ここまでは私は羞恥と恥辱を次のように分けて論じた。
羞恥: 自分を見られることへの抵抗感、不快感。ただし自己価値の低下はない。
恥辱: 自分を見られることへの抵抗感、不快感。そこには自己価値の低下が伴う。
これはかなり前に内沼先生の理論(内沼幸雄:「対人恐怖の人間学」から学んで、それを受けて主張していることで、もう私の中ではデフォルトだが、これって本当だろうか?
この問題についてあれこれ考えているうちに幾つか気が付いたことがある。変な例だが思いついたので挙げてみよう。病院で血液査をするとき、採血された試験管が私の名前や番号を書かれて試験管立てに置かれる。当然それは人目に触れることになる。何かモヤモヤした気分だ。自分はその血に恥じているわけではない。私の血がエビなどの甲殻類の様に青銅色だとしたらすごく目立って本当に恥ずかしいがそんなこともない。「え、岡野さん、いやだ、エビだったんかい!」ってことはないのだ。でも自分の血液が人目にさらされることはどちらかと言えば嫌だ。よく考えれば私は特に恥じ入ることではなくても人目に晒されるのが億劫になることがある。その感覚自体がうっとうしいのだ。これは知覚過敏が関係しているのだろうか?
この現象についてさらに個人的な体験を書くと、私はある時イヤホンで音楽を聴きながら買い物をするとどうしてこんなに楽になるのだろうと思ったことがある。私にとって店に入ることはあまり好きではなく、店員にすっと寄って来られるとそれだけで帰りたくなるが、音楽を聴いているとそれがかなり軽くなる。実はサングラスをしても同じことだしおそらくマスクをしていることでずいぶん人目に触れることの苦痛は軽減しているはずだ。私はこのことを数多くの患者さんに伝えて「一度やってみては」と提案しているが、この現象に関する仮説はこうだ。
イヤホンをしていると、まず自分の足音が聞こえない。それ以外にも自分という存在が立てている何らかの音が軽減されて、全体として自分自身が発している情報が減る。サングラスをしていると、自分の視線が相手に対して与えている程度はかなり軽減される。なぜなら向こうには私の視線は恐らくあまり見えていないから。以前書いたとおり、対人体験は鏡面反射現象のようなものだ。実はきわめて錯綜した体験が起きていて、その一部を私たちはフィルタリングして体験しているだけに過ぎない。自分の足音が自分で聞こえるということは、当然それを聞いている他者の反応をモニターしていることになる。これはすでに対人体験における情報量としてのしかかってくる。それに、音楽を聴くということは心のかなりの部分が聴覚情報でおおわれることになる。その分他者のことを考えなくてもいいのだ。
この様に考えると対人過敏であることは、自分に関する評価の高い低いにかかわらずうっとうしいということになるだろう。対人体験がストレスとなる理由はこれではないだろうか?
「地獄は他者か 4」で私は「共感的羞恥」について書いた。そしてこの問題がどうやらHSPと関係しているらしいとも書いた。HSPの人にとっては、「他人が自分をどう思っているか」についても敏感だということだろうか?でもそれは共感の能力と関係はないのだろうか?HSPの提唱者であるエレーン・アーロンさんによれば、D・O・E・SのうちEは「感情反応が強く、共感力が高い」ということになっている。そしてそこで挙げられている項目は、
1.人が怒られていると自分の事のように感じてしまう。
2.悲しい映画は登場人物に感情移入してしまい、号泣する
3.相手のちょっとしたしぐさで、機嫌や思っていることが分かる
4.言葉を話せない幼児や動物の気持ちを察することが出来る。
ということで今回羞恥と恥辱の違いを再検討していて発見したのは、恥の問題にはこの「感覚過敏」というテーマは恐らく避けて通れない問題だということである。