2021年11月30日火曜日

解離における他者性 60

JSSTD(国際解離トラウマ学会日本支部)の大会が迫っている。そこで以下のテーマで話すことになるが、どんな感じで話し出すかという事を考えてみた。それにしてもこのところ何度も同じテーマで話しているので、「またあの話か」と思われそうで気が重い。 

「『他者』としての交代人格と出会うこと」

この様なテーマで発表いたしますが、実は私は解離のお話をするときにはいつもこのテーマに戻ってしまい、皆さんはもう聞き飽きていらっしゃるのではないかという懸念があります。ただしおそらくそう思っているのは私だけで、依然として私の伝え方が十分ではなく、真意を伝えることが出来ていないのではないかと思います。そこでなるべくわかりやすくお伝えしようと思います。

「他者としての交代人格と出会う」という事で私が意図しているのは、私たちがDIDの人たちと会う時、患者さんが自分を分かり、受け入れてもらえたと感じられるような会い方をしましょう、という事です。そしてそのための会い方は、交代人格のことを一個の人間として遇しましょう、それが一番臨床的に意味があることですよ、と言いたいわけです。「他者」として出会う、とはわかりやすく言えば、私がAさんという人、ないしBさんという人と出会うのと同じだという事です。つまり皆さんの一人と出会うという当たり前のことです。ところが様々な理由で、私たちはそれを出来にくいという現状があり、それは解離性障害の臨床を行う私たちがそうなる危険性を十分認識しておくべきだと思うのです。

 まず私たちが「他者としての交代人格と会う」という事に失敗するいくつかのパターンを考えたいと思います。

1. 一つは「見て見ぬふり」をするという事です。

2. 人格部分として見るという事です。部分としてではなく一つの全体として別人格と会う、というのは要するに他者と会う、という事と同様であるという事です。

そしてついでに論じるのは、他者性が問題になる統合失調症と異なり、解離性障害における他者とはある意味でとても健全なお隣さんだという事です。

2021年11月29日月曜日

解離における他者性 59

 「攻撃者との同一化」の脳内プロセス

攻撃者との同一化についての脳内プロセスを図を使って説明してみよう。その前に前提として理解していただきたいのは、人間の心とは結局は一つの巨大な神経ネットワークにより成立しているということである。そのネットワークが全体として一つのまとまりを持ち、さまざまな興奮のパターンを持っていることが、その心の持つ体験の豊富さを意味する。そしてどうやら人間の脳はきわめて広大なスペースを持っているために、そのようなネットワークをいくつも備えることが出来るようなのだ。そして実際にはほとんどの私たちは一つのネットワークしか持ないが、解離の人の脳には、いくつかのいわば「空の」ネットワークが用意されているようだ。そこにいろいろな心が住むことになるわけだが、虐待者の心と、虐待者の目に映った被害者の心もそれぞれが独立のネットワークを持ち、住み込むことになる。その様子をこの図1で表そう。左側は子供の脳を表し、そこに子供の心のネットワークの塊が青いマルで描かれている。そしてご覧のとおり、子供の脳には、子供の心の外側に広いスペースがあり、そこに子供の心のネットワーク以外のものを宿す余裕があることが示されている。そして右側には攻撃者のネットワークが赤いイガイガの図で描かれている。そしてその中には被害者(青で示してある)のイメージがある。
 もちろん空のネットワークに入り込む、住み込むといっても実際に霊が乗り移るというようなオカルト的な現象ではない。ここでの「同一化」は実体としての魂が入り込む、ということとは違う。でも先ほど述べたように、マネをしている、と言うレベルではない。プログラムがコピーされるという比喩を先ほど使ったが、ある意味ではまねをする、と言うのと実際の魂が入り込む、ということの中間あたりにこの「同一化」が位置すると言えるかもしれない。ともかくそれまで空であったネットワークが、あたかも他人の心を持ったように振舞い始めるということだ。
 こうして攻撃者との同一化が起きた際に以下のような図(2)としてあらわされる。被害者の心の中に加害者の心と、加害者の目に映った被害者の心が共存し始めることになる。この図2に示したように、攻撃者の方はIWA(「identification with the aggressor 攻撃者との同一化」の略です)の1として入り込み、攻撃者の持っていた内的なイメージはIWA2として入り込む。
 以上のように自傷行為を黒幕人格によるものと考えた場合、DIDにおいて生じる自傷の様々な形を比較的わかりやすく理解することが出来るようになる。なぜ患者さんが知らないうちに自傷が行われるのか。それは主人格である人格Aが知らないうちに、非虐待人格が自傷する、あるいは虐待人格が非虐待人格に対して加害行為をする、という両方の可能性をはらんでいる。時には主人格の目の前で、自分のコントロールが効かなくなった左腕を、こちらもコントロールが効かなくなっている右手がカッターナイフで切りつける、という現象が起きたりする。その場合はここで述べた攻撃者との同一化のプロセスで生じる3つの人格の間に生じている現象として理解することが出来るわけだ。
 特にここで興味深いのは、主人格が知らないうちに、心のどこかでIWAの1と2が継続的に関係を持っているという可能性であるこの絵で両者の間に矢印が描かれている、これは主人格を介したものではない。ここは空想のレベルにとどまるのだが、両者の人格のかかわり、特にいじめや虐待については、現在進行形で行われているという可能性があるならば、この攻撃者との同一化のプロセスによりトラウマは決して過去のものとはならないという可能性を示しているのだろうと考える。
 ただしこの内的なプロセスとしての虐待は、この黒幕人格がいわば休眠状態に入った時にそこで進行が止まるという可能性がある。その意味ではいかに黒幕さんを扱うかというテーマは極めて臨床上大きな意味を持つと考えられるであろう。 

