2017年12月15日金曜日

パラノイア 7

ところで私が長年温めている仮説をまだ書いていなかった。私がASの文献を読んでいて思うのは、ASの場合に感謝の念をなかなか抱けないということだ。そもそも感謝とはいったいなんだろう?人から何か施しを受ける。おそらくそのときの感謝の念は、そのときの喜びの大きさと密接に関係している。そしてその喜びは、その人がそれをいかに渇望していたか、あるいはそれを得られない可能性から来る不安がいかに大きかったかによる。ただしそれはその人との関係性にも大きく依存する。その施しを当然受けるはずだ、自分にはその義務があるはずだ、と考えていた際は、施しに伴う感謝はあまり起きないはずである。後者は、自分がそもそも社会から、親からしてもらうべきものを十分に受け取っていないという気持ちが土台にあるであろう。つまり施しを受ける前にそもそもムカついているわけである。(英語の表現で、「もらって当然」という気持ちを entitlement と言っていた。Sense of entitlement これこそが特徴と言えるだろう。するとこれはパラノイアとすでに表裏一体となっていることになる。自分が施されるべきものをそうされていないと感じると、これはすでに被害感に直結していることになるのだ。)
たとえば青年が親から仕送りを受ける。月5万はすでに年金暮らしに入っている親にとってはかなりきつい。青年はその仕送りで何とか暮らして行っているが、それが遅れると大変困る。財布のお金は底をつき、明日から食事を手に入れることが出来なくなると大きな不安を抱えているところに仕送りが届く。青年は感謝するだろうか。否。むしろ彼は怒るだろう。「いったいどれだけ心配させるんだ!」 親は彼に言うかもしれない。「どれだけ私たちが生活費を切り詰めてこのお金を送っているかわかるか?」 息子にそれが分からないわけではない。しかし彼はこういうだろう。「俺がどんな苦労をしながら生きているかを考えたら、損なのは当たり前だ。むしろそういう風に恩着せがましい言い方をする心境が分からない。そうやって息子に罪悪感を抱かせるところがますます腹が立つ!」 
まあ、このケースでは息子が匂わせているような、子育ての過程での、両親による彼に対する虐待やネグレクトなどは起きなかったと仮定しよう。おそらくこれがおきる唯一の可能性は、彼が人を愛するという体験をもてないからと言うことになるだろう。これが私のひとつの仮説であり、回答である。愛情は、それが実感できた場合には感謝にもつながるだろう。仕送りを親からの愛情表現としてとらえるとそこには感謝が生まれるはずだ。と言うことは自分に愛する体験がないとともに相手から愛される体験も生まれないことになる。その先にあるのは感謝の欠乏、恨みがましさと言うことになる。
その息子は、では他の情緒体験はどうだろう? 憎むこと? 彼がそれを出来ることはすでに明らかである。憎まれることもその胸像として体験できる。すると他人から施されることはことごとく相手からの憎しみとしての側面しか体験されることになる。すでに述べたように人間関係はことごとく win-win から派生する。とりあえず win-win で関係性は成立しているが、それは少し見方を変えるととんでもない lose-win あるいは win-lose とんでもない搾取になってしまうのだ。