ここで恥の感情、特に羞恥感情は人の生産性に貢献するのかという点についても論じたい。後に述べるようにこれは自己愛の問題とも直結している。恥の感情がその人に特有の感覚過敏に由来する場合、自己表現の機会を利用することが出来ないことに苛立ちを覚えることがあるであろう。自分自身の創造性や生産性を人に認められるということは多くの人にとって極めて自然な願望や欲求であり、その人の健康な自己愛に根差していると言えるだろう。そのためには自分の姿を多かれ少なかれ不特定多数の人々の前に晒すことになるが、これには大きな抵抗が生じると、大きなジレンマを生む。
かつて「恥と自己愛の精神分析1998年.岩崎学術出版社」で私は「自己顕示欲」と「恥に対する敏感さ」を二つの独立変数として扱い、次のような分類を行った。両者が+(高い)の状態を過敏性自己愛性格とした。(ちなみに恥が+、自己顕示が−の場合に対人恐怖、恥が−、自己顕示が+の時に、無関心型自己愛と規定した。)
この過敏型自己愛は、「恥ずかしがり屋の目立ちたがり屋」ということになり、かなりややこしい性格ということになるが、自らの羞恥心を克服して自己主張をすることが出来るようになったという人はたくさんいる。多くの政治家や芸能人は幼少時や思春期にはむしろシャイで人前に出ることを欲しなかったということを聞く。自己実現の欲求が強い限りは、自分の恥ずかしがり屋な性格は必ずしもマイナスに働かないのであろう。すると私たちが持っている恥の感情は、それによってうまく表現されない自分をもっと別の経路で表現する力を生む原動力になるのではないか。ある人はそれを学問的な研究に向け、別の人は芸術に向けるかもしれない。
しかし特別の才能がなくても、接客などの対人接触があまり多くない仕事につき、そこで存分に力を発揮することが出来るだろう。コンピューターの技術者や様々な素材を扱う職人の中には、人と接することは苦手でも高い専門性を身に着け、自分の力を思う存分発揮する人もいるだろう・・・・。
と書いては見たが、あまり勢いがつかない。恥が原動力になるという主張は今一つ説得力がないのだ。恥は私たちにとって善なるものである、という所に今一つ主張を持って行きにくい。もちろん恥は奥ゆかしさ、媚態、など人の興味をそそり、またそこに美的価値も含まれると思うのだが、なかなかそこまで論じることが出来ない。その代わりやはり恥が持つネガティブな側面を強調することが先になりそうだ。
私が今非常に興味があるのは、権力者、力を持った人の体験する恥である。私はかなり前から自己愛の傷付きこそ最大の怒りや攻撃性を生むという考えを持つ。今になってみればこれ以上自明なことはないと思うのであるが、案外ハインツ・コフートの自己愛憤怒narcissistic rage の概念をヒントにしたのかもしれない。彼のこの概念を知ることなく自分がこの考えに行きついたのかと自らに問うと、ちょっと自信がなくなってくるのだ。この問題は今回この恥の再考の機会を得たとしても、これ以上進みようがない気がする。