2025年9月4日木曜日

FNSの世界 推敲の推敲 2

変換症からFNSへ

 以上は変換という概念が消えつつあり、それに代わってFNSの概念が唱えられるようになった経緯を簡単に述べたが、この動きはもう少し細かく追う必要がある。   言うまでもないことだが、このFNDの”F”は機能性 functional であり、器質性organic という表現の対立概念であり、検査所見に異常がない、本来なら正常に機能する能力を保ったままの、という意味である。変換症と呼ばれてきた疾患も、時間が経てば、あるいは状況が変われば機能を回復するという意味では機能性の疾患といえる。だからFNDは「今現在器質性の病因は存在しないものの神経学的な症状を呈している状態」という客観的な描写に基づく名称ということが出来よう。  またFNDの”N”すなわち神経症状 neurologicalとは、神経症症状との区別が紛らわしいので注意を要する。ここでの神経症状とは通常は脳神経内科で扱うような症状、例えば手の震えや意識の混濁、健忘などの、知覚、感覚、随意運動などに表われる異常である。変換症が示す症状はこれらの知覚、感覚、随意運動などに表われる異常であることから、それらは神経症状症と呼ぶことが出来るのだ。それとの対比で神経症症状 neurotic symptoms とは、神経症 neurosis の症状という意味であり、不安神経症、強迫神経症などをさす。  このFNSがそれまでの変換症 conversion にとって代わる形で現れたわけであるが、それが含む意味は大きかった。DSM-5においてなぜconversion (変換、転換)という言葉そのものについて問い直すという動きがあったのだろうか? これについてはFNDの概念の整理に大きな力を発揮したJ.Stone の論文(2010)を参考に振り返ってみる。本来 conversion という用語は Freudの唱えたドイツ語の「Konversion (転換)」に由来する。 Freudは鬱積したリビドーが身体の方に移される convert ことで身体症状が生まれるという意味で、この言葉を用いた。ちなみにFreudが実際に用いたのは以下の表現である。「ヒステリーでは相容れない表象のその興奮量全体を身体的なものへと移し変えることによってその表象を無害化する。これをわたしは転換と呼ぶことを提案したい。」(Freud, 1894)  しかし問題はこの conversion という機序自体が Freudによる仮説に過ぎないのだと Stone は主張する。なぜなら心因(心理的な要因)が事実上見られない転換性症状も存在するからだという。もちろん心因が常に意識化されているとは限らず、心因が存在しないことを証明することも難しいが、その概念の恣意性を排除するという意味でもDSM-5においては conversive disorder の診断には心因が存在することをその条件とはしなくなったのである。

 Stone J, LaFrance WC Jr, Levenson JL, Sharpe M. Issues for DSM-5: Conversion disorder. Am J Psychiatry. 2010 Jun;167(6):626-7.

 DSM-IVにあった「症状が神経学的に説明できないこと」については、DSM-5やICD-11ではあえて強調されていないことになったことはまず注目に値する。実際には「その症状と、認められる神経学(医学)的疾患とが適合しない」という表現に変更されている。(ちなみに「適合しない」とは原文ではDSM-5では ”incompatible”, ICD-11では”not consistent”である。)
 このDSM-5やICD-11に見られた変更は、FNSにおいて神経学的な所見が存在しないということを否定しているわけではない。しかし医学的な診断が存在しないこと(すなわち陰性所見)ではなく、医学的な診断と適合しないこと(つまり陽性所見??)を強調する形になっている。この違いは微妙だが大切である。

実はこの陽性所見という概念、簡単なようで難しい。DSM-5‐TRの9.身体症状症および関連症群の冒頭部分でこう書いてある。「むしろ陽性の症状及び兆候(苦痛を伴う身体症状に加えて、そうした症状に対する反応としての異常な思考、感情、および行動)に基づく診断が強調される。」(p.339)  ところがFNSに関しては、「その症状と認められる神経疾患または医学的状態が適合しないことを裏付ける臨床的所見がある」(p.350) とし、2ページ後にはそれについて「このような『陽性』検査所見の例は何十例もある」p.351)。つまり陽性所見の意味はかなり違うのである。


