2017年9月10日日曜日

第8章 終結を問い直す ①


― 「自然消滅」としての終結

本章では治療の終結について論じる。終結をいかに迎え、処理するかは精神分析ではかなり重要な問題として論じられる。私は本章でそれについて再考を加えたいと考えている。

臨床はドロップアウト体験から始まる

そもそも治療はなぜ終了するのか。その答え自体はシンプルである。クライエントの側に治療に来るだけの動機付けがもはやなくなるからである。それが目標をある程度達成した上で、しかるべき手順を踏む形で生じれば、それは通常は終結と呼ばれる。そしてそれがクライエントの側から一方的に、しかも本格的な治療が始る前にもたらされる場合には、中断ということになる。ただし私には後者は「ドロップアウト」という表現の方がなじみがある。「ドロップアウト」はする側にもされるに側も、失敗、望ましくない形で生じたこと、というニュアンスがある。治療者の側には、一度は担当することになったはずのケースが手からすり抜ける(「ドロップ」する)無念さという印象を伝える。場合によっては胸が痛み、トラウマにさえなる「ドロップアウト」の体験は、実は初心の治療者が経験を積む上での出発点でもあるのだ。
ところで、そもそもケースがドロップすることなく、きちんとした終結が迎えられるケースは、どの程度存在するのだろうか? もちろん治療者により異なるであろうが、米国の少し古いメタアナリシスは、心理療法のドロップアウト率として47%という数字を伝える(Wierzbicki,1993)。もしそうであれば、ビギナーの場合には、一旦治療が開始されたクライエントがドロップアウトの末に三分の一残れば、それで上出来ではないか。

A meta-analysis of psychotherapy dropout.
By Wierzbicki, M, Pekarik, G: Professional Psychology: Research and Practice, Vol 24(2), May 1993, 190-195.
Abstract (A meta-analysis was conducted of 125 studies on psychotherapy dropout. Mean dropout rate was 46.86%.) 

Swift, JK.; Greenberg, RP.Premature discontinuation in adult psychotherapy: A meta-analysis.
Journal of Consulting and Clinical Psychology, Vol 80(4), Aug 2012, 547-559.http://dx.doi.org/10.1037/a0028226

最近の研究はドロップアウト率として20%前後という少し安心する数字を挙げている(Swift, 2012)が、臨床現場にいると、心理療法の初回面接に訪れた人の半分以上は、やはりドロップアウトしてしまうという印象を持つ。特にほかの臨床家から紹介されたのではなく、広告などを見て直接カウンセリングを求めてやってきた人のドロップアウトはかなり高率で生じる。「カウンセリングとはこういうものだろう」と想像していたものと実際とがあまりにかけ離れている可能性があるからだ。
 ドロップアウトが一番起きやすいのが初回面接の後であろう。場合によっては治療者と対面してものの5分も経たないうちに、クライエント側はもう二度と来ないことを決めている。「想像していたのと全く違っていた ……。」しかしそれを少しも口にせず、最後まで面接の場に居続け、多くの場合は次回の約束まできちんとしておいて、そしてその「次回」に ……… 訪れないのである。
初回面接を乗り越えたクライエントに次に訪れるドロップアウトの危機は、治療が始まって2,3か月後の、ラポールが出来かけたころである。それは予定していたセッションの何度かのキャンセルの後に起きるというパターンを取りやすい。まず第一回目は、「風邪をひいた」などの特定の理由でキャンセルの電話が入る。これ自体はどの治療関係にも普通起きることであり、治療者は特に気に留めないだろう。ところが次の週は理由もなく、ただキャンセルの連絡のみが受付に入る。治療者はある覚悟を決め始めなくてはならない。そしていよいよ3回目は無断キャンセル。何の連絡もなく、ただいつもの時間になっても現れない。そしてその後は連絡にも応じなくなる。
 この種のドロップアウトの場合、それが生じる以前には、治療をやめるような話はクライエントからは具体的には出ないのがふつうである。少なくとも治療者の側は今後も治療が続いていくつもりでいる。しかし患者の側では、動機づけがすでにかなり減ってきている。ただ治療者に対して申し訳ない、などの理由でそれをセッション中に言い出せない。そして最初は風邪を理由にキャンセルするが、少し胸が痛む。二回目のキャンセルでクライエントは、もう治療を続けたくないという暗黙のメッセージを、治療者に受け取ってもらい、心の準備をしてほしいと願う。最後の無断キャンセルは明らかな意思表示であり、それを行う側のクライエントにもそれなりの勇気と覚悟がいる。
 このような場合、治療者の側はドロップアウトの「理由」を知りたがるが、通常それは明かされない。クライエント自身も明確な理由を特定できない場合が多いが、時には治療過程で生じたある出来事がきっかけとなり、ドロップアウトにいたることもある。治療者の側の過剰な頷きへの不信感。治療者の不用意なひとことやふと出たため息。あるいは治療者の見せた謎の涙。治療者が沈黙し、クライエントが自分だけ話をさせられている感じ、などなど。多くは治療者側にはそれがドロップアウトにいたったという自覚はない。同じ治療者の共感の涙がラポールの強化に貢献することもあることを考えると、このドロップアウトは不可避的な運命のようなものしかいえない場合も少なくない。結局は両者に出会いがなかったとしか言いようがないのだ。
ケースのドロップアウトは、これほど初心のセラピストにとって自己愛を傷つけることはない。私はスーパーバイジーや学生に対しても、ドロップアウトが生じそうになっていたら、それがわかった時点でとにかく一度はクライエントに来てもらい、率直にその経緯について話し合うことを勧めるし、また自分自身でもそうしているつもりである。しかしそれでもよほど治療者の側に心の余裕がない限り、この件をクライエントと冷静に話し合うことは難しい。それにクライエントの側はすでにもう治療を継続しないことを決めている場合が多いのだ。「もうこないと決めている以上、何を話すことがあるのか?」というクライエント側の事情もまた十分納得できるものだ。結局この「最後の話し合い」でクライエントが治療の中断を撤回する可能性は半分にもはるかに満たないのではないだろうか。

