ある「臨床的な現実」
解離性障害について多くの誤解が生じているという私の主張は、ある「臨床的な現実」に基づいている。それは解離性同一性障害の方が示す複数の人格(いわゆる交代人格)はそれぞれが別個の人格として体験されるということだ。それは体験レベルで自然と生じてくる感覚に基づくのであり、それは自然と生じる事であり、それぞれに対する守秘義務を守りつつ関わっていくという配慮の必要を感じるのだ。
もちろんそれぞれの人格が同じ肉体を共有していることからくる違和感は、最初はかなり強いものである。しかしそれにもまして各主体が個別なものとして体験されることで、その違和感は縮小していく類のものなのだ。慣れ親しんだ友人の一卵性双生児が現れた場合、最初は戸惑うものの、すぐに別人として出会うという体験と類似しているであろう。
多くの臨床家はDIDの主人格と出会ってしばらくしてから、不意に交代人格に遭遇する。そして普通の感覚を持つ臨床家であれば、交代人格は個別の人格として感じ取られるであろう。この私が「臨床的な現実」と呼ぶ体験は、以下に述べる解離の社会認知モデルの主張とは順番が異なるのである。
人間は予想していない事態に直面した時、それをこれまでの自らの経験から説明しようとする。いつものAさんとは違う様子で現れたBさんに対して、「今日はAさんは一体どうしたのだろう?」とまずは考えるだろう。「今日は気分が優れないからだろうか?」とか「気のせいかもしれない」などと考えて自分を納得させようとするだろう。時には「Aさんは演技をしているのだろうか?」と疑うこともありそうだ。
しかしAさんが解離性同一性障害を有し、別人格のBさんが登場した場合、そのBさんはAさんと全く異なるプロフィールを有していることが多い。(というより、似た雰囲気の人格の場合、恐らく治療者は気がつかないことの方が多いのだ。)
そしてAさんの体(と言うよりは脳)に二人(あるいはそれ以上)の異なる主観が宿っていることを認めざるを得ないことになる。それは理論的な帰結というよりはむしろ目の前の出来事に対する直観的、ヒューリスティックな理解なのである。それは紛れもない一つの現実なのであるが、厄介なことに、そのような事態を説明するような精神医学的、心理学的な理論を私達は殆ど持ち合わせていないのである。
恐らく生まれて初めてある人の別人格に遭遇するという体験を持った場合、その人はかなりの違和感と信じられなさを体験するであろう。というのも私たちは常識としてその様なことが起きることを想定していないからだ。しかしそれが現実である以上、それを受け入れるところから出発するしかない。かの有名なシャルコーの言葉を引くまでもないであろう。
理論は結構だが、現実は消えてはなくならない。
La théorie, c’est bon, mais, ça n'empêche pas d'exister.