2021年11月28日日曜日

解離における他者性 58

  心のコピー機能は実に不思議でかつ巧みな機能と言わざるを得ない。そしてそれが生じている明らかな例と思われるのが幼少時の母語の習得である。英語を授業で学ぶ経験を皆さんがお持ちと思うが、外国語のアクセントを身に付けることは、意図的な学習としては極めて難しいことである。いかに知的な能力の高い人でも、一定の年齢を超えると、外国語をその発音やアクセントを含めて完璧に習得するのはほぼ不可能だ。しかし幼少時に母語についてそれを皆が行っていることを考えると、それが意図的な学習をはるかに超えた、というよりはそれとは全く異質の出来事であることがお分かりだろう。何しろ学ぼうとする努力をしているとは到底思えない赤ちゃんが、23歳で言葉を話すときには母国語のアクセント(と言っても発音自体はまだ不鮮明ですが)を完璧に身に付けるのだ。それは母国語と似ている、というレベルを超え、そのままの形でコピーされるといったニュアンスがある。つまり声帯と口腔の舌や頬の筋肉をどのようなタイミングでどのように組み合わせるかを、母親の声を聞くことを通してそのまま獲得するわけだが、それは母親の声帯と口腔の筋肉のセットにおきていることが、子供の声帯と口腔の筋肉のセットにそのまま移し変えられるという現象としか考えられない。まさにコンピューターのソフトがインストールされるのと似た事が起きるわけだ。これはこの現象が生じない場合に模倣と反復練習によりその能力を獲得する際の不十分さと比較すると、いかにこのプロセスが完璧に生じるかが分かる。母国語の場合、しかもそれを多くの場合には10歳以前に身に付ける際にはこの「丸ごとコピー」が生じるのだ。
 もちろんこれと攻撃者の同一化という出来事が同じプロセスで生じるという証拠はないが、言語の獲得に関してこのような能力を人間が持っているということは、同様のことが人格がコピーされるという際にもおきうることを我々に想像させるのである。
 ちなみにこのような不思議な同一化の現象は、解離性障害の患者さん以外にもみられることがある。その例として、憑依という現象を考えよう。誰かの霊が乗り移り、その人の口調で語り始めるという現象である。日本では古くから狐が憑くという現象が知られてきた。霊能師による「口寄せ」はその一種と考えられるが、それが演技ないしはパフォーマンスとして意図的に行われている場合も十分ありえるであろう。しかし実際に憑依現象が生じて、当人はその間のことを全く覚えていないという事も多く生じ、これは事実上解離状態における別人格の生成という事と同じことと考えられる。現在では憑依現象は、DSM-5 (2013) などでは解離性同一性障害の一タイプとして分類されているが、それが生じているときは、主体はどこかに退き、憑依した人や動物が主体として振舞うということが特徴とされるのだ。