これを書いていると、私は初心の頃クライエントにドロップされた記憶のいくつかがよみがえる。20年以上前、米国の精神科のトレーニングで、精神療法の臨床実習があった。週一度のセッションに通ってくるケースをいくつか持たない限り、トレーニングが先に進まず、卒業さえ危ぶまれる。ところがつたない英語を話す自信なさげな外国人レジデント(私のことである)のところに来てくれるクライエントがなかなか見つからない。それでも「このケースこそは」と思えるクライエントと巡り合う。その人との何回目かの約束の時間が迫ってくる。時計とにらめっこをする。定刻になっても現れない。5分経過。まだ現れるかもしれない。10分。もう無理か。やっぱり自分はセラピストとして選んでもらえなかった・・・。こうして失望が心に広がっていく。第二回目からいきなりドロップアウトなら、まだ救われるというところがある。「もともと縁がなかったんだ…」しかし数セッションが経過し、そろそろラポールが出来始めていると感じ、自分のケースとしてカウントし始めるころになると、そこで突然クライエントが現れなくなった時には、自尊心がズタズタにされる思いがあった。

2017年9月9日土曜日

第7章 攻撃性を問い 直す ④


3.現実の攻撃が性的な快感を伴う場合

相手を蹂躙し、殺害することに快感が伴う場合、攻撃性の発揮は執拗で、反復的となる。2015年の文芸春秋5月号に、「酒鬼薔薇」事件(1997年)の犯人Aの家裁審判「決定」全文が載せられている(6)。これを読むと、一見ごく普通の少年時代を送った少年Aが猟奇殺人を起こす人間へと変貌していく過程を克明に見ることが出来る。思春期を迎えると、悪魔に魅入られたように残虐な行為に興奮し、性的な快感を味わうようになる。少年Aの場合は、性的エクスタシーは常に人を残虐に殺すという空想と結びついていたという。
米国ではジェフリー・ダーマーというとんでもない殺人鬼がいたが、彼の父親の手記も同様の感想を抱かせる(7)。ダーマーは1970~80年代主にオハイオ州やウィスコンシン州で合計17人の青少年を殺害し、その後に屍姦や死体の切断、さらには肉食行為を行った。母親は極めて精神的に不安定であったが、父親はそれなりの愛情を注いでいたようである。しかし父から昆虫採集用の科学薬品のセットをもらってからは、動物の死体をいじることに夢中になり、その対象も昆虫から小動物に移行する。彼のネクロフィリア(死体に性的興奮を覚える傾向)の追求にだれも歯止めをかけることはできなかったのだ。そして取り返しのつかない讃辞が起こってしまう。
私たち人間にとって性的ファンタジーほど始末におえないものはない。私たちの多くは一生これに縛られて生きていくようなものだ。私たちの性的な空想は、その大半は同世代の異性に向けられる。しかし私たちの一部にとっては、性的空想の対象は同性である。またその少数はそれを小児に向け、またごく一部はその対象をいたぶることでその興奮が倍加し、そしてごくごく一部が、殺害することでエクスタシーを得る。犯人Aやジェフリー・ダーマーの場合のように。いったいそのような運命を担ったらどうやって生きていけばいいのだろうか?
 おそらく全人類の一定の割合は、ネクロフィリアを有し、猟奇的な空想をもてあそぶ運命にあろう。彼らはみな犯人Aのような事件を起こすのだろうか? ここからは純粋に想像でしかないが、否であろうと思う。彼らはおそらくそれ以外の面で普通の市民であろうし、自らの性癖を深く恥じ、一生秘密として心にしまいこみ続けるのではないだろうか? そしてごく一部が不幸にしてそれを実行に移してしまうのであろう。