 例えば足が動かないという訴えの人に転換性障害の診断を下すとしよう。その場合、足に神経学的な病変がないことにより診断することは望ましくない。そこに患者の強いこだわり、すなわち「過度の思考、感情、行動」が見られることで診断が下るべきだというのだ。

実はここら辺、相当苦労しながら書いている。何しろ従来の転換性障害conversion disorder は、変換症と呼ぶべきだったり、機能性神経症状症(FND)と呼ぶべきだったりと、さまざまである。どの用語を用いるべきかをいろいろ考えながら書かなくてはならない。

  ともかくもconversion という用語を用いなくなった事情には、患者が偏見や誤解の対象となることを回避すべきであるという倫理的な配慮も働いていた。これについてDSM-5‐TRには以下のような記載が見られるからだ。
「[ 身体症状群は]医学的に説明できないことを診断の基礎に置くことは問題であり、心身二元論を強化することになる。・・・所見の不在ではなく、その存在により診断を下すことが出来る。・・・ 医学的な説明が出来ないことが[診断の根拠として]過度に強調されると、患者は自分の身体症状が「本物 real でないことを含意する診断を、軽蔑的で屈辱的であると感じてしまうだろう」。(DSM-5₋TR , p.339)

  ここに見られるDSM-5やICD-11における倫理的な配慮は、以下に述べる「心因が存在すること」、「症状形成が作為的でないこと」、そして「疾病利得が存在しないこと」という項目についての変更にもつながっていると理解すべきである。
 このうち心因については、DSM-5,ICD-11では診断基準としては問われなくなったことは、上で転換という概念がなくなりつつある理由として示した通りである。それでは「症状形成が作為的でないこと」についてはどうか。
 「症状形成が作為的でないこと」は、転換性障害だけでなく、他の障害にも当然当てはまることである。さもなければそれは詐病か虚偽性障害(ミュンヒハウゼン病など)ということになるからだ。そしてそれを転換性障害についてことさら述べることは、それが上述のヒステリーに類するものという誤解を生みかねないため、この項目について問わなくなったのである。
 また疾病利得についても同様のことが言える。現在明らかになりつつあるのは、精神障害の患者の多くが二次疾病利得を求めているということだ。ある研究では精神科の外来患者の実に42.4%が疾病利得を求めている事とのことである(Egmond, et al. 2004)。従ってそれをことさら転換性障害についてのみ言及することもまた不必要な誤解を生みやすいことになる。
 さらには従来CDと呼ばれる状態について見られるとされていた「美しい無関心 a bell indifférence」の存在も記載されなくなった。なぜならそれも誤解を生みやすく、また診断の決め手とはならないからということだが、これも患者への倫理的な配慮の表れといえる。
 ただし実際にはFNDが解離としての性質を有するために、その症状に対する現実感や実感が伴わず、あたかもそれに無関心であるかの印象を与えかねないという可能性もあるだろう。その意味でこの語の生まれる根拠はあったであろうと私は考える。

2025年9月3日水曜日

FNSの世界 推敲の推敲 1

   本章はヒステリー(変換症、FND)の精神科からみた歴史というテーマについて論じる。すなわち本書の執筆を担当されている神経学の専門家とは異なる切り口からこのテーマについて論じることになる。はじめに本稿で用いる用語について述べたい。というのも本章に関してはめまぐるしい名称変更が近年あったからである。まずヒステリー hysteria はすでに過去のものとなりつつある概念ないし診断名であり、DSM-Ⅲ(1980)以降、解離性障害 dissociative disorder や転換性障害 conversion disorder へと引き継がれたという経緯がある。そして最近それがさらにFNDという表現を得たことになる。 以上の経緯を踏まえ、また用語の混乱を避けるため、本稿では以下の3つを使い分けることとする。

● ヒステリー ・・・・・ DSM-Ⅲ(1980)以前の時代における変換症、FNSに相当する概念
● 転換症 ・・・・・ DSM-Ⅲ以降DSM-5(2013)までの時代における変換症、FNSに相当する概念、過去に転換と記載されてたものも本稿では変換という表現に変える。
● FNS ・・・・・ DSM-5以降の概念で、ここには変換症、機能性神経学的症状症、解離性神経学的症状症と同等のものとする。

