2017年12月15日金曜日

パラノイア 7

ところで私が長年温めている仮説をまだ書いていなかった。私がASの文献を読んでいて思うのは、ASの場合に感謝の念をなかなか抱けないということだ。そもそも感謝とはいったいなんだろう?人から何か施しを受ける。おそらくそのときの感謝の念は、そのときの喜びの大きさと密接に関係している。そしてその喜びは、その人がそれをいかに渇望していたか、あるいはそれを得られない可能性から来る不安がいかに大きかったかによる。ただしそれはその人との関係性にも大きく依存する。その施しを当然受けるはずだ、自分にはその義務があるはずだ、と考えていた際は、施しに伴う感謝はあまり起きないはずである。後者は、自分がそもそも社会から、親からしてもらうべきものを十分に受け取っていないという気持ちが土台にあるであろう。つまり施しを受ける前にそもそもムカついているわけである。(英語の表現で、「もらって当然」という気持ちを entitlement と言っていた。Sense of entitlement これこそが特徴と言えるだろう。するとこれはパラノイアとすでに表裏一体となっていることになる。自分が施されるべきものをそうされていないと感じると、これはすでに被害感に直結していることになるのだ。)
たとえば青年が親から仕送りを受ける。月5万はすでに年金暮らしに入っている親にとってはかなりきつい。青年はその仕送りで何とか暮らして行っているが、それが遅れると大変困る。財布のお金は底をつき、明日から食事を手に入れることが出来なくなると大きな不安を抱えているところに仕送りが届く。青年は感謝するだろうか。否。むしろ彼は怒るだろう。「いったいどれだけ心配させるんだ!」 親は彼に言うかもしれない。「どれだけ私たちが生活費を切り詰めてこのお金を送っているかわかるか?」 息子にそれが分からないわけではない。しかし彼はこういうだろう。「俺がどんな苦労をしながら生きているかを考えたら、損なのは当たり前だ。むしろそういう風に恩着せがましい言い方をする心境が分からない。そうやって息子に罪悪感を抱かせるところがますます腹が立つ!」 
まあ、このケースでは息子が匂わせているような、子育ての過程での、両親による彼に対する虐待やネグレクトなどは起きなかったと仮定しよう。おそらくこれがおきる唯一の可能性は、彼が人を愛するという体験をもてないからと言うことになるだろう。これが私のひとつの仮説であり、回答である。愛情は、それが実感できた場合には感謝にもつながるだろう。仕送りを親からの愛情表現としてとらえるとそこには感謝が生まれるはずだ。と言うことは自分に愛する体験がないとともに相手から愛される体験も生まれないことになる。その先にあるのは感謝の欠乏、恨みがましさと言うことになる。
その息子は、では他の情緒体験はどうだろう? 憎むこと? 彼がそれを出来ることはすでに明らかである。憎まれることもその胸像として体験できる。すると他人から施されることはことごとく相手からの憎しみとしての側面しか体験されることになる。すでに述べたように人間関係はことごとく win-win から派生する。とりあえず win-win で関係性は成立しているが、それは少し見方を変えるととんでもない lose-win あるいは win-lose とんでもない搾取になってしまうのだ。


2017年12月14日木曜日

パラノイア 6

この著者の主張で非常に興味深いのは、ASの人は、最初からつらい思いをしているというのだ。考えてもみよう。周囲となかなか波長が合わない。そしてその理由を自分はわからない。これは際立った身体的な特徴のために仲間はずれされるというのとはかなり事情が異なる。一人だけ異なる人種だから仲間外れになる場合には、自分の持っている属性にそれを期することが出来る。ところがASの場合には、自分そのものに帰するしかない。自分が自分であるがゆえに仲間はずれにされている…。これはかなり深刻な人間不信を招いてもおかしくない。そして人は自分に敵意を抱いているという結論にも発展するのだ。
ところでこの論文は、S(統合失調症)のパラノイアと、Tom(心の理論)の障害によるそれをいかに見分けるかということにあるらしい。ということで昨日紹介した論文になる。ASにおけるTom の低下とパラノイアは関係するという研究だ。これはたとえば、聴覚に問題がある人に猜疑心が多くみられるようになるケースに似ている気がする。起きた事象を識別できないから、自分の色に染めてしまう。Sの場合は、被害妄想が最初から先行していて、それにより事態を説明するという意味でASとはずいぶん違うことになる。