4.突然「キレる」場合
殺傷事件の犯人のプロフィールにしばしば現れる、この「キレやすい」という傾向。普段は穏やかな人がふとしたきっかけで突然攻撃的な行動を見せる。犯罪者の更生がいかに進み、行動上の改善がみられても、それを一度で帳消しにしてしまうような、この「キレる」という現象。秋葉原事件の犯人は、人にサービス精神を発揮するような側面がありながら、中学時代から突然友人を殴ったり、ガラスを素手で叩き割ったりするという側面があった。池田小事件の犯人などは、精神病を装ったうえでの精神病院での生活が嫌で、病棟の5階から飛び降り、腰やあごの骨折をしたという。これは自傷行為でありながらも「キレた」結果というニュアンスがある。一体キレるというこの現象は何か。DSM-5の診断基準では、「間欠性爆発性障害」というおどろおどろしい名前がついているこの障害は、実はおそらくあらゆる傷害事件の背景に潜んでいる可能性がある。

以上攻撃性への抑止が外れる4つの状況を示したが、現実にはこれらはおそらく複合しているのだ。殺人空想により性的快感を得る人間が、人の痛みを感じ取る能力にかけ、同時にキレ易い傾向を有し、また幼少時に虐めや情緒的な剥奪を受けることで世界に恨みを抱いた状態。それが凶悪事件を犯す人々のプロフィールをかなりよく描写しているのである。
ちなみにこれらの4つのうち、2番目と4番目に関しては、そこにサイコパスたちの持つ脳の器質的な問題が影響している可能性があると筆者は考える。殺人者の半数以上に脳の形態異常や異常脳波が見られるということが指摘されてきた。最近のロンドンキングスカレッジのブラックウッドらの研究によると、暴力的な犯罪者は脳の内側前頭皮質と側頭極の灰白質(つまり脳細胞の密集している部分)の容積が少ないという。これらの部位は、他人に対する共感に関連し、倫理的な行動について考えるときに活動する場所といわれる。(http://www.reuters.com/article/2012/05/07/us-brains-psychopaths-idUSBRE8460ZQ20120507“Study finds psychopaths have distinct brain structure.) 前出のファロンの著書も同様の結果を報告しているのだ。