ヒステリーの歴史

さてヒステリーに関する精神医学の歴史をひも解く、ということになるが、これを純粋に精神医学の歴史上のあり方として切り分けることは簡単ではない。というのも昔から精神科と神経内科 (neurology、最近では脳神経内科という表現が一般的) は混然一体になっていた。ちょうどヒステリーについて現代的な医学の立場から唱え始めたシャルコーは神経学者だし、それを引き継いだフロイトやジャネは精神科医だったが、フロイトは元々は神経解剖学者だったという風にである。さらには病理学者(解剖をして顕微鏡で調べる学者)と臨床医の区別も漠然としていた。
 さらに問題となるのは、シャルコーやフロイト以前に「精神医学」が本来あるべき姿として存在したのか、という点である。よく知られているように、ヒステリーは子宮遊走によるという説が、ギリシャ時代からあったとされるが、これはそもそも「学問」的な理解なのかということも疑わしくなる。
 ヒステリーは人類の歴史のかなり早期から存在していた可能性がある。その古さはおそらくメランコリーなどと肩を並べるといってもいい。ヒステリーに関する記載はすでに古代エジプトの時代すなわち紀元前2000年ごろには存在していたとされるのだ。

(ものすごく長い中略)

変換症およびびFNDとしての歴史

さてここまではもっぱらヒステリーについて論じてきたが、これは1980年代以降はヒステリーという名称が避けられ、変換症conversion disorder という名前になる。これは1970年代になり、ベトナム戦争の帰還兵に多彩な身体症状が見られ、また女性の性被害者や幼児虐待の犠牲者にも同様の症状が見られたことがDSM-Ⅲの診断基準に反映されたことが大きかった。
 むろん変換 conversion という用語はフロイトが用いて以来存在していた。1952年のDSM初版には精神神経症の下位分類として「解離反応」と「転換反応」という表現が見られた。1968年のDSM-IIにはヒステリー神経症(解離型、変換型)という表現が存在した。ただしそれはまだヒステリーという時代遅れの概念の傘の下に置かれていたのである。

変換症の概念がFNDにその座を譲る経緯は多少なりとも込み入っていた。
まずDSM-5(2013) では変換症/転換性障害(機能性神経症状症 conversion disorder (functional neurological symptom disorder )という表現が登場した。そしてさらにDSM-5-TR(2022)では後者は機能性神経学的症状症(変換症) functional neurological symptom disorder (conversion disorder )へと変更になった。すなわちDSMで着々と起きているのは conversion という概念の使用の回避であり、DSM-5とDSM5-TRで順番が逆転したことがそれを示唆している。さらにはICD-11ではconversion という表現がなくなり、変換症に相当するのは、dissociative neurological symptom disorde 解離性神経学的症状症である。(ちなみにconversion の訳語が転換(性)から変換(性)に変更になった点については、脳波異常を伴う癲癇(てんかん)との混同を避けるためであり、それなりに意味がある変更と思われる。)
こうしてFNDの時代が到来したことになる。

なお世界的な診断基準であるDSM(米国精神医学会)とICD(国際保健機構)は,精神疾患一般についての理解や分類に関してはおおむね歩調を合わせつつある。ただし変換症を解離症に含めるかどうかについては顕著な隔たりがある。すなわちDSM‐5においても変換症は、「身体症状症」(DSM-IVにおける「身体表現性障害」)に分類される一方では、ICD-11では解離症群に分類されるのである。


2025年9月2日火曜日

男性の豹変の問題 3

 ① ポジティブフィードバック理論

私たちが「フィードバック」という言葉から一番連想しやすいのが、いわゆる「ネガティブフィードバック」だ。これはとてもよくあるシステムで、生命体が安定化に向かうためのあらゆる仕組みに関わっている。例えば体温や血圧や血糖値などはみなこのシステムだが、簡単な例では、サーモスタットのようなものを考えるといい。温度が上がるとバイメタルが曲がってスイッチが切れる。そして温度が低くなるとバイメタルが元通りに戻ってスイッチが入る、というように。
  このネガティブフィードバックがいかに必要かは次のような例を考えればいい。お腹がすいたから食事を摂る。すると空腹感は次第に癒され、最初は旺盛だった食欲は低下し、次第に食事を見るのも嫌になり、摂食行動は終わる。その細かいメカニズムはおそらくかなり複雑だが、だいたい私たちの食行動はこのようにしてバランスが取れている。
ここで思考実験だ。ある人は空腹なのでお菓子を口にすると、さらにお腹がすいた気分になり、もう少し食べたくなるとしよう。そして食べた分だけもっと食べたくなり、最後にはお腹がはちきれんばかりになってもさらに食欲が加速し、最後には胃が破裂してしまう。これは実に怖ろしい現象であり、たちまち生命維持に深刻な問題を起こす。あるいは血圧が少し上昇すると、それをさらに押し上げるようなホルモンが産出され、最後には脳出血や心不全を起こしてしまう。これもかなり危険だ。

