
私は本章で小此木先生の思い出を語りつつ、彼から学んだ姿勢について書いているわけであるが、ここまでは私のあいまいな記憶を掘り起こしたものである。しかしここからは多少なりとも「エビデンス」を伴った記載をしたい。実は私はちょっとした録音マニアである。そして小此木先生の晩年の声を記録してある。具体的には、それは2002年の初旬に撮られたものであり、小此木先生が既に闘病生活に入られていたころのことである。全体で3時間の録音の記録は、ある場所で行った精神分析の講演であり、そこで小此木先生には細やかなコメントをいただいた。その後小此木先生の入院先まで同行し、ベッドサイドでの会話も撮ってあるのだ。もちろん小此木先生には録音の許可をいただいてあった。
さてその講演の中で、私は精神分析家を「純粋主義者」と「相対主義者」に大きく分類している。思えばかなり乱暴で挑戦的な内容だ。一歩間違うと、精神分析の理論的な支柱となる人の多くを、純粋主義者として切り捨ててしまうことになる。そんなことをフロイトの大家である小此木先生の前でいうのだから、叱りつけられてもおかしくない。しかしその講演に対する小此木先生のコメントはとてもサポーティブなものだった。彼は「オカノ君、純粋主義者、とはいい呼び方だね。ふつうは教条主義者ということになるだろうけれど、それだとネガティブな意味が強すぎるからね。」なんとやさしいフォローの仕方ではないか。そしてそこには「僕も実は相対主義者なんだよ。大きい声では言えないけれどね。」というニュアンスが含まれていた。
そこでこの講演の内容についてもう少し説明しよう。そのほうが先生のコメントの意味が分かりやすくなる。テーマは、「治癒機序について」というものだった。「チユキジョ」といっても精神分析の話を聞いたことのない人には何の事だかわからないと思うが、要するに、精神分析は、具体的にはどこのどういう点が、患者をよくするの?ということだ。最近よく聞く話では、患者さんが「ああ、このお薬は、セロトニンを増やすから、うつが治るのね?」ということが多くなってきたのだが、これがいわば抗うつ剤の治癒機序、ということになる。(もちろん「セロトニンが増える」というだけではあまりに単純化しすぎているわけだが、「フーン、それでこのお薬は効くんだ」と患者さんが納得するとしたら、そこで頭に思い描くこととしては、ある種の具体的なメカニズムを考えているわけだ。
 この話の中で、私は「精神分析的には、解釈、つまり患者の無意識内容を治療者が伝える、というのが古典的な理論における治癒機序が、私は違うことを考えています。」ということを聴衆、および小此木先生の前で話したのである。フロイトはこの解釈こそが治癒機序だといった。そこから精神分析がスタートした。そしてそれを原則的に守る人たちが、私が「純粋主義者」と呼ぶ人たちである。だから私が主張したことは、ある意味では従来の精神分析にとっては異説である。当時45歳の若輩者としては、挑戦的な内容だったといってもいい。これに対して小此木先生は、まるで駄々っ子をニコニコ見守るような視線なのである。