2017年9月8日金曜日

第7章 攻撃性を問い直す ③

2.相手の痛みを感じることが出来ない場合
加害殺傷のファンタジーには、それを実際に行動に移すことへの恐怖と罪悪感が強力なストッパーになっていると述べた。すると恐怖や罪悪感がそもそも希薄だったり欠如していたりする人の場合にはどうだろうか、という問題になる。あたかもゲームで人を殺すようにして、実際の殺害行為に及ぶことになることになりはしないか? 活動性や動きにより「効果」をもたらしたいという願望、そのためのファンタジーにおける殺戮、それに罪悪感の希薄さや欠如が加われば、それが実際の他人に向けられても不思議はないとも考えられる。注目していただきたいのは、彼らが特別高い「攻撃性」を備えている必要すらないということだ。彼らの胸に生じる可能性のあるのは「どうしてテレビゲームで敵を倒すようにして人を殺してはいけないの?」という素朴な疑問だけであろう。
「人を殺してみたかった」という犯罪者の言葉を、私たちはこれまでに少なくとも二度聞いている。一人は2000年の豊川事件の加害者。もう一人は2014年 7月の佐世保での女子高生殺害事件においてである。後者の事件の加害少女は、小学校のときに給食に農薬を混入させ、中学のときには猫を虐待死させて解剖するという事件を起こしている。さらには昨年の事件の前には父親を金属バットで殴り重傷を負わせている。そこにはそれらの行為による「効果」に興味を持ち、楽しんでいるというニュアンスが伺えるのである。
ではどのような場合にこの「人の痛みを感じられない」という事態が生じるのだろうか?
他人の感情を感じ取りにくい病理として、私たちはまずはサイコパス、ないしはソシオパスと呼ばれる人々を思い浮かべるであろう。いわゆる犯罪者性格である。また自閉症やアスペルガー障害などの発達障害を考える人もいるかもしれない。確かに残虐な事件の背景に、犯人の発達障害的な問題が垣間見られることはしばしばある。
まずはコアなサイコパス群についてである。彼らの多くは一見通常の言語的なコミュニケーション能力や社会性を有し、そのために他人を欺きやすい。2001年の大阪池田小事件の犯人などは、典型的なサイコパスでありながらも何度も結婚までし遂げている。なぜ他人の痛みがわからない人がかりそめにも社会性を身につけるのかについては不明だが、おそらくある種の知性はかなりの程度まで社会性を偽装することに用いることが出来るのであろう。あるいは彼らの他人の痛みを感じる能力には、「オン、オフ」があるのかもしれない。
 最近わが国でも評判となっている著書で、ジェームス・ファロンは大脳の前頭前皮質の腹側部と背側部における機能の違いを説明する(5)。前者はいわば「熱い認知」に関係し、情動記憶や社会的、倫理的な認知に対応し、後者は「冷たい認知」すなわち理性的な認知を意味する。そしてサイコパスにおいては特に前者の機能不全が観察されているとする。それに比べてむしろ後者の「冷たい認知」に障害を有するのが自閉症であるとする。
そこでこの自閉症を含む発達障害に目を転じてみよう。実は過去20年の間に起きた殺人事件で加害者にアスペルガー障害が疑われたケースはかなりある。そのためにこの障害自体が攻撃性や加害性と関連付けて見られやすい傾向にある。しかし当事者のために一言述べておかなくてはならないことがある。それは自閉症やアスペルガー障害を持つ人々が人の心を読みにくいために加害的な行動をとりやすいということは決してないということだ。それどころか彼らの多くは高い知能を有し、人から信頼され、研究者や大学教員となって活躍している。
ここで他者の心を理解しにくいということは、道徳心や超自我が育たないという事を必ずしも意味しないという点についても強調しておきたい。むしろ彼らの持つ秩序へのこだわりは、加害行為に対する強い抑制ともなっている可能性がある。彼らの多くは、法律や規則や倫理則を犯すことを生理的に受け付けない。私の知るアスペルガー傾向を持つ人々の中には、車の運転をする際に法定速度を絶対に超えない人がいる。あるいは決められたアポイントメントの時間に一分たりとも遅れる事が出来ないという人もいる。その種の「決まり」を守らないことは、彼らにとっては「キモチわるく」、感覚的に耐えられないようだ。


しかし「決まり」を守る道徳性と「他人に痛みを及ぼすこと」を抑止する道徳性は次元が異なるのもはたしかであろう。前者による罪悪感や羞恥心や「キモチわるさ」は、いわば自分の側の不快や痛みである。他人の痛みを感じる力が希薄でも成立するのだ。しかし後者は自分がどうであれ、他人の痛みがそのまま問題となる。方向性としては全く逆なのである。ただしもちろん「人を害してはならない」は「決まり」でもある。他人の苦痛を感じにくい人でも、「決まり」を破るという意味で加害行為はそれなりに「キモチわる」くもあるだろう。しかし他人の痛みを感じることによる決定的な抑止を欠いている場合には、加害行為はゲーム感覚で、あたかも仮想上の敵に対する攻撃と同じレベルで生じてしまう可能性があるのだろう。つまり発達障害傾向にサイコパス性が重なっている場合には、事情は大きく異なる可能性があるのだ。