この悪魔のようなプロセスは、実はポジティブフィードバックを描いたものである。普通は生体には起きないことだが、私たちは過食や飲酒などがそのようなループにより歯止めが効かなくなりそうな状態が存在することを知っている。

ここで気が付くのは、ポジティブフィードバック(以下、PF)はそれが生じたとしたら、生体は行くところまで行ってしまい、元のバランスには戻れないであろうということだ。ある種の破局的、ないしは一方向性の現象が起き、行くところまで行って戻ってこれない。これは例えば排卵のプロセスに当てはまる。

ちなみにこのPFに一番近い例として私はよく鮭の遡上のことを考える。鮭は成魚になると生まれ故郷の川を遡上し、ボロボロになりながら産卵をして死を迎える。ここからは想像だが、おそらく生まれ故郷の川に含まれる独特の「匂い」、つまりは様々な物質の混じり合いを覚えていて、鮭はそれを感知してその元となっている川を目指す。そして、これも想像だが(後でチャット君に尋ねてみる)その匂いの濃度勾配により、鮭はますます上流へと引き寄せられる。あれほどの急な流れに逆らって身をぼろぼろにしてまで泳ぎ、最後は穏やかな流れの産卵地にまでたどり着き、放卵ないしは放精を行う。その時鮭はエクスタシーを味わっているのだろう。

(以下略)


2025年9月1日月曜日

遊戯療法学会の講演

 8月30日(土)の水戸はとんでもなく暑かった。気温は優に35度を超えていた。東京から車で2時間の旅。そこで開かれた遊戯療法学会の基調講演を行った。それは「遊びと精神療法ー愛着理論を架け橋として」というテーマであった。数か月かけてゆっくり温めたテーマなのでそれなりに言いたいことは言えたと思うが、聞いた方々はどうお思いになったか心配である。でもこの数か月でとても面白い勉強をすることが出来た。いわゆる「じゃれ合い遊び」が持つ二者間(母子間)の脳の同期化の促進など、こう言ってしまえば何のことやらわからないかもしれないが、遊びという哺乳類以上の生命体にとって必須のプロセスの裏側が少し見えた気がした。

2025年8月31日日曜日

解離症の精神療法 4

 解離症の治療プロセス 

解離症は、記憶、知覚、運動、情動などの心身の諸機能の一部が一次的に欠落したために、心身の統合された機能が失われた状態である。そしてその治療の最終的な目標は、患者が「統合された機能を獲得すること」と言えよう。しかしそれは必ずしも容易ではなく、そのための治療のプロトコールや使うべき薬物が現在の精神医学において定まっているわけではない。
 治療の基本のひとつは、安全な環境を提供しつつ、その個人の持つ自然治癒力による回復を促すことである。解離症状の多くがトラウマや深刻なストレスをきっかけとして生じている以上、それらに関する記憶を扱うことが時には必要となるが、そこに治療者の個人的な好奇心や治療的な野心が働いたり、治療自体が結果的に再外傷体験となるような事態はできる限り回避しなくてはならない。また筆者の体験からは、治療者が解離症状に無理解で、それを当人の演技とみなしたり疾病利得を疑ったり、場合によっては詐病と決めつけたりすることによる二次的なトラウマを多くの患者が体験しているのも事実である。


● 治療目標

以下に特に DID の治療について論じるが、その目標も上述の解離性障害一般における統合された機能の達成であることに変わりない。しかしDID には異なる人格部分の存在という特殊事情がある。心身の機能を担う身体がひとつである以上、どの人格部分の言動についても、たとえそれに関与した自覚や記憶がなくても、その結果について責任を負わなくてはならない。そのことを個々の人格部分が受け入れるのを助けることは、治療者の重要な役割である。