この本ではまた、ASの人が自分のことを理解してくれる人たちにより構成されているファンタジーの世界を持つことを伝えている。このことはたとえばAS傾向を持つストーカーや恋愛妄想を抱く人に際立っていると言えるだろう。またASの人たちの独り言についても書いてある。彼らは言葉に出すことで理解が深まるという。それは多くの場合、日中に起きた会話のリプレイだったりするというのだ。そしてこれらのことがやはりパラノイアと関係しているという。彼らにとっての言語は具体的であり、抽象的、象徴的な役割を荷わすことが難しい。たとえば、遊びをわからない、「いないいないバー」をされると混乱し、苦痛を表現するという場合はどうだろう? いるようでいない、いないようでいる、という中間状態がスリルや楽しみを生むのではなく、混乱を生むとしたら、それはおそらくその中間状態をそれとして認識するような認知的な能力が十分ではないということなのだろうか? 人が自分の顔を見て笑った場合、「馬鹿にしているのかもしれない」し、「好意を持ってくれているのかもしれない」。両者は全く異なるが、そのどちらかが確定しない状態で私たちは普通に生きている。「中間」「両義性」をそのままで留めることのできない心は、より防衛的で、サバイバルに適する解釈を行う。それが被害的な解釈、ということであろうか。

2017年12月13日水曜日

パラノイア 5

相変わらず来年の3月の「パラノイア」の発表のため、思索を続けている

パラノイアと執拗さ

発達障害にはそれに関連した執拗さが見られる。執拗さとパラノイアは表裏一体という気がする。ある発達障害の人は、(中略)と言い、セラピストはその感性を耐えがたいと感じた。彼らは人を疑う傾向にあるが、それはある意味ではその人の全体をテキトーに「いいじゃん」、と信用してしまうという能力の欠如という気がする。「ちょっとくらい怪しくたっていいじゃないか、みんな完璧じゃないからね。」といういい加減さがないために、全体をまるごと受け入れることが出来ない。どうしても細かいところが気になってしまう。ある意味では彼らの脳は優れている。彼らの脳はシステム化をする。細かい部分が整っていることにこだわるところがある。でも鳥だってメスの気を惹くためには、完璧な巣をつくったりするぞ。木の枝の一本一本を嘴で整えたりして。ただしそれは美的な感性に訴えるために要請されているのかもしれないが。
ということできっとパラノイアとアスペルガー障害との関係が研究されているのではないかと思って調べると ・・・・ あったのだ。ちょっと読んでみよう。Atwood という人の The complete guide to Asperger’s Syndrome という本だ。それによると、心の理論の未熟さとパラノイアとの関係に関する論文があるそうだ。

Blackshaw AJ, Kinderman P, Hare DJ, Hatton C(2001)Theory of mind, causal attribution and paranoia in Asperger syndrome. Autism. 5:147-63.
論文を買うのは高すぎるので抄録しか読めないが、こんなことが書いてある。「アスペルガーでTom(心の理論)の値が低い人はパラノイア傾向が強かった。フンフン。ところが彼らは自己概念 self-concept や原因帰属 causal attributions に問題はなかったという。もともとパラノイアは、この原因帰属に問題があるという学説があったらしい。アスペルガーのそれは違う、ということか? ウーン、よくわからないなあ。白状しよう。原因帰属という単語の意味がだいいち分からないのだ。しかし少し手がかりがつかめた気がする。この路線で調べてみることにしよう。


