2017年9月7日木曜日

第7章 攻撃性を問い直す ②


私の積み上げた積み木に対するこの子供の行為は一種の暴力であろうか?彼は私を攻撃したかったのだろうか? そうではなかったと断定も出来ないであろう。しかし積み上げられた積み木がガラガラ音をたてて崩れることそれ自体が心地よい刺激になって、子供はそれを繰り返すことを私にせがみ、私たちは延々とそれを続けたのでもある。
 この子供が体験したのは何だろうか? 自分が積み木に少しだけ手を触れることで大きな音を立てて世界に変化が生じる。それがごく単純に楽しかったのであろう。これは彼にとっての自らの能動性の確立の役に立ったのであろうが、そこでは彼の神経系の発達、ニューロンの間の必要なシナプス形成と、それに遅れて生じ始めるシナプスの剪定 pruning とを促進したに違いない。もし本能がこの人間の脳の成熟にとって必要なプロセスに密接に結びついているとしたら、自分がある