2021年11月27日土曜日

解離における他者性 57

 ところがある特殊な条件のもとで心の中にいわばバーチャルな意識や能動体が形成され、その部分に何かをされると、こころは受動モードにとどまった状態になる。そしてそれが別人格の形成の始まりであり、その人格に触られると「触られた」という受動的な感覚が起きることもある。実に不思議な現象だが、それが先ほどの自分を叱る父親に対して同一化をするという例と同様な状態と考えられる。そしておそらくはこの攻撃者との同一化のプロセスで生まれた人格が黒幕人格の原型と考えられるのだ。
 この攻撃者との同一化は、一種の体外離脱体験のような形を取ることもある。子供が父親に厳しく叱られたり虐待されたりする状況を考えよう。子供がその父親に同一化を起こした際、その視線はおそらく外から子供を見ている。実際にはいわば上から自分を見下ろしているような体験になることが多いようだ。なぜこのようなことが実際に可能かはわからないが、おそらくある体験が自分自身でこれ以上許容不可能になるとき、この様な不思議な形での自己のスプリッティングが起きるようなのだ。実際にこれまでにないような恐怖や感動を体験している際に、多くの人がこの不思議な体験を持ち、記憶している。これは特に解離性障害を有する人に限ったことではないし、また誰かから攻撃された場合には限らない。ピアノを一心不乱で演奏している時に、その自分を見下ろすような体験を持つ人もいる。しかし将来解離性障害に発展する人の場合には、これが自分の中に自分の片割れができたような状態となり、二人が対話をしつつ物事を体験しているという状態にもなるであろうし、お互いが気配を感じつつ、でもどちらか一方が外に出ている、という状態ともなるであろう。後者の場合はAが出ている時には、B(別の人格、例えばここでは父親に同一化した人格)の存在やその視線をどこかに感じ、Bが出ている場合にはAの存在を感じるという形を取るだろう。日本の解離研究の第一人者である柴山雅俊先生のおっしゃる、解離でよくみられる「後ろに気配を感じる」、という状態は、たとえば体外離脱が起きている際に、見下ろされている側が体験することになる。
 この解離における攻撃者との同一化というプロセスが、具体的に脳の中でどのような現象が生じることで成立するかは全くと言っていいほど分かっていない。唯一ついえるのは、私たちの脳はあたかもコンピューターにソフトをインストールするのに似たような、自分の外側に存在する人の心をまるでコピーするという現象が起きるらしいということだ。それが、たとえば誰かになり切ったかのように振舞う、という同一化と明らかに異なる点である。こちらの場合はあくまでも主体は保たれていて、その主体の想像の世界で誰かの役を演じているという意識があるのだ。しかし解離における攻撃者との同一化では、その誰かが文字通り乗り移って振舞う、ということがおきる。

 