2017年12月12日火曜日

パラノイア 4

人の心を読みすぎる病理としてのパラノイア

私たちはしばしば他者の気持ちを予想し、あるはそれに同一化して、それに応じて自分の振る舞いを決めることがある。人の心を読むという私たちに本来的に備わっている性質がパラノイアにも深く関係しているのだろう。しかしここで問題がある。人の心を読むという傾向と、その正確さが一致していなかったらどうだろう?
この問題は解離傾向とAS傾向の違いという文脈で私も論じたことがある。解離傾向の強い人の中には、他者の感情や考えが直接入ってくるほどの強い影響力を持つ。涙を流している人を前にして、自分も涙を浮かべるというところがある。他方AS傾向のある人については、読めないものを読む、読みすぎるということがある。その結果としてAS傾向を持つということとパラノイア傾向は非常に近いということになる。こう言うと極端すぎるだろうか?他人の心の理解には二つの経路がある。情緒的な経路と認知的な経路と。前者は内側前頭前野、後者は背外側前頭前野ということだったかな。ASは前者に乏しく、後者一本でがんばっているというところがある。そして高知能ASとは、後者がずば抜けていることになるが、するとほとんど普通の社会生活が送れてしまう可能性もある。しかし基本は知的な推論で人のことを読んでいることになる。するとそこにはあたりはずれが付きまとう。ここでひとつの問題が生じる。どうしてASにおいては、それが被害妄想という形をとりやすいのであろうか?
漱石はアスペルガーではないだろうが、彼の人生においてさまざまな被害妄想的な言動があったことが知られる。(そのために彼はある病跡学者によって統合失調症と考えられていた。私は信じないが。)彼の例を取ろう。ネットで拾っただけでも次のようなエピソードがある。

l        妻子と火鉢に当たっているとき、ふちに小銭が置いてあるのをみて、発作的に三歳の長女を殴る 
l        自分が片思いしている美女の母親が尼さんに自分をスパイさせていると妄想 
l        向かいの下宿やの二階に住んでいる学生のことを、自分を監視している探偵だと思い込む 
l        朝食事の前に書斎の窓の敷居に乗って「探偵君、今日のお出かけは何時だ よ」と大声で怒鳴っていた 
たとえば火鉢のふちに置いた硬貨を見て悪意をそこに見出す。そのときたとえば「この五円玉は誰かが私の幸せを思っておいたのだ。ありがたいなあ。」とは絶対にならないのである。いや、絶対とはいえないが。必ず誰かからの悪意をそこに想定する。
いや、しかしこんな例もあったそうだ。
l        若い頃一度見かけた女の魂が、ある女優の中に生まれ変わったと信じて彼女を愛した 
これはパラノイアとはいえないだろう。むしろ恋愛妄想の方向に近いか。確かにいえることは、パラノイアは、ある危険の兆候をいち早く察知し、手を打つことでそれを未然に防ぐという意味を持つ。それはそれでその個体の生存率を高めていたはずである。

漱石の例を出すことでASの問題から離れたが、私がいつも提唱している仮説はこうである。ASにおいては、人の善意を身代わり体験することが非常に難しい。すると人の行動は基本的には自分に対する加害行為か、あるいは自分には無関係のものか、ということになる。つまり他人に感謝するということが少ない分、被害的な傾向が強くなるということだ。理屈としてはこうなるだろう。隣人とは基本的にwin win でバランスが取れている。感謝することもあれば、腹が立つこともある。「こんなこともする人だけど、こんないいところもあるよな。」でバランスをとっていくものだ。しかし後者の要素がかけてしまった場合、かなり被害的な対人関係、ないしは世界観の色彩が強いことになるだろう。