2017年9月7日木曜日

第7章 攻撃性を問い直す ②


私の積み上げた積み木に対するこの子供の行為は一種の暴力であろうか?彼は私を攻撃したかったのだろうか? そうではなかったと断定も出来ないであろう。しかし積み上げられた積み木がガラガラ音をたてて崩れることそれ自体が心地よい刺激になって、子供はそれを繰り返すことを私にせがみ、私たちは延々とそれを続けたのでもある。
 この子供が体験したのは何だろうか? 自分が積み木に少しだけ手を触れることで大きな音を立てて世界に変化が生じる。それがごく単純に楽しかったのであろう。これは彼にとっての自らの能動性の確立の役に立ったのであろうが、そこでは彼の神経系の発達、ニューロンの間の必要なシナプス形成と、それに遅れて生じ始めるシナプスの剪定 pruning とを促進したに違いない。もし本能がこの人間の脳の成熟にとって必要なプロセスに密接に結びついているとしたら、自分がある行為におよび世界にある種の「効果」が生じる、というその因果関係の習得はまさに優先されるべき課題であろう。ウィニコットがその活動性と動きの概念を提示した時、まさにそれを論じていたのである。

「動き」と攻撃性、そしてそれに対する抑止

ここから一番誤解を招きやすい点の説明に入らなくてはならない。子供の側の「動き」による「効果」のもっとも顕著なものは、たとえば器物の破壊であり、人の感情の怒りや悲しみなどの苦痛なのである。
 プレイセラピーの子供は私が6つまで積んだ積み木を崩してその「効果」を楽しんだ。ではもし8個だったら?あるいは塔のように高く積み上げ数十個の積み木なら? それを崩した時はより大きな音がし、それだけ「効果」もそれによる興奮も大きいだろう。そして同様に、あるいはそれ以上に子供がその「効果」に一番反応するのは、実は人の感情なのだ。自分が微笑みかけることで母親に笑顔が生まれる。自分が泣き叫ぶと、母親が心配顔で駆けつける。積み木を崩すことで治療者が多少なりとも演技的に発した悲鳴も、それに加えていいかもしれない。
人が世界に変化を与え、それにより能動性の感覚を味わうとしたら、他人の感情状態の変化は最もよい候補と言えるというのが私の主張だが、それはどのようにして習得されるのだろうか? それはあくまでも自分の感情体験を通してであろう。自分自身が突然味わう喜びや悲しみや恐怖や痛みの感覚がその「効果」の証拠になる。そして同一化や投影の機制を通じて同様のことが人の心に起こることをモニターするだけで、その「効果」を推し量り、その大きさを感じ取ることができる。
 私たちはみな、しばしばこのような「効果」を人の心に起こそうと試みる。贈りものをしたり、サプライズバーティを仕掛けることで人が喜んだり驚いたりする姿を見ることは単純に楽しいものだ。しかし何といっても最大の「効果」は、他人を攻撃し破壊することに伴うものである。人はもがき、苦しみ、のた打ち回るといった反応を見せるだろう。そしてそこには破壊の極致としての殺人が含まれる。これほど劇的な「効果」はないはずだ。
 もちろん現実の他者に苦痛という「効果」を及ぼすことには強烈な抑制がかかる。それは罪悪感には留まらない。他人を害することは実は私たちにとって最大の恐怖となる。これはおそらく道徳心とか倫理性とかにとどまらない、それよりもはるかに原初的な心性である。道徳心に無縁のはずの動物の社会、たとえばゴリラの社会でも、通常はそこに同種の個体に対する攻撃性への強い抑制が見られることを、霊長類の研究者も伝えている (4)。 一般に集団を構成する動物には、相手に対する配慮としか言いようのない心性が、本能の一部に組み込まれている。トラの子供たちが爪を立てることなくじゃれ合う時、母トラが子トラの首をそっとくわえて運ぶとき、相手の身体はおそらく事実上自分の身体の延長として体験されているのではないか?そして相手への加害行為には、自らを傷つけることと同等の強烈な抑制が加えられているに違いない。
その結果最大の「効果」を生む加害行為は、想像上の、バーチャルな世界で生き残ることになる。ストーリーやゲームの世界で、攻撃や殺戮がいかに私たちを興奮させ、私たちの精神生活の一部にさえなっているかを考えてみよう。たとえば私たちが親しむ推理小説はどうか?必ずと言っていいほど殺人がテーマになる。人が死なないとスリルが味わえず、面白みが半減するのだ。「〇〇殺人事件」というタイトルの代わりに、「〇〇打撲事件」「〇〇全治一か月事件」などと題された本を想像してみよ。人は店頭で手に取ることすらしないだろう。あるいは囲碁や将棋を考えよう。相手の大石を仕取めたり、王将を追い詰めることは、無上の快感を与えるにちかいない。あるいはビデオゲームを考えればよい。ファイティングゲームでは敵を倒したり、ダメージを与えたりする様なシーンが必ず登場する。これらの例は、私達がいかにイメージの世界では他人に苦しみを与えたり、破壊したり殺したりすることに喜びを見出しているかを示している。
 私は今でも時々、2008年6月に起きた秋葉原連続殺傷事件のことを思い出す。事件が報道された翌日の外来では、患者さんたちと事件のことがしばしば話題になった。そして驚いたのは、彼らの反応の多くが「自分は実行はしないが、犯人の気持ちがわかる」というものだったのだ。ちなみに私の外来の患者さんたちは特別暴力的な傾向を持つことのない、主として抑うつや不安に悩まされている人々であった。それだけに私には彼らの反応が意外だったのである。私はこの時は非常に驚いたが、今から考えれば少しは合点かいく。ファンタジーや遊びの世界で他者や物にダメージを与えることは、むしろ全く普通のことであり、むしろそれを現実の世界で抑えているのは理性であり、それが実害をともなわないという認定なのである。

