2017年12月10日日曜日

パラノイア 3

パラノイド的なナラティブは、一種の天啓として現れる

私の印象では、パラノイアというのは、一気に嵌るものである。何かたくらみが行われているのではないか、という疑念は皆が持つことがあるだろう。しかしパラノイアには、それが一瞬にして結晶化され、「そうだったんだ」という確信に近い考えに至らせる。その意味では直感、洞察、というものに近い。ノーベル経済学賞受賞の、ジョンナッシュの半生は、映画「ビューティフル・マインド」に描かれている。彼は敵国の暗号解読を任せられており、そのために敵国のスパイに狙われているという被害妄想を抱く。そして自分の被害妄想について聞かれた時に、それは天啓のように、ちょうど数学の発見と同じような感じで自分に降りて来たと言ったという。突然現れ、その信憑性が確信されるような着想なのである。(この部分、どこかで読んだのだが、出典が示せない)。この一本の作図線 construction line が引けたとき、人はそれにはまり込んでしまう。一種の結晶化に近い。するとそれを修正することは容易ではなくなる。突然その図式からしか世界が見えなくなる。それまでのその人の振る舞いや言動は、ことごとく偽りで、相手を利用するための意図を持っていたものとして捉えなおされるのである。
 被害妄想的な世界の捉え方として、自分は利用されているという確信がある。たとえばお互いに相手に惹かれて結婚したり、協力関係に入ったはずなのに、「実は相手は私を利用していたのだ」「自分の出世のための道具として使われていたのだ」と確信する。ところが問題は、「相手は自分を利用していたのだ」という命題は、ある意味では論駁が不可能だということである。人間関係は、基本的にはwin-win をベースにして展開する。それはおそらく微妙なバランスを保っている。株の売買と似たような関係だろう。そしてそれは回顧的に見るならば、いとも簡単に「実は私に不利であるにもかかわらず、有利だと思い込まされて結んでいた関係」に見えてしまう傾向にある。親が無力な子を100パーセント面倒を見ることで始まった親子関係でさえそうなのである。ある日子供は思う。「私はことごとく母親の操り人形として育てられたんだ。私がしたいことをさせてもらえたことがあるだろうか? 皆母親が私にさせたいことを、私がしたいように思いこませてやらせていたんだ。私の人生を返してほしい…」これにまともに反論することは、多くの母親にとっては難しいのではないか? 子供は更に言い募るのである。「私が勉強やピアノをしたくないというと、私を折檻したり、暴力をふるったでしょう? それが何より証拠じゃない?」確かに母親は子供の尻を叩いたかもしれない。でもここまで手塩にかけて育てたのに、当たり前のような顔をして、生意気にも口答えさえする子供に対して、育児放棄をしてしまわないために、自分の精神のバランスを保つために行った打擲かもしれない。これは親なりの win-win の保ち方だった可能性がある。(もちろん虐待は絶対にいけない。しかし…)ということで被害妄想的な発想はいったん生まれた以上、当人が理不尽に思っていた自らの人生を新しいナラティブで説明し尽くすのである。これをどうやって止めることなどできるだろうか?

人はなぜパラノイアになるのか、が問題ではない。人はどうやってパラノイアにならずに済んでいるのか? そちらの方が不思議なのである。