2017年12月11日月曜日

愛着と精神分析 5

アラン・ショアの提唱する新しい愛着理論
神分析における愛着理論をその高みにまで進めた人としてアラン・ショアの名を挙げたい。ショアは愛着と分析理論と脳科学的な知見の融合を図る。早期の母子関係は現在は脳科学的な研究の対象ともなっているのだ。早期の母子間では極めて活発な情緒的な交流が行なわれ、両者の情動的な同調が起きる。そしてそこで体験された音や匂いや感情などの記憶が、右脳に極端に偏る形で貯蔵されているという。愛着が生じる生後の2年間は、脳の量が特に大きくなる時期であるが、右の脳の容積は左より優位に大きいという事実もその証左となっている (Matsuzawa, et al. 2001)。このように言語を獲得する以前に発達する右脳は、幼児の思考や情動の基本的なあり方を提供することになり、いわば人の心の基底をなすものという意味で、ショアは人間の右脳が精神分析的な無意識を事実上つかさどっているのだと主張する。
 右脳はそれ以外にも重要な役割を果たす。それは共感を体験することである。その共感の機能を中心的につかさどるのが、右脳の眼窩前頭部である。この部分は倫理的、道徳的な行動にも関連し、他人がどのような感情を持ち、どのように痛みを感じているかについての査定を行う部位であるという。(わかりやすく考えるならば、脳のこの部分が破壊されると、人は反社会的な行動を平気でするようになるということだ。)その意味で眼窩前頭部は超自我的な要素を持っているというのがショアの考えである。
 さらには眼窩前頭部は心に生じていることと現実との照合を行う上でも決定的な役割を持つ。これは自分が今考えていることが、現実にマッチしているのかという能力であるが、これと道徳的な関心という超自我的な要素と実は深く関連している。自分の言動が、今現在周囲の人々や出来事とどうかかわり、それにどのような影響を及ぼすのか。この外界からの入力と内的な空想とのすり合わせという非常に高次な自我、超自我機能を担っているのも眼窩前頭部なのである。
 ここでショアの提唱する無意識=右脳、という意味についてもう一度考えてみよう。一世紀前に精神分析的な心についてのフロイトの理論が注意を促したのは、私たちが意識できない部分、すなわち無意識の役割の大きさである。フロイトは無意識をそこで様々な法則が働くような秩序を備えた構造とみなしたり、欲動の渦巻く一種のカオスと捉えたりした。これはフロイトにとっても無意識はつかみどころがなかったことを示している。夢分析などを考案することで、彼は無意識の心の動きに関する法則を発見したかのように考えたのだろうが、決してそうではなかった。それが証拠に夢分析はフロイト以降決して「進歩」したとはいいがたい。つまりフロイトの時代から一世紀の間、無意識の理論は特に大きな進展を見せなかった一方で、心を扱うそれ以外の領域が急速に進歩した。その代表が脳科学であり発達理論なのである。
 以下「愛着トラウマと発達する右脳」(Schore, 2009)を参考にする。
ショアの愛着理論の中でも注目すべきなのは、「愛着トラウマ」という概念である。愛着関係は、それが障害された場合に乳児の心に深刻な問題を来たす。そしれそれは具体的な生理学的機序を有している。母親に感情の調節をしてもらえないことで乳児の交感神経系が興奮した状態が引き起こされる。そして心臓の鼓動や血圧が高進し、発汗が生じる。しかしそれに対する二次的な反応として、今度は副交感神経の興奮が起きる。すると今度は逆に鼓動は低下し、血圧も低下し、ちょうど擬死のような状態になる。この時特に興奮しているのが迷走神経系の中でも背側迷走神経(Porges, 2001)である。そしてショアはこの状態として解離現象を理解する。そしてこれがメアリー・エインスウォースのいわゆるタイプ D の愛着に対応するのである。
 ストレンジ・シチュエーションにおいては、このタイプDの子供は非常に興味深い反応を見せる。タイプA, B, Cの場合は、子供は親にしがみついたり、怒ったりという、比較的わかりやすいパターンを示す。しかしタイプDでは子供は混乱や失検討を示す。そしてショアによれば、この反応は解離と同義でり、虐待を受けた子供の80パーセントにみられるパターンであるという。つまりこのタイプDのパターンを示す子供の親はしばしば虐待的であり、子供にとっては恐ろしい存在なため、子供は親に安心して接近することが出来ない。逆に親から後ずさりをしたり、他人からも距離を置いて壁に向かっていったり、ということが起きるのだ。
 このように解離性障害を、「幼児期の(性的)トラウマ」によるものとしてみるのではなく、愛着の障害としてみることのメリットは大きい。そして特定の愛着パターンが解離性障害と関係するという所見は、時には理論や予想が先行しやすい解離の議論にかなり確固とした実証的な素地を与えてくれるのだ。
 このタイプ D について一言付け加えるなら、ショアはこれを示す赤ちゃんの行動は、活動と抑制の共存として特徴づけられるとする。つまり愛着対象であるはずの親に向かっていこうという傾向と、それを抑制するような傾向が同時に見られるのだ。ちょうど「アクセルとブレーキを両方踏んでいるような状態」と考えると分かりやすいかもしれない。そしてそれが、エネルギーの消費を伴う交感神経系と、それを節約しようとする副交感神経系の両方が同時に賦活されている状態であり、解離症状を特徴付けているという。
 このタイプDに類似の反応を示す子供については、エドワード・トロニック E.Tronick らによる、いわゆる「能面パラダイム still-face procedure」の研究がある(Hesse, E., & Main, M. 2006).)。それによれば、子供に対面する親がいきなり表情を消して能面のようになると、子供はそれに恐れをなし、急に体を支えられなくなったり、目をそらせたり、抑うつ的になったり、といった解離のような反応を起こすというのだ。
 このタイプ D の愛着の概念が興味深いのは、そこで問題になっている解離様の反応は、実は母親の側にもみられるという点だ。母親は時には子供の前で恐怖の表情を示し、あたかも子供を恐れ、解離してしまうような表情を見せることがあるという。そして母親に起きた解離は、子供に恐怖反応を起こさせるアラームとなるというのだ。
 このことからショアが提唱していることは以下の点だ。幼児は幼いころに母親を通して、その情緒反応を自分の中に取り込んでいく。それはより具体的には、母親の特に右脳の皮質辺縁系のニューロンの発火パターンが取り入れられる、ということである。ちょうど子供が母親の発する言葉やアクセントを自分の中に取り込むように、脳の発火パターンそのものをコピーする、と考えるとわかりやすいであろう。そしてこれが、ストレスへの反応が世代間伝達を受けるということなのだ。それは一種刷り込みの現象にも似て、親の右脳の皮質辺縁系の回路が子供のそれに写し込まれるようにして成立するというわけである。