攻撃性への抑止が外れるとき

加害行動は現実の他者に向かうことに対する強烈な抑止が働いていると述べた。ファンタジーでの加害行動が頻繁なだけ、この抑止のメカニズムは強固である。そして私たちがニュースなどで目にして戦慄するおぞましい事件は、その抑止が外れた結果なのだ。
では攻撃性の抑止はどのような時にはずれるのだろうか? 私はその状況を以下に4つ示してみる。それらは 1.怨恨、復讐による場合、2.相手の痛みを感じることが出来ない場合、3.現実の攻撃が性的な快感を伴う場合、4.突然「キレる」場合である。

1.怨恨、復讐による場合
特定の人に深い恨みを抱いていたり、復讐の念に燃えていたりした場合、私たちはその人をいとも簡単に殺傷しおおせる可能性がある。家族を惨殺された遺族は、たとえ善良な市民でも、犯人への無期懲役や死刑求刑の判決を喜ぶだろう。復讐はかつては道徳的な行為ですらあった。自分の愛する人を殺めた人に、刃物を向けることは、精神的に健康な人であっても、おそらくたやすいことになってしまうのである。しかし考えれば、これは恐ろしいことではないか?
私が特に注意を喚起したいのは、怨恨や被害者意識は純粋に主観的なものでありうるという事実だ。自分が他人から被害を受けたという体験を持つ場合、周囲の人にはいかに筋違いで身勝手な考えに思えても、その人の暴力への抑止は外れてしまうのである。この怨恨が統合失調症などによる被害妄想に基づいている際には、それは顕著かもしれない。しかしそれ以外にも偶発的、ないしは理不尽な怨恨は数多く生じる可能性がある。幼少時に子供が虐待を受け続けたと感じても、当の親は子供の主観的な体験にまったく気づかないことも多い。しかしその結果として自分はこの世から求められていない存在であると感じ、自分は被害者であるという感覚が高まり、世界に対して恨みや憎しみを抱くようになってしまうのだ。神社仏閣に油を撒くというような愉快犯的な犯罪から始まり、無差別的な殺戮やテロ事件に至る場合さえある。すでに述べた秋葉原の事件などは、まさにそのようなことが起きていたと私は理解している。人はこれらの事件を耳にした時、いったい何が起きたのか、と不思議に感じるかもしれない。原因不明の暴力の突出であり、人間の持つ攻撃性が露出したものと理解するかもしれない。しかし当事者にとっては世界への復讐として十分に正当化されるものかもしれないのだ。


