トラウマとCPTSD
トラウマ関連障害とPDとの関係性を考える上で格好の材料を提供したのが、ICD-11に新たに加わった複雑性PTSD(以下、CPTSDと表記する)という疾患概念である。これは、「組織的暴力、家庭内殴打や児童虐待など長期反復的なトラウマ体験の後にしばしば見られる」とされる。そして診断基準はPTSD症状に特有の一群の症状に「自己組織化の障害 (Disorder of Self Organization」 が組み合わさった形となっている。
このうち自己組織化の障害は、それが過去のトラウマにより備わった一種のパーソナリティ傾向ないしはパーソナリティ障害の様相を呈しているのである。つまりCPTSDの概念自体にPDの要素が組み込まれているという事になるのだ。 (以下は飛鳥井(2020)の訳を用いて論じる。)
「自己組織化の障害」は以下の3つにより特徴づけられる。それらは
● 感情制御困難:感情反応性の亢進(傷つきやすさなど)、暴力的爆発、無謀なまたは自己破壊的行動、ストレス下での遷延性解離状態、感情麻痺および喜び又は陽性感情の欠如。
● 否定的自己概念:自己の卑小感 敗北感、無価値観などの持続的な思い込みで、外傷的出来事に関連する深く広がった恥や自責の感情を伴う。
● 対人関係障害:他者に親密感を持つことの困難、対人関係や社会参加の回避や関心の乏しさ。
これらの3つの条件を満たした人を思い浮かべた場合、おのずと一つのパーソナリティ像が浮かび上がってくるだろう。彼(女)は自分の存在を肯定されていないという考えに由来する自信のなさや、自分の存在や行動が周囲に迷惑をかけているという罪悪感や後ろめたさを持ち、そのために対人関係に入ることに困難さを感じる。実際幼少時に深刻なトラウマを負った多くの患者に、この種の性格傾向を見出すことができる。
このように繰り返されたトラウマにより「自己組織化の障害」を特徴とするパーソナリティの病理がみられるとすれば、それは従来のPDの概念にどの程度反映されているのであろうか?おそらくDSMにみられるPDのカテゴリーの中ではボーダーラインPD(以下BPD)が関係する可能性がある。それのみが診断基準(9)として「一過性のストレス関連性の妄想様観念または重篤な解離症状」という、過去のトラウマに関連したフラッシュバックによる症状をうかがわせるような記載が見られるのだ。
またICD-11に掲げられているディメンショナルモデルが掲げる顕著なパーソナリティ特性としては、掲げられている否定的感情や離隔や非社交性などが関係している可能性があろう。しかしこれらのいずれも過去のトラウマとの関連性には言及していない。
Herman とCPTSDの概念
上に述べたようにPDは一般的にトラウマの概念とは距離を置いていたといえる。ただしBPDはおそらくその概念の成り立ちとの関係でトラウマとの関連性が示唆されていた。その事情を知る上でもJudith Hermanの提唱したCPTSDの概念にさかのぼって論じたい。
CPTSDの概念は J.Herman (1992)がその著書 ”Trauma and Recovery” (Herman, 1992, 邦訳「心的外傷と回復」)で提出した事に始まる。そしてHerman はそれをBPDの代替案と考えていた(Ford, Couerois, 2021)。
当時はこのHermanの著書は臨床家にかなり好意的に迎えられた。その当時BPDはトラウマに由来するものではないかという仮説は、当時は多くの識者により提唱されるようになっていた。現在でもBPDとトラウマの関連性については多くの研究がある。BPDにおいては情緒的な虐待とネグレクトは、その他のPDを有する人に比べて3倍多く、健常人に比べて13倍多いとされる(Porter, Palmier‐Claus,et al, 2021)。
このHerman の提唱したCPTSDについてもう少し掘り下げて解説したい。そこには少しこみいった事情があったのである。端的に言えば、このCPTSDの概念にはHerman によりフェミニスト的なスピンがかかっていたからだ。一般にトラウマ論者はフェミニズムに親和的であるが、それは多くの性被害に遭った女性が治療対象となることを考えれば納得がいく。そして彼女の場合は精神医学の歴史において従来差別の対象とされてきた「ヒステリー」の患者さんたちをこのCPTSDの概念に重ねたのだ。ただ事情を複雑にしたのは、BPDもまた差別されてきた対象としてこのCPTSDに組み込まれていたことである。
