2017年12月14日木曜日

パラノイア 6

この著者の主張で非常に興味深いのは、ASの人は、最初からつらい思いをしているというのだ。考えてもみよう。周囲となかなか波長が合わない。そしてその理由を自分はわからない。これは際立った身体的な特徴のために仲間はずれされるというのとはかなり事情が異なる。一人だけ異なる人種だから仲間外れになる場合には、自分の持っている属性にそれを期することが出来る。ところがASの場合には、自分そのものに帰するしかない。自分が自分であるがゆえに仲間はずれにされている…。これはかなり深刻な人間不信を招いてもおかしくない。そして人は自分に敵意を抱いているという結論にも発展するのだ。
ところでこの論文は、S(統合失調症)のパラノイアと、Tom(心の理論)の障害によるそれをいかに見分けるかということにあるらしい。ということで昨日紹介した論文になる。ASにおけるTom の低下とパラノイアは関係するという研究だ。これはたとえば、聴覚に問題がある人に猜疑心が多くみられるようになるケースに似ている気がする。起きた事象を識別できないから、自分の色に染めてしまう。Sの場合は、被害妄想が最初から先行していて、それにより事態を説明するという意味でASとはずいぶん違うことになる。

この本ではまた、ASの人が自分のことを理解してくれる人たちにより構成されているファンタジーの世界を持つことを伝えている。このことはたとえばAS傾向を持つストーカーや恋愛妄想を抱く人に際立っていると言えるだろう。またASの人たちの独り言についても書いてある。彼らは言葉に出すことで理解が深まるという。それは多くの場合、日中に起きた会話のリプレイだったりするというのだ。そしてこれらのことがやはりパラノイアと関係しているという。彼らにとっての言語は具体的であり、抽象的、象徴的な役割を荷わすことが難しい。たとえば、遊びをわからない、「いないいないバー」をされると混乱し、苦痛を表現するという場合はどうだろう? いるようでいない、いないようでいる、という中間状態がスリルや楽しみを生むのではなく、混乱を生むとしたら、それはおそらくその中間状態をそれとして認識するような認知的な能力が十分ではないということなのだろうか? 人が自分の顔を見て笑った場合、「馬鹿にしているのかもしれない」し、「好意を持ってくれているのかもしれない」。両者は全く異なるが、そのどちらかが確定しない状態で私たちは普通に生きている。「中間」「両義性」をそのままで留めることのできない心は、より防衛的で、サバイバルに適する解釈を行う。それが被害的な解釈、ということであろうか。