2021年11月26日金曜日

解離における他者性 56

 たとえば父親に「お前はどうしようもないやつだ!」と怒鳴られ、叩かれているときの子供を考えよう。彼が「そうだ、自分はどうしようもないやつだ、叩かれるのは当たり前のことだ」と思うこと、これがフェレンツィのいう「攻撃者との同一化」なのだ。
 このプロセスはあたかも父親の人格が入り込んで、交代人格を形成しているかのような実に不思議な現象だ。もちろんすべての人にこのようなことが起きるわけではないが、ごく一部の解離の傾向の高い人にはこのプロセスが生じる可能性がある。
 ここで生じている子供の「攻撃者への同一化」のプロセスのどこが不思議なのかについて改めて考えよう。私たちは普通は「自分は自分だ」という感覚を持っている。私の名前がAなら、私はAであり、目の前にいるのは私の父親であり、もちろん自分とは違う人間だという認識は当然ある。ところがこのプロセスでは、同時に私Aは父親に成り代わって彼の体験をしていることになる。そしてその父親が叱っている相手は、私自身なのだ。自分が他人に成り代わって自分を叱る? いったいどのようにしてであろうか? 何か頭がこんが混乱してくるが、この通常ならあり得ないような同一化が生じるのが、特に解離性障害なのだ。 
 この同一化がいかに奇妙な事かを、もっと普通の同一化のケースと比較しながら考えてみよう。赤ちゃんが母親に同一化をするとしよう。母親が笑ったら自分も嬉しくなる、痛いといったら自分も痛みを感じる、という具合にである。ところが母親が自分に何かを働きかけてきたらどうだろう?たとえば母親が自分を撫でてくれたら、自分は撫でられる対象となる。撫でられるという感覚は、それが他者により自分になされるという方向性を持つことで体験が生じる。その際は自分は母親にとっての対象(つまり相手)の位置に留まらなくてはならない。これが「~される」という体験である。それは基本的に自分から能動性を発揮しなくても、いわば「じっとしている」ことで自然に体験されることだ。このように他者がある能動性を発揮して自分に何かを行う時、自分は普通は一時的にではあれ相手との同一化を保留するのであろう。つまり受動モードにとどまるわけだが、これにはそれなりの意味がある。試しに自分で頭を撫でてみてほしい。全然気持ちよくないだろう。その際には小脳その他の経路を通して「自分が自分を触った時に得られるであろう感覚を差し引く」という操作が行われているそうだ。だから自分で自分を抱きしめても少しも気持ちがよくないわけである。ただし誰かに侵害された、という感じもしないわけだが。もちろん自慰行為などの例外もある。

2021年11月25日木曜日

解離における他者性 55

 この「黒幕人格」がどのように成立するかに関して、ひとつの仮説として「攻撃者との同一化」というプロセスが論じられる場合がある。「攻撃者との同一化」とは、もともとは精神分析の概念であるが、児童虐待などで起こる現象を表すときにも用いられることがある。攻撃者から与えられる恐怖の体験に対し、限界を超え、対処不能なとき、被害者は無力感や絶望感に陥る。そして、攻撃者の意図や行動を読み取って、それを自分の中に取り入れ、同一化することによって、攻撃者を外部にいる怖いものでなくす、というのがこの「攻撃者との同一化」である。
 この「攻撃者との同一化」という考えは、フロイトの時代に彼の親友でもあった分析家Sandor Ferenczi  1933年に提唱したものであるが (Ferenczi,1933)、それ以来トラウマや解離の世界では広く知られるようになっている。そして紛らわしいことにこの概念はS.Freudの末娘であり分析家だった Anna Freud (1936) が提出した同名の概念と混同されることが多いのだ。彼女の出世作である「自我と防衛機制」(A. Freud, 1936)に防衛機制一つとして記載されている「攻撃者との同一化」は、「攻撃者の衣を借りることで、その性質を帯び、それを真似することで、子供は脅かされている人から、脅かす人に変身する」(p. 113) と説明されている。しかしこれはFerenczi のいうそれとは大きく異なったものである(Frankel, 2002)。Ferenczi は「子供が攻撃者になり代わる」とは言っていないのだ。彼が描いているのはむしろ、一瞬にして攻撃者に心を乗っ取られてしまうことなのである。
 フェレンツィ がこの概念を提出した「大人と子供の言葉の混乱」の記述を少し追ってみよう。
Ferenczi, S. (1933/1949). Confusion of tongues between the adult and the child. International Journal of Psychoanalysis, 30, 225-230.(森茂起ほか訳「おとなと子供の間の言葉の混乱」精神分析への最後の貢献フェレンツィ後期著作集―所収 岩崎学術出版社、2007年 pp139-150」。