2017年9月6日水曜日

精神療法と倫理 ④

「倫理的転回」の動き
精神分析における技法の問題に、従来とは異なる視点が与えられることになったことは、精神分析における新しい動きにも反映されている。富樫は関係精神分析の流れにおけるいわゆる「倫理的転回」という概念を紹介する。倫理的転回 ethical turn とは、いわゆる「関係論的転回 relational turn」という概念と対になる形で提唱されている。関係論的転回においては、従来の精神分析的な理論が前提としていたような心の明確な構造体や組織がもはや存在せず、心を扱ううえでの共通した理論やそれに基づく治療技法が存在しないという理解に基づく、新しい心の理解であった。しかしそれに基づき治療者が具体的にどのように行動すべきかという指針は与えられていなかった。そして倫理的転回は、「精神分析の行動規範や価値観の展開」として言い表すことが出来るという。
勿論この倫理的転回が直ちに治療者にいかに振る舞うかという指針を提供するわけではない。しかしこれは確かにある種の視点の「転換」を意味するのであり、それは先に見た規範的な倫理から道徳的な倫理への視点の転換とほぼ重ね合わすことが出来るであろう。
このことは幾つかの倫理綱領が異口同音に示している項目、すなわち理論に左右され過ぎてはならないという項目とも一致するのである。
富樫公一 (2016) 精神分析の倫理的転回 -間主観性理論の発展 臨床場面での自己開示と倫理 関係精神分析の展開 岩崎学術出版社



2017年9月5日火曜日

第7章 攻撃性を問い直す ①

暴力や攻撃性は本能なのか?
暴力は一向に私たちの社会から消えてなくならない。地球上のあちらこちらで殺戮が繰り返されている。東西の冷戦が終焉したかと思えば、局地的な紛争はむしろ多くなっている。テロ行為も頻繁だ。米国では発砲事件が、銃のない日本でも殺傷事件が頻繁にメディアをにぎわしている。
 しかし人が人を殺める、暴行するというニュースが絶え間ない一方では、その頻度や程度はおそらく確実に減少している。古代人の遺骨を見る限り、男性の多くが他殺により世を去っていたことがうかがえるという(1)。国家の統治機構が成立し、民主的な政治体制が整う前には、人が人を害するという行為はその多くが見過ごされ、黙認されてきた。(非民主的な政治体制では国家による人民の殺害こそより深刻だろう。現代社会においてすら、その例の枚挙にいとまはない。)加害行為の頻度の減少は、文明が進み人間の精神が洗練されたというよりは、むしろ個々の犯罪が公正に取り締まられ、DNA鑑定や防犯カメラなどの配備により犯人が特定される可能性が高まったのが一番の原因ではないか?
私が以上のように述べれば、「人間にとって暴力や攻撃性は根源的なものであり、本能の一部である」と主張していると思われかねない。しかし私自身は、暴力や攻撃性は人間の本能と考える必然性はないという立場をとる。暴力行為が一部の人間に心地よさや高揚感をもたらし、そのために繰り返されるという事実は認めざるを得ない。ところがそれは暴力が生まれつき人間に備わったものであることを必ずしも意味しない。一部の人の脳の報酬系は、暴力行為により興奮するという性質を有するために、それらの行動を断ち切ることが難しいという不幸な事実が示されているにすぎないのだ。
暴力には様々な形態があるが、このうち一部の暴力は、その根拠が明確であり、納得もしやすい。例えば他者からの攻撃を受けた際に発揮される身体的な暴力などだ。これは防衛本能の一部として理解されるべきであろうし、そこには正当性も見出せる。しかし暴力は時には正当な防衛を超えて過剰に発揮されたり、触発されることなく暴発して、罪のない人々を犠牲にしたりする。私たちが心を痛めるのは、この過剰な、あるいは見境のない暴力行為なのである。「なぜこのような残虐な行為をするのだろうか?」「原因は何なのか?」「再発を防ぐ方法はあるのだろうか?」と私たちは途方に暮れる。そして同時に心の中で次のような疑問を抱くかもしれない。「もしかして私の中にもこのような怒りや暴力が潜んでいて、いつかは爆発するのだろうか・・・・・」。この恐れもまた決して侮れないのだ。
本章は精神分析においてしばしば問題となる暴力や攻撃性の問題に一つの理解の方向性を示すことを目的にしている。私は精神科医であるから、その視点や方向性も「精神医学的」となる。暴力への理解はいまだに錯綜し、未整理のままに多くの理論が提唱されているとの印象を受ける。それは暴力をいかに封じ込めるか、あるいはそのようなことが可能なのか、という議論についてもいえる。そこで私の立場を最初に示すならば、それは暴力を一次的な本能として捉えず、もう少し広い視野から考えるというものである。この点について、以下にまず示したい。
すべての源泉としての「活動性と動き」
 暴力や攻撃性が本能か否かは、心の深層に分け入ることを専門とする精神分析の世界でさえ見解が大きく分かれている。フロイトが破壊性や攻撃性をその本能論の中で説明したことは知られるが、必ずしもそれを支持しない分析家も多い。攻撃性や暴力を本能と見なす根拠はないというのが私の立場であることはすでに述べたが、実は心の世界では「存在しない」ということの証明は難しい。むしろ攻撃本能がたとえあったとしても、幼児期に見られる攻撃性や暴力は、それ以外で説明されてしまうことがほとんどである、ということを私は示したいが、それは精神分析ではD.W. ウィニコットの立場に近い。ウィニコットは攻撃性を本能としてはとらえず、その由来は、子宮の中で始まる活動性activityと動きmotility であるという(2)。
 乳児が体を動かし、声を上げることで、それが周囲を変える。例えば手にあたった物が倒れ、また声を聞きつけた母親がとんでくる。ウィニコットはそれが真の自己の始まりであるという。これはあくまでも外界からの侵襲による子供の側の反応としての活動ではないことに注目するべきである。自分が動き、世界にある種の「効果」を与えることが、自分が自分であるという感覚、すなわち真の自己の感覚を生むのである。この「効果」に伴う充実感は、例えばホワイト(3)の言うエフェスタンス(動機づけ)の議論につながる。彼は生体は自己の活動により環境に「効果」を生み出すことで、そこに効能感や能動感を味わうと考えたのである。
 以前プレイセラピーをしていた時のである。2歳の少年が積み木で遊んでいるところにちょっかいを出してみた。彼がまだうまく積み木を積めない様子を横目で見ながら、私は悠々と5つ、6つと積み上げてみる。それに気が付いた子供は憤慨したようにそれを崩した。私は頭を抱えて大げさに嘆いて、再び積み出す。子供が再びそれを崩し、私は悲鳴を上げる。そのうちそれが一種の遊びのようになって二人の間で繰り返された。


