2024年5月9日木曜日

解離-それを誤解されることのトラウマ 推敲 5 

  他方の社会認知モデルは、DIDは医原性のものだと主張する。この説によれば、DIDはトラウマに起因するのではなく、文化的な役割の再演 cultural role enactment ないしは社会が作り出した構成概念 social constructions であるとする。つまり治療者の示唆、メディアの影響、社会からの期待などにより人格が人為的に作り出されるとする。

 このモデルの代表的な論客である Spanos は以下の様に述べている。
「過去20年の間に、北米では多重人格は極めて知られた話になり、自らの欲求不満を表現する正当な手段、及び他者を操作して注目を浴びるための方便となっている。」(Spanos, 1994)。Spanos NP (1994) Multiple identity enactments and multiple personality disorder: a sociocognitive perspective. Psychol.Bull.116,143-165.

同様の主張は臨床家を対象として書かれている著書などにも見られる。エモリー大学准教授の Scott Lillienfeld (2007)らは社会認知説を擁護しつつ以下の様に述べる。「解離性同一性障害は、すべての診断の中で、議論の余地が最も多く残されている診断である」(邦訳、p.88)。「[DIDの]標準的な治療業務では多くの場合、交代人格が現れるように促し、あたかも個々の交代人格にアイデンティティがあるかのように扱っている」( 同,p.100)。
 この立場はDIDの報告が近年急激に増えたこと、交代人格の数は、心理療法が進むにつれて増加する傾向がある、などを傍証とする。またDIDの患者が治療を受ける以前に症状を示すことは極めてまれである、などをその論拠にしている(同,p.114)。

Lillienfeld,SO, Lohr,JM ed.(2003)Science and Pseudoscience in Clinical Psychology. Guilford Press.(リリエンフェルド,SO.,リンSJ., ローJM. 編 (2007)巌島行雄、横田正夫、齋藤雅英訳 臨床心理学における科学と疑似科学 北大路書房.)

私は本稿の執筆にあたって解離性障害についての様々な議論に関して出来るだけ平等な立場から論じるつもりでいた。この社会認知説をここに紹介するのもその目的があったからだ。しかし少し読んだだけでも、その誤謬性は私の想像をはるかに超えたものであると改めて実感する。
 彼らの主張をひとことでまとめれば、それは「治療者が交代人格を生み出している」という主張である。しかし現実には患者自身が知らないところで別人格が出現し、それを周囲から指摘されるというパターンである。そして多くの患者は異なる人格の存在を否認したり隠そうとしたりする。彼らは「おかしな人」と思われたくないからだ。そしてそのことは個々のケースに虚心坦懐に触れればわかることである。なぜならそれが「臨床的な現実」だからだ。社会認知説の主張の内容は、その論者達が実際のケースに触れていないという事実を明かしているに過ぎない。
 もちろん治療者に強く暗示を受けて人格が生み出される可能性は否定できない。占い師に「霊が見える」と言われてから本当に霊が乗り移ったかの状態になった症例も経験がある。問題はそれが全体のどの程度を占めるのか、ということだ。
 さらには「人格は人為的に作り出されたもの」という彼らの強い主張に影響されて実際に存在する交代人格が更に否認される可能性も無視できないだろう。
 ちなみにこの社会認知説に対する臨床家からの反論については、例えば以下のものが信頼がおける。

Gleaves DH.(2006) The sociocognitive model of dissociative identity disorder: a reexamination of the evidence. Psychol Bull. 1996 Jul;120(1):42-59.
Most recent research on the dissociative disorders does not support (and in fact disconfirms) the sociocognitive model, and many inferences drawn from previous research appear unwarranted. No reason exists to doubt the connection between DID and childhood trauma. Treatment recommendations that follow from the sociocognitive model may be harmful because they involve ignoring the posttraumatic symptomatology of persons with DID.
Lynn, S. J., Maxwell, R., Merckelbach, H., Lilienfeld, S. O., van Heugten-van der Kloet, D., & Miskovic, V. (2019). Dissociation and its disorders: Competing models, future directions, and a way forward. Clinical Psychology Review, 73, Article 101755.

ただしそれでも驚くべきことは、現在においてもこの二つのモデルが対立しているとされているということだ。このことは他の精神科疾患との違いを考えれば顕著である。(たとえば「統合失調症や双極性障害は医原性である」という説が現在においても専門家による議論の対象となるなどのことが想像できるだろうか。)