他方で治療者は、個々の人格部分の存在は、患者が過去に直面した外傷性のストレスに対処したりそれを克服したりするうえでの適応的な試みを表しているということを理解しなくてはならない。それぞれの人格部分には特有の存在意義と記憶と、自己表現の意思がある。そのため治療者は、特定の人格部分をえり好みしたり、無視したり、「消える」ことを促したりすべきではない。

なお欧米のDID の治療に関するガイドラインには、患者に別の人格部分を作り出すことを示唆したり、名前のない人格部分に名前を付けたり、現在の人格部分が今以上に精緻化(その人格のディテールが同定されること)され、自律的な機能を担うよう促すことは慎重であるべきことがしばしば強調されるが、それには根拠がある。人格部分の精緻化や新たな出現、ないしはそれらの消退は、その個人の体験するライフイベントに影響を受けつつ独自に展開する可能性がある。そこに治療者が人工的な手を加える際には治療的な根拠が十分必要であろう。個々の人格のプロフィールを明らかにする、いわゆるマッピングについても、以前ほど治療手段としての意味が与えられていないのも事実である。かつて Putnam(Putnam FW Diagnosis and treatment of multiple personality disorder . New York: Guilford Press1989/ 安克昌、中井久夫(訳)多重人格障害-その診断と治療。東京、岩崎学術出版社2000)は、把握しうるすべての人格部分と会い、治療についての契約をそのすべてと交わす必要があるとした。ただし人格部分との出会いが、治療の進展により必然的に生じるのであれば問題ないものの、眠っている人格部分を不必要に覚醒させることにつながるのであれば、その是非は個別の臨床場面において判断されるべきであろう。

治療目標として人格間の統合 integration や融合 fusion を掲げることは、そこに一部の人格の消失をニュアンスとして含む場合には、人格間の混乱を引き起こしかねないために慎重さを要する。望まれる治療の帰結は交代人格間の調和であるが、それは特定の人格の消失を必ずしも意味しない。ただし調和が、かつて存在が確認されたすべての人格の共存により達成できない場合もある。
 治療者は人格の理想的な調和を阻む要素にも留意すべきであろう。それらは加害者との継続的な接触、家庭内暴力などによる慢性的で深刻なストレス、うつ病などの精神医学的ないしは慢性疾患などの身体的な併存症を持っていること、治療を受けるための十分な経済的な背景を持たないこと、社会的な孤立などはいずれもその達成を妨げる要素と考えられる。

2025年8月30日土曜日

男性の豹変の問題 2

 次に②の性依存についてである。こちらは「一見普通の男性の豹変」に関係するだろうか? 性依存に関しては、当人を満足させるようなパートナーは不在である場合がほとんどだろう。一日中オーガスムを追い求めることを止められない男性の相手を務められるパートナーなどは普通は存在しない。したがって性依存はそのままポルノ依存などの形をとる事になり、他人を巻き添えにするというよりは、自分で苦しみ、その結果として家族なども巻き込むことになる。ギャンブル依存などと違い、金銭的な問題が発生しにくいことも不幸中の幸いと言えなくはない。(ただし毎日の風俗通いを止められないという場合には別であろう。)ちなみにこの②について、それが一つの疾患としてどの程度認定されているかについてはいろいろ議論がある。いちおうWHO発行のICD-11(2022年)には、CSBD(compulsive sexual behavior disorder 強迫性性行動症)として記載されている。ところがもう一つの世界的な精神科の診断基準であるDSM-5にはそのような病名の記載はない。巷で言われる性依存の状態は、通常の依存症、すなわち薬物やギャンブルや買い物などの依存症と同類に扱うことが出来ないというのがDSM-5の立場なのである。(注)

さてこの性依存の問題、実は「男性の豹変」の問題と絡んでくるかもしれない。そこで改めてCSBDの定義(ICD-11)を読むと

(1)繰り返し制御できない性的衝動 (性的な思考や衝動がコントロールできず、頻繁に性的   行動を繰り返す)
(2)個人の生活や社会的機能に悪影響を与える (仕事や人間関係に支障をきたすほどの性的   行動を続ける。)
(3)性的行動を抑えようとしてもできない (自分でやめようとしても制御できない。)

