変換症からFNSへ
以上は変換という概念が消えつつあり、それに代わってFNSの概念が唱えられるようになった経緯を簡単に述べたが、この動きはもう少し細かく追う必要がある。 言うまでもないことだが、このFNDの”F”は機能性 functional であり、器質性organic という表現の対立概念であり、検査所見に異常がない、本来なら正常に機能する能力を保ったままの、という意味である。変換症と呼ばれてきた疾患も、時間が経てば、あるいは状況が変われば機能を回復するという意味では機能性の疾患といえる。だからFNDは「今現在器質性の病因は存在しないものの神経学的な症状を呈している状態」という客観的な描写に基づく名称ということが出来よう。 またFNDの”N”すなわち神経症状 neurologicalとは、神経症症状との区別が紛らわしいので注意を要する。ここでの神経症状とは通常は脳神経内科で扱うような症状、例えば手の震えや意識の混濁、健忘などの、知覚、感覚、随意運動などに表われる異常である。変換症が示す症状はこれらの知覚、感覚、随意運動などに表われる異常であることから、それらは神経症状症と呼ぶことが出来るのだ。それとの対比で神経症症状 neurotic symptoms とは、神経症 neurosis の症状という意味であり、不安神経症、強迫神経症などをさす。 このFNSがそれまでの変換症 conversion にとって代わる形で現れたわけであるが、それが含む意味は大きかった。DSM-5においてなぜconversion (変換、転換)という言葉そのものについて問い直すという動きがあったのだろうか? これについてはFNDの概念の整理に大きな力を発揮したJ.Stone の論文(2010)を参考に振り返ってみる。本来 conversion という用語は Freudの唱えたドイツ語の「Konversion (転換)」に由来する。 Freudは鬱積したリビドーが身体の方に移される convert ことで身体症状が生まれるという意味で、この言葉を用いた。ちなみにFreudが実際に用いたのは以下の表現である。「ヒステリーでは相容れない表象のその興奮量全体を身体的なものへと移し変えることによってその表象を無害化する。これをわたしは転換と呼ぶことを提案したい。」(Freud, 1894) しかし問題はこの conversion という機序自体が Freudによる仮説に過ぎないのだと Stone は主張する。なぜなら心因(心理的な要因)が事実上見られない転換性症状も存在するからだという。もちろん心因が常に意識化されているとは限らず、心因が存在しないことを証明することも難しいが、その概念の恣意性を排除するという意味でもDSM-5においては conversive disorder の診断には心因が存在することをその条件とはしなくなったのである。
Stone J, LaFrance WC Jr, Levenson JL, Sharpe M. Issues for DSM-5: Conversion disorder. Am J Psychiatry. 2010 Jun;167(6):626-7.
DSM-IVにあった「症状が神経学的に説明できないこと」については、DSM-5やICD-11ではあえて強調されていないことになったことはまず注目に値する。実際には「その症状と、認められる神経学(医学)的疾患とが適合しない」という表現に変更されている。(ちなみに「適合しない」とは原文ではDSM-5では ”incompatible”, ICD-11では”not consistent”である。)
このDSM-5やICD-11に見られた変更は、FNSにおいて神経学的な所見が存在しないということを否定しているわけではない。しかし医学的な診断が存在しないこと(すなわち陰性所見)ではなく、医学的な診断と適合しないこと(つまり陽性所見??)を強調する形になっている。この違いは微妙だが大切である。
実はこの陽性所見という概念、簡単なようで難しい。DSM-5‐TRの9.身体症状症および関連症群の冒頭部分でこう書いてある。「むしろ陽性の症状及び兆候(苦痛を伴う身体症状に加えて、そうした症状に対する反応としての異常な思考、感情、および行動)に基づく診断が強調される。」(p.339) ところがFNSに関しては、「その症状と認められる神経疾患または医学的状態が適合しないことを裏付ける臨床的所見がある」(p.350) とし、2ページ後にはそれについて「このような『陽性』検査所見の例は何十例もある」p.351)。つまり陽性所見の意味はかなり違うのである。
例えば足が動かないという訴えの人に転換性障害の診断を下すとしよう。その場合、足に神経学的な病変がないことにより診断することは望ましくない。そこに患者の強いこだわり、すなわち「過度の思考、感情、行動」が見られることで診断が下るべきだというのだ。
実はここら辺、相当苦労しながら書いている。何しろ従来の転換性障害conversion disorder は、変換症と呼ぶべきだったり、機能性神経症状症(FND)と呼ぶべきだったりと、さまざまである。どの用語を用いるべきかをいろいろ考えながら書かなくてはならない。
ともかくもconversion という用語を用いなくなった事情には、患者が偏見や誤解の対象となることを回避すべきであるという倫理的な配慮も働いていた。これについてDSM-5‐TRには以下のような記載が見られるからだ。
「[ 身体症状群は]医学的に説明できないことを診断の基礎に置くことは問題であり、心身二元論を強化することになる。・・・所見の不在ではなく、その存在により診断を下すことが出来る。・・・ 医学的な説明が出来ないことが[診断の根拠として]過度に強調されると、患者は自分の身体症状が「本物 real でないことを含意する診断を、軽蔑的で屈辱的であると感じてしまうだろう」。(DSM-5₋TR , p.339)
このうち心因については、DSM-5,ICD-11では診断基準としては問われなくなったことは、上で転換という概念がなくなりつつある理由として示した通りである。それでは「症状形成が作為的でないこと」についてはどうか。
「症状形成が作為的でないこと」は、転換性障害だけでなく、他の障害にも当然当てはまることである。さもなければそれは詐病か虚偽性障害(ミュンヒハウゼン病など)ということになるからだ。そしてそれを転換性障害についてことさら述べることは、それが上述のヒステリーに類するものという誤解を生みかねないため、この項目について問わなくなったのである。
また疾病利得についても同様のことが言える。現在明らかになりつつあるのは、精神障害の患者の多くが二次疾病利得を求めているということだ。ある研究では精神科の外来患者の実に42.4%が疾病利得を求めている事とのことである(Egmond, et al. 2004)。従ってそれをことさら転換性障害についてのみ言及することもまた不必要な誤解を生みやすいことになる。
さらには従来CDと呼ばれる状態について見られるとされていた「美しい無関心 a bell indifférence」の存在も記載されなくなった。なぜならそれも誤解を生みやすく、また診断の決め手とはならないからということだが、これも患者への倫理的な配慮の表れといえる。
ただし実際にはFNDが解離としての性質を有するために、その症状に対する現実感や実感が伴わず、あたかもそれに無関心であるかの印象を与えかねないという可能性もあるだろう。その意味でこの語の生まれる根拠はあったであろうと私は考える。