もともとHermanは反戦運動や公民権運動に身を投じていたという。そして精神科医の研修をする中で直面したのは、それまで非常にまれだと報告されていた女性の性被害の犠牲者が、精神科の患者の中に極めて多く見出されるという事実だった。この問題をもっと明るみに出さなければならない、と考えた彼女が「心的外傷と回復」を書くに至ったのである(Webster, 2005)。
Hermanがこの本でCPTSDとして具体的に想定している一群の患者が従来の「ヒステリー」の患者であったと述べたが、具体的には、解離性同一性障害(従来の多重人格障害、以下DID)、身体化障害(以下、SD)そしてBPDを含むとした。最初の二つは従来ヒステリーの解離型、転換型と呼ばれていたものに相当するため、CPTSDに含めることに特に異論はなかったはずだ。しかしそこにBPDを加えることには、違和感を覚える人がいてもおかしくなかっただろう。
Hermanの意図をさらに知るためにTrauma and Recovery(原著)を改めてひも解くと、そこに次のような記載がある。
「今となっては古臭いヒステリーという名前のもとにSDとBPDとDIDの三つがまとめられていたのだ。」「それらの患者は通常は女性であるが(…)それらの疾患は信憑性が疑われ、操作的であるとされたり、詐病を疑われたりした。」「これらの診断は差別的な意味を伴い、特にBPDがそうであった。」(1992,p.123)「これらの患者たちは「強烈で不安定な関係の持ち方を示す」。「これらの三つの共通分母は幼少時のトラウマである」(p.125)。つまり当時明らかにされつつあった、BPDの多くに幼少時の虐待が見られるという知見から、HermanはBPDを解離性障害と同様に従来のヒステリーに位置付けたわけである。
このCPSDの提唱に呼応して、Hermanの盟友であるvan der Kolk がそれと類似の概念DESNOS(Disorder of Extreme Stress, not otherwise Specified;ほかに分類されない極度のストレス障害)(van der Kolk, 2002,2005)を提唱した。
こちらもまた「BPD寄り」であることは以下の記述から伺える。(van der Kolk, 2002)。
「私たちがBPDだと考えていたケースをよく調べると、その多くがDESNOSなのだ」「患者のトラウマヒストリーを詳細に聞くと、ケースの概念化と治療指針まで変わる。(…)特にBPDのトレードマークである攻撃性、情緒的な操作性、欺きなどは悲しみ、喪失、外傷的な悲嘆などの真正なる感情に見えてくるのだ。」「幼少時のトラウマ体験への適応として理解することで、DESNOSかBPDかの判定に大きな違いが出てくる」とある(p.385)。すなわちBPDと診断されている患者を偏見なく診ることで、それがDESNOSの誤診であると分かることが多い、と主張していることになる。
しかしとても重要な提言も見られる。「リサーチにより分かったのは、BPDとDESNOSは重複する部分があるものの、明確に異なる状態である」「両者は表面上は似ている。ただ慢性の情緒的な調節不全はDESNOSでは最も顕著だが、BPDではアイデンティティと他者との関りの障害の方がより重大であるというのだ。」ここにvan der Kolk とHermanのそれとの微妙な温度差があるとみていいだろう。
ところで「パーソナリティ障害とCPTSD」というテーマで、もっぱらBPDの関連性について述べたが、実は繰り返される幼少時のトラウマのパーソナリティへの影響としては、それ以外にも論じるべき問題がある。そもそもCPTSDのハーマンの原案には、a.情動調整の困難、b.対人関係能力の障害、c.注意と意識の変化(解離など)、d.悪影響を受けた信念体系、e.身体的苦痛あるいは解体が診断基準として挙げられているが、これらa,b,c,d,e の項目はパーソナリティ障害や傾向に深く関連していることであり、BPDの問題とは別個に論じられなくてはならない。そのことについては識者の間でも意見の一致が見られたようである。
そのためにDSM-IVに続いて2013年にDSM-5でDDNOSが却下された際も、そこで提出されたPTSDは従来のものよりも「DESNOS寄り」になり、パーソナリティの変化にも言及したものであった。すなわちBPDにおいてみられるような診断基準(アイデンティティの障害、対人関係上の不信感、情動の不安定さ、衝動性、自傷行為など)が追加された。それに対してICD-11 ではCPTSDが所収される運びとなったのである。