2017年12月12日火曜日

パラノイア 4

人の心を読みすぎる病理としてのパラノイア

私たちはしばしば他者の気持ちを予想し、あるはそれに同一化して、それに応じて自分の振る舞いを決めることがある。人の心を読むという私たちに本来的に備わっている性質がパラノイアにも深く関係しているのだろう。しかしここで問題がある。人の心を読むという傾向と、その正確さが一致していなかったらどうだろう?
この問題は解離傾向とAS傾向の違いという文脈で私も論じたことがある。解離傾向の強い人の中には、他者の感情や考えが直接入ってくるほどの強い影響力を持つ。涙を流している人を前にして、自分も涙を浮かべるというところがある。他方AS傾向のある人については、読めないものを読む、読みすぎるということがある。その結果としてAS傾向を持つということとパラノイア傾向は非常に近いということになる。こう言うと極端すぎるだろうか?他人の心の理解には二つの経路がある。情緒的な経路と認知的な経路と。前者は内側前頭前野、後者は背外側前頭前野ということだったかな。ASは前者に乏しく、後者一本でがんばっているというところがある。そして高知能ASとは、後者がずば抜けていることになるが、するとほとんど普通の社会生活が送れてしまう可能性もある。しかし基本は知的な推論で人のことを読んでいることになる。するとそこにはあたりはずれが付きまとう。ここでひとつの問題が生じる。どうしてASにおいては、それが被害妄想という形をとりやすいのであろうか?
漱石はアスペルガーではないだろうが、彼の人生においてさまざまな被害妄想的な言動があったことが知られる。(そのために彼はある病跡学者によって統合失調症と考えられていた。私は信じないが。)彼の例を取ろう。ネットで拾っただけでも次のようなエピソードがある。

l        妻子と火鉢に当たっているとき、ふちに小銭が置いてあるのをみて、発作的に三歳の長女を殴る 
l        自分が片思いしている美女の母親が尼さんに自分をスパイさせていると妄想 
l        向かいの下宿やの二階に住んでいる学生のことを、自分を監視している探偵だと思い込む 
l        朝食事の前に書斎の窓の敷居に乗って「探偵君、今日のお出かけは何時だ よ」と大声で怒鳴っていた 
たとえば火鉢のふちに置いた硬貨を見て悪意をそこに見出す。そのときたとえば「この五円玉は誰かが私の幸せを思っておいたのだ。ありがたいなあ。」とは絶対にならないのである。いや、絶対とはいえないが。必ず誰かからの悪意をそこに想定する。
いや、しかしこんな例もあったそうだ。
l        若い頃一度見かけた女の魂が、ある女優の中に生まれ変わったと信じて彼女を愛した 
これはパラノイアとはいえないだろう。むしろ恋愛妄想の方向に近いか。確かにいえることは、パラノイアは、ある危険の兆候をいち早く察知し、手を打つことでそれを未然に防ぐという意味を持つ。それはそれでその個体の生存率を高めていたはずである。

漱石の例を出すことでASの問題から離れたが、私がいつも提唱している仮説はこうである。ASにおいては、人の善意を身代わり体験することが非常に難しい。すると人の行動は基本的には自分に対する加害行為か、あるいは自分には無関係のものか、ということになる。つまり他人に感謝するということが少ない分、被害的な傾向が強くなるということだ。理屈としてはこうなるだろう。隣人とは基本的にwin win でバランスが取れている。感謝することもあれば、腹が立つこともある。「こんなこともする人だけど、こんないいところもあるよな。」でバランスをとっていくものだ。しかし後者の要素がかけてしまった場合、かなり被害的な対人関係、ないしは世界観の色彩が強いことになるだろう。