愛着と右脳
愛着や解離の理論において、特にショアが強調するのが、早期の発達過程における右脳の機能の優位性である。そもそも愛着とは、母親と子供の右脳の働きの同調により深まっていく。親は視線や声のトーン、あるいは体の接触を通して子どもと様々な情報を交換している。子供の感情や自律神経の状態は、母親の安定したそれらの状態によって調節されていくのだ。この時期は子供の中枢神経や自律神経が急速に育ち、成熟に向かい、それとともに子供は自分自身で感情や自律神経を調整するすべを学ぶ。究極的にはそれが当人の持つレジリエンスとなっていくのである。
 逆に愛着の失敗やトラウマ等で同調不全が生じた場合は、それが一種の右脳の機能不全を解して解離の病理につながっていく。ショアはこのことを、人間が生後の最初の一年でまず右脳から機能を発揮し始めるという事実と関連付ける。愛着がきちんと成立することは、右脳が正常な機能を獲得したということを意味する。子供が成長し、左右の海馬の機能などが備わり、時系列的な記憶が備わり始めるのは、4,5歳になってからだが、それ以前に生じたトラウマは、記憶としては残らないまでも、右脳の機能不全という形で刻印を残していく。上記のD型の愛着パターンは、右脳の独特の興奮のパターンに対応し、それがフラッシュバックのような過剰興奮の状態と解離のようなむしろ低下した活動状態のパターンの両方を形成する可能性があるというわけだ。
 通常はトラウマが生じた際は、体中のアラームが鳴り響き、過覚醒状態となる。そこで母親による慰撫 soothing が得られると、その過剰な興奮が徐々に和らぐ。しかしD型の愛着が形成されるような母子関係において、その慰撫が得られなかった際に生じると考えられるのがこの解離なのだ。それはいわば過覚醒が反跳する形で逆の弛緩へと向かった状態と捉えることが出来るだろう。
 そしてこのように解離は特に右脳の情緒的な情報の統合の低下を意味するため、右の前帯状回こそが解離の病理の座であるという説もあるという。
 ここでさらにショアの説を紹介するならば、右脳は左脳にも増して、大脳辺縁系やそのほかの皮質下の「闘争逃避」反応を生むような領域との連携を持つ。これは生後まずは右脳が働き始めるという事情を考えれば妥当な理解であろう。そして右脳の皮質と皮質下は通常は縦に連携をしているが、この連携が外れてしまうのが解離なのである。ここで大脳皮質というのは知覚などの外的な情報のインプットが生じる部位だ。それに比べて皮質下の辺縁系や自律神経は、体や心の内側からのインプットが生じる場所である。そして皮質はその内側からのインプットを基本的には抑制する働きがある。そのことは、この抑制が外れるとき、例えばお酒を飲んだ時にどうなるかを考えればよりよく理解できるだろう。