 「彼らの最初の衝動はこうでしょう。拒絶、憎しみ、嫌悪、精一杯の防衛。『ちがう、違う、欲しいのはこれではない、激しすぎる、苦しい』といったたぐいのものが直後の反応でしょう。恐ろしい不安によって麻痺していなければ、です。子どもは、身体的にも道徳的にも絶望を感じ、彼らの人格は、せめて思考のなかで抵抗するにも十分な堅固さをまだ持ち合わせていないので、大人の圧倒する力と権威が彼らを沈黙させ感覚を奪ってしまいます。ところが同じ不安がある頂点にまで達すると、攻撃者の意思に服従させ、攻撃者のあらゆる欲望の動きを汲み取り、それに従わせ、自らを忘れ去って攻撃者に完全に同一化させます。同一化によって、いわば攻撃者の取り入れによって、攻撃者は外的現実としては消えてしまい、心の外部ではなく内部に位置づけられます。」(森ほか訳、p.144-145)

このようにトラウマの犠牲になった子供はむしろそれに服従し、自らの意思を攻撃者のそれに同一化する。そしてそれは犠牲者の人格形成や精神病理に重大な影響を及ぼすことになるのだ。Ferencziはこの機制を特に解離の病理に限定して述べたわけではないが、多重人格を示す症例の場合に、この「攻撃者との同一化」が、彼らが攻撃的ないしは自虐的な人格部分を形成する上での主要なメカニズムとする立場もある(岡野、2015

 

2021年11月24日水曜日

解離における他者性 54

  これからしばらくは、黒幕人格の生成過程について論じる。黒幕人格とは「怒りや攻撃性を伴った人格部分」(解離新時代 岩崎学術出版社、2015年)として私が定義して用いている表現である。時には「黒幕さん」という多少なりとも敬意を表した呼び方を用いることもある。私は本書では一律に交代人格の持つ「他者性」について論じているが、この黒幕人格はその中でも際立ってその他者性が明確な形で表現される傾向にある。それはしばしば主人格やそのほかの人格たちの利害とは異なる行動や思考を表すからである。

黒幕人格がどのように形成されるかについては、もちろん詳しいことが分からないが、いくつかの仮説のようなものがある。そしてそれを仮説は仮説なりに頭の隅に置いておくことで、臨床的な理解が深まるかもしれないであろう。そもそもそれらの仮説は、臨床で出会う様々な現象や逸話をもとに、それらをうまく説明するように作り上げられたものだからである。

 黒幕人格と「攻撃者との同一化」

 黒幕人格に出会うことで改めて感じることがある。それは人格は基本的には「本人」とは異なる存在、いわば他者であり、ある意味では「アカの他人」として表現されるべき存在であるという事だ。ここで私が言う「本人」とは、いわゆる主人格や基本人格など、その人として普段ふるまっている人格のことだ。黒幕人格以外の、基本的には自分たちを大切にしている人格たちという意味である。「本人」は自分がしたいことをし、身に危険が迫ればそれを回避するであろう。ところが黒幕人格は大抵は「本人」の利害に無頓着な様子を示す。そしてしばしば「本人」達の生活を破壊し、その体に傷をつけるような振る舞いをするのだ。黒幕さんが去った後は、「本人」は何か嵐のような出来事が起きたらしいこと、それにより多くのものを失い、周囲の人々に迷惑をかけてしまった可能性があること、そして周囲の多くの人は自分がその責任を取るべきだと考えていることを知ることになる。それは黒幕さんの行動の多くが、その定義通り攻撃性、破壊性を伴うからである。ただし黒幕さんたちのことを深く知ると、その背後には悲しみや恨みの感情が隠されている場合があることを、「本人」も周囲も知るようになるのである。いったいなぜ「本人」が困ったり悲しんだりするような行動を「黒幕さん」たちはしてしまうのだろうか? 彼らが示す怒りとはどこから来るのだろうか。