2021年11月26日金曜日

解離における他者性 56

 たとえば父親に「お前はどうしようもないやつだ!」と怒鳴られ、叩かれているときの子供を考えよう。彼が「そうだ、自分はどうしようもないやつだ、叩かれるのは当たり前のことだ」と思うこと、これがフェレンツィのいう「攻撃者との同一化」なのだ。
 このプロセスはあたかも父親の人格が入り込んで、交代人格を形成しているかのような実に不思議な現象だ。もちろんすべての人にこのようなことが起きるわけではないが、ごく一部の解離の傾向の高い人にはこのプロセスが生じる可能性がある。
 ここで生じている子供の「攻撃者への同一化」のプロセスのどこが不思議なのかについて改めて考えよう。私たちは普通は「自分は自分だ」という感覚を持っている。私の名前がAなら、私はAであり、目の前にいるのは私の父親であり、もちろん自分とは違う人間だという認識は当然ある。ところがこのプロセスでは、同時に私Aは父親に成り代わって彼の体験をしていることになる。そしてその父親が叱っている相手は、私自身なのだ。自分が他人に成り代わって自分を叱る? いったいどのようにしてであろうか? 何か頭がこんが混乱してくるが、この通常ならあり得ないような同一化が生じるのが、特に解離性障害なのだ。 
 この同一化がいかに奇妙な事かを、もっと普通の同一化のケースと比較しながら考えてみよう。赤ちゃんが母親に同一化をするとしよう。母親が笑ったら自分も嬉しくなる、痛いといったら自分も痛みを感じる、という具合にである。ところが母親が自分に何かを働きかけてきたらどうだろう?たとえば母親が自分を撫でてくれたら、自分は撫でられる対象となる。撫でられるという感覚は、それが他者により自分になされるという方向性を持つことで体験が生じる。その際は自分は母親にとっての対象(つまり相手)の位置に留まらなくてはならない。これが「~される」という体験である。それは基本的に自分から能動性を発揮しなくても、いわば「じっとしている」ことで自然に体験されることだ。このように他者がある能動性を発揮して自分に何かを行う時、自分は普通は一時的にではあれ相手との同一化を保留するのであろう。つまり受動モードにとどまるわけだが、これにはそれなりの意味がある。試しに自分で頭を撫でてみてほしい。全然気持ちよくないだろう。その際には小脳その他の経路を通して「自分が自分を触った時に得られるであろう感覚を差し引く」という操作が行われているそうだ。だから自分で自分を抱きしめても少しも気持ちがよくないわけである。ただし誰かに侵害された、という感じもしないわけだが。もちろん自慰行為などの例外もある。