2017年9月4日月曜日

第6章 無意識を問い直す ②

無意識=右脳という考え方
ショアのもう一つの重要な主張は、無意識の生物学的な基盤を右脳とみなすことが出来るというものだ。ここで少し脳の構造について振り返ってみる。脳科学の進歩により左脳と右脳の情報処理の機能がかなり分化していることが知られている。言語野は90%以上の人において左半球にあり、左半球が損傷されると言語やほか多くの精神機能の異常をきたす。そのためにかつては精神の主たる機能が左半球にあると考えられ、左半球を優位半球、右半球を劣位半球と呼ぶことが多かった。しかし最近の研究で、右半球にもさまざまな重要な機能が備わっていることがわかってきている。
 現在の脳科学の理解では、左脳は言語、論理的、分析的、系列的な能力、右脳は空間的、形態的、表象的、同時並行的な能力を担当するとされる。わかりやすく表現するならば、右脳の能力は物事の全体をつかみ、その中で事柄のおかれた文脈を知るということである。右脳が傷害されると、言葉の字義的な意味はわかるものの、その比喩的な意味や行間の意味などについての理解が不可能になる。そのために右脳はよりグローバルな理解を行うという人間としてきわめて重要な精神の機能を営むことがわかってきている。
 左右脳を結ぶのは脳梁という3億本の神経回路の束からなる構造である。それが左右の脳の交通路となっているが、それらはお互いを抑制したり、活性化したりということが起きていると考えられている( Bloom, JS and Hynd, 2005)。たとえば左脳が活性化されているときには右脳を抑制することが知られる。それが精神分析でいう抑圧に相当するであろう。また感情的に高ぶると言語野が抑制されるという現象もよく知られている。これは私たちの日常体験とも一致する。      
 さて以上は従来の脳科学的な理解であるが、発達理論や乳幼児観察の発展に関しても右脳についての更なる理解がなされている。発達論者が最近ますます注目しているのが、発達初期の乳幼児と母親の関係、特にその情緒的な交流の重要さである。早期の母子関係においては、極めて活発な情緒的な交流が行なわれ、母子間の情動的な同調が起きる。そしてそこで体験された音や匂いや感情などの記憶が、右脳に極端に偏る形で貯蔵されているという事実である。愛着が生じる生後の2年間は、脳の量が特に大きくなる時期であるが、右の脳の容積は左より優位に大きいという事実もその証左となっている (Matsuzawa, et al. 2001)。このように言語を獲得する以前に発達する右脳は、幼児の思考や情動の基本的なあり方を提供することになり、いわば人の心の基底をなすものという意味で、ショアは人間の右脳が精神分析的な無意識を事実上つかさどっているのだと発想を得たのである。