これらの問題が少なくとも半年続いているとこれに該当するというのだ。

さて「男性の豹変」の場合これに該当するかと言えば、微妙だが、かなりこれとは異なる印象がある。「男性の豹変」としての行動は繰り返し制御できない衝動に駆られるのだろうか。回数としてはさほど多くないが時には性的な衝動に負けてしまうというところが、痴漢行為やポルノ依存とは異なるところだ。さらに言えば、「男性の豹変」には作為的な部分がある。その欲望を制御できないというわけではないが、どこかに機会を狙い、相手を拐すというニュアンスさえもある。しかしそればかりだとまさに計画性を持つ性犯罪者ということになってしまうが、そこに自制が効かなくなるという部分が混じった状態と言えるかもしれない。最初は性被害を与える意図は左程なくても、途中から抑制が外れるというところがある。
私がそれらの事例を見聞きして思うのは、彼らの豹変後の性加害がどこまで意図的で、どこまで不可抗力的なのかが分からないところがあることだ。もう少しいえばそれは相手とのじゃれ合いやせめぎあいや駆け引きのニュアンスがあるものの、途中から歯止めが効かなくなるというパターンが多いのではないか。するとやはりこの②の性依存とも区別して考えなくてはならないであろう。ただし途中から歯止めが効かなくなるという点に関しては②に類似する部分があると考えていいであろう。
それともう「男性の豹変」が性依存と異なる面がある。それは一般に依存症の場合には繰り返すことでその依存が深まるという要素がある。その行動にハマってどんどん抜けられなくなるという傾向があるのだ。しかし「男性の豹変」の場合、それほどの切迫感はない場合が多いのではないか。


2025年8月29日金曜日

男性の豹変の問題 1

 今回の対談と同時並行的に様々な文献に当たりつつ思ったのは、男性の性の問題は複雑多岐であり、かなり込み入った問題であり、その多くは解明されず、語られることは少ないということである。そしてこの「一見普通の男性の豹変」の問題はほとんど論じられてこなかったということだ。

すこしここで問題を整理してみたい。男性の性の問題は精神医学の世界でももちろん議論の対象となっていることは確かである。その点は確認しておきたい。それは一種の精神障害としてとらえられ、概ね二つに分類される。それらは①パラフィリア(性嗜好異常)、②性依存の二つである。
先ず①に関しては以前は性倒錯という呼び方が一般的であったが、1980年のDSM-III以降 paraphilia パラフィリアという呼び方に統一されている。Para とは 偏り deviation であり philia とは好み、親和性という意味である。つまり通常とは異なる人ないし物に惹かれるという意味だ。「倒錯 perversion」という呼び方にはかなり差別的な含みがあったが、パラフィリアはそうではないという理由でこの呼び方が一般になされるという事情もある。パラフィリアとは具体的には露出症、フェティシズム、窃触症、小児愛、性的マゾヒズム、性的サディズム、服装倒錯的フェティシズム、窃視症などが挙げられる。パラフィリアは極端に男性に偏る傾向にあり、おそらく男性の性愛性の持つ何らかの特徴に関係していると思われる。

このパラフィリアは性加害とどのように関係してくるかはケースバイケースといえよう。ある意味では本来のテーマである「一見普通の男性の起こす性加害行為」にも関係してくる可能性がある。なぜなら通常とは異なった対象に関連しているものの、結局は特定の人(多くは異性)を対象としたものであるからだ。たとえばフェティシズムの一例として、好きな異性の靴下や下着に関心を示すが、それを手に入れる際に相手の了解を得ていなかったりする場合が多いであろうし、その場合には加害的な要素が加わる事になる。あるいは盗撮、露出、覗きなども特定の相手あって生じるのであり、同様に侵襲的で加害的である場合が多い。
しかしパラフィリアの中には「対物性愛」というジャンルもある。その際は例えばエッフェル塔に性的興奮を覚えたりすることになるが、エッフェル塔を損壊でもしない限りは加害性は考えにくい。
このような意味で「一見普通の男性の豹変」かパラフィリア的な行為を含むことがあるが、逆にすべてのパラフィリアが加害的であるとは限らないという複雑な関係がある。ともあれパラフィリアと「一見普通の男性の豹変」の問題は別個の問題だと言えよう。