表出的か支持的かに関わらず共感は必然である
ここで一つ私が考えている共感論に関して提案をしたい。表出的-支持的という二分法は、現在ではそれ自体の持つ意義が意味が改めて問われていることは以上に示した。しかし表出的な介入をするにしても、支持的な介入をするにしても、いずれにせよ治療者が患者の心の理解をすることに最善を尽くすことは当然ではないかということである。極端なことを言えば、解釈的な介入のみをするという方針の分析家も、患者の言葉に頷きさえしない分析家も、それでも心の中で共感をしているということは最低限必要ではないか。なぜなら解釈をするとしても、まず患者の心の中が分かっていなければ何も出来ないであろうからである。
この様なケースについて実に様々な可能性が考えられるだろう。
(中略)
私はこのプロセスは精神療法ではむしろ普通のこと、あるいは必然のことと考えて「中立性と現実」を書いたのである。治療関係において、「共同の現実」はやがて破綻する運命にある。そしてそこからバージョンアップし、さらに精度を増した改訂版「共同の現実」もまた、やがて破綻する運命にある。そして治療者と患者はやはり互いに分かり合えない部分を有する(ただし分かり合えた部分も治療開始前に比べればはるかに広がった)他者同志として終結するのだ。ただしそれは治療の失敗ではない。「程よい」終結なのだ。その時点では、「これくらいわかってもらえればいいか。これ以上は期待しない方がいいし、あとは自分独自の世界なのだ」とあきらめ、同時に「自分だってそれほど他人のことをわかっていないではないか。」という認識をも持って終わるのである。
(中略)
ただこの関係で治療者に大事なのは、できるだけ相手をわかろうと力を尽くすことなのである。