2017年12月10日日曜日

パラノイア 3

パラノイド的なナラティブは、一種の天啓として現れる

私の印象では、パラノイアというのは、一気に嵌るものである。何かたくらみが行われているのではないか、という疑念は皆が持つことがあるだろう。しかしパラノイアには、それが一瞬にして結晶化され、「そうだったんだ」という確信に近い考えに至らせる。その意味では直感、洞察、というものに近い。ノーベル経済学賞受賞の、ジョンナッシュの半生は、映画「ビューティフル・マインド」に描かれている。彼は敵国の暗号解読を任せられており、そのために敵国のスパイに狙われているという被害妄想を抱く。そして自分の被害妄想について聞かれた時に、それは天啓のように、ちょうど数学の発見と同じような感じで自分に降りて来たと言ったという。突然現れ、その信憑性が確信されるような着想なのである。(この部分、どこかで読んだのだが、出典が示せない)。この一本の作図線 construction line が引けたとき、人はそれにはまり込んでしまう。一種の結晶化に近い。するとそれを修正することは容易ではなくなる。突然その図式からしか世界が見えなくなる。それまでのその人の振る舞いや言動は、ことごとく偽りで、相手を利用するための意図を持っていたものとして捉えなおされるのである。
 被害妄想的な世界の捉え方として、自分は利用されているという確信がある。たとえばお互いに相手に惹かれて結婚したり、協力関係に入ったはずなのに、「実は相手は私を利用していたのだ」「自分の出世のための道具として使われていたのだ」と確信する。ところが問題は、「相手は自分を利用していたのだ」という命題は、ある意味では論駁が不可能だということである。人間関係は、基本的にはwin-win をベースにして展開する。それはおそらく微妙なバランスを保っている。株の売買と似たような関係だろう。そしてそれは回顧的に見るならば、いとも簡単に「実は私に不利であるにもかかわらず、有利だと思い込まされて結んでいた関係」に見えてしまう傾向にある。親が無力な子を100パーセント面倒を見ることで始まった親子関係でさえそうなのである。ある日子供は思う。「私はことごとく母親の操り人形として育てられたんだ。私がしたいことをさせてもらえたことがあるだろうか? 皆母親が私にさせたいことを、私がしたいように思いこませてやらせていたんだ。私の人生を返してほしい…」これにまともに反論することは、多くの母親にとっては難しいのではないか? 子供は更に言い募るのである。「私が勉強やピアノをしたくないというと、私を折檻したり、暴力をふるったでしょう? それが何より証拠じゃない?」確かに母親は子供の尻を叩いたかもしれない。でもここまで手塩にかけて育てたのに、当たり前のような顔をして、生意気にも口答えさえする子供に対して、育児放棄をしてしまわないために、自分の精神のバランスを保つために行った打擲かもしれない。これは親なりの win-win の保ち方だった可能性がある。(もちろん虐待は絶対にいけない。しかし…)ということで被害妄想的な発想はいったん生まれた以上、当人が理不尽に思っていた自らの人生を新しいナラティブで説明し尽くすのである。これをどうやって止めることなどできるだろうか?

