2023年3月28日火曜日

地獄は他者か 8

 これまでの考えを復習してみよう。人は自分が他者に劣っていると思うことに激しい心の痛みを感じる。とはいえ自分が比較する対象が誰でもいいというわけではない。例えば将棋のアマ初段者は藤井聡太さんとの勝負(ハンデのない指導将棋など)に負けても恥に感じることは全くないだろう。それは相手との力の差は歴然としていて、最初から争うつもりはないからだ。でも同じ将棋仲間である初段の相手との試合に負ければ屈辱を感じるかもしれない。更に格下の初心者に万が一負けるとなれば怒り心頭になるだろう。
それはどうしてだろう?なぜ自分が所属していると思える集団の、自分と似たレベルの人たちに対してこれほどライバル心を燃やし、それらの人たちに自分が劣ることにこれほど傷つくのだろうか?
  こう考えていくうちに、実はこれは生物の宿命ではないかと考えるに至った。これまでに私の中になかった、ちょっと新しい発想である。生物は生存競争で自分と同等のレベルの相手との戦いで負けそうになることで激しい攻撃性を発揮するようにできているのではないか。(というよりは、そのような個体が淘汰に残ったのではないか?)同じメスをめぐるライバル同士の雄を考えるとよくわかるであろう。動物は相手がはるかに強い場合には戦いを挑むことそのものが危険である。またはるかに弱い場合にはそれを捕食することには何ら問題はないだろう。
噂のコブダイの雄姿



自分と同じような相手、とは生存競争の中でその様な相手としばしば争うことになるからだ。例えば日本近海に住むコブダイは、自分のテリトリーである岩場に近づいてくるもう一匹のコブダイと死闘を繰り広げる。そこに招き入れる雌を取られてしまわないかと必死なのだ。しかし彼は近くを回遊してくるサメなどに戦いを挑んだりはしないのだ。自分の仲間に対してだけムキになるのである。
  彼らが一番力を発揮しなくてはならないのは、自分と同レベルの相手(あるいは格下から急に同等レベルにまでのし上がってきた存在)であり、そこで攻撃性を発揮できない個体は生き残ることが非常に難しくなる。彼らが一番優劣をつけなくてはならないのはまさに自分と同じような相手なのである。そこで彼らは力の差が同等であると思える限りは攻撃性を発揮する。そして何らかの形で勝負がついた時点で、負けた方は退散するのみである。相手が自分より強いことが明白になった時点で攻撃性は止み、服従することがもっともその生命体の生存の可能性を高めるのだ。
ただし現実の恥の体験について考える場合、はるかに格下の相手からバカにされたり挑戦を受けた時にはさらに強い反応が起きるのだろう。なぜだろう? ライバルでもないのに。きっとそのような時、格下からのチャレンジも、深刻な脅威として感じられるからではないか。人は皆小さい、か弱い自分を持っているので、格下からのチャレンジは、即座にその格下を自分と同等のレベルまで押し上げてしまう。そしてその際やはり重要なのは、それを監視している聴衆の存在なのだ。
  このことをもとに恥の感情の定義を考え直さなくてはならない。これまで私は「恥とは自分の周囲と比べた際の弱さを感じたときに覚える感情である。しかしその際に大事なのはそのことを見ている聴衆の存在なのだ。そしてそれこそが恥の苦痛を大きく規定しているのである。

独裁者の恥
ということでこのテーマを論じる地ならしをしたつもりである。
いま世界では戦争が起きている。ロシアとウクライナの戦闘のことだ。C国はいつ戦争を開始してもおかしくない雰囲気だし、NK国も今戦争が起きていて敵からの脅威にさらされているとでも言わんばかりのことを言う。しかしここでもっと一般化して、A国がB国に戦争を持ち掛けている状況だとしよう。
  ここで意見が分かれるのはA国のリーダーが言うように、「戦争を仕掛けたのは実はBなのだ」と本気で思っているのか、ということである。もしこのような思考を本当に持っているとしたら、一種の狂気に近いもののように感じはしないだろうか?なぜなら明らかに自分たちの軍隊がB国に能動的に攻撃を仕掛けているからだ。もしB国が先に仕掛けてきたということを認識したなら間違いなく、「わがA国はB国からの一方的な攻撃に対して反撃した」と、最初から喧伝するであろうからだ。でもそれはなかったのだ。
しかしA国のリーダーが次のようなメンタリティーを持っているとしたらどうだろう?
「B国め、散々我々をバカにしやがって!」 A国にとっては、昔は連邦国の一部であったB国がよりにもよってA国と敵対している別の陣営に下ることなど、まったくもって許されず、A国の顔に泥を塗る(恥をかかせる)行為だと思わせていたとしたら? ここでこのA国のリーダーの「バカにされた、けしからん!」という感じ方が正当なものかという議論をしているのではない。「恥をかかされた」とは極めて主観的な感情だ。しかし国のリーダーのその感情は、扇動的なプロパガンダにより国民に伝わり、民衆が「恥をかかされた」「コケにされた」という感情を共有するとしたら、他国への攻撃は心情的には正当化されてしまうのである。
   極論かも知れないがこの「恥をかかされた、ケシカラン」という為政者の感情は、戦争を始める際の最も典型的な誘因ではないかと思う。それで思い出すのは1962年のキューバ危機だ。その前にキューバのカストロ将軍は、アメリカを訪問して友好関係を結ぼうと思った。しかし当時のアイゼンハウアー大統領はそれを受けずにゴルフに行ってしまった。そこからカストロのソ連への接近が始まったわけである。様々な政治的な背景があるにしても、カストロ将軍の「コケにしやがって!」という感情はやがてキューバにソ連のミサイルを配備させる動きへと繋がっていった…。