人はなぜパラノイアになるのか、が問題ではない。人はどうやってパラノイアにならずに済んでいるのか? そちらの方が不思議なのである。

2017年12月9日土曜日

パラノイア 2

他人を疑い、常に天敵が自分を襲ってくることを警戒するのは、生命体にとって極めて重要なのだ。草食動物を見よ。常にきょろきょろビクビクし、肉食獣が迫りくる兆候に敏感になっている。外敵に対する注意を払うほんの合間だけ、草をはみ、水を飲むことが出来るのだ。もしそうだとしたら、パラノイアはどうして私たちにとって異常な状態と考えられるのだろうか? それは私たち人間は(そしておそらく動物も)敵にどの程度注意を払い、どの程度は警戒を解いて食事をし、睡眠をとるべきかの加減を知っているはずであり、その加減を失って過剰に被害的、防衛的になる様子がパラノイアとして観察出来るからだ。私たちの生命活動の大部分が天敵から身を守ることに費やされるとしたら、それによるストレスは私たちの寿命を極端に短くするかもしれない。テレビで野良猫と飼い猫の寿命の違いについて放映していたが、前者はそのストレスのせいで飼い猫よりはるかに短いという。うん、ネットで調べたらそう書いてあった。飼い猫は10年以上生きるのに、野良だと2~4年だという。そして多くの原因はあるものの、ストレスはその大きな要因であり、それによる免疫力の低下があげられるという。でも警戒心の強い猫がそれだけ殺されずに生き残っていくということにはならないのか? そうでない猫は子孫を残してさっさと死んでしまうということだろうか? 子猫の時に不用心で事故に遭ったり捕食されたりするよりは、とりあえず警戒心旺盛に生き抜き、交尾を2,3回余分にして子孫を残して死ぬ方がまだ生物学的に有利ということだろうか? ということは子孫を残すかどうかはともかく、長生きをしたいのであれば、被害妄想はあまり有利に働かないはずなのだ。個体として生き延びるためにはリラックスすること、あるいは不必要に警戒したり防衛的にならない方がいいのである。ということで人は警戒すべき人には適度な警戒をし、気を許せる相手には防衛を解く、というほどほどの人生を送ることで長く生きながらえていくのだろう。ところがある日突然、時には「どうしてあの人が?」と言われ、また「あの人には昔からそういうところがあった」と言われつつ、人はパラノイアのサイクルに入ってしまうことがある。なぜなのだろう。まだ全然本題に入っていないぞ。よくわからないからだ。そこで思いつくままに書くが、私の中ではパラノイアと恥とは結構近い位置にある。誰かに意図的に恥をかかされた、プライドを傷つけられたという種類のパラノイアはとても多い気がする。実例は一切出さないが、ある言葉が自分への当てこすりだったり、婉曲に自分のことを言っていたと「気がつく」類のパラノイアは、自分もそうだがその疑いをかけられた相手も大変である。それにおそらくそれを言った本人は気が付いていない。ところが誰かに深く恨まれてしまう。時には命を狙われることさえあるかもしれない。恨みを持った人が、場合によっては恨んだ相手を婉曲な形で中傷すると、今度はその人が不当に恨まれた、と思うかもしれない。何もないところから被害妄想が発展してしまうこともあるだろう。

ということで少し本題に近づこう。私は投影同一化(PI)という概念がとてもパラノイア的だと思う。PIとは精神分析の用語で、自分の中に、らしくないある感情が湧いた時、それが相手から投げ入れられたものとしてとらえることである。あるいはそのようなメカニズムを言う。土居先生はそれを「勘繰り」と言ったそうだが、そのように少し強引な仮説を設けることで人は何を獲得するのだろうか。それは「わかった」感であり、強力なナラティブの獲得なのである。ナラティブはそれほどに威力がある。それがどれほどにつらくても、恐ろしくても、それが世界で起きていることを説明してくれるのであれば、人はそれを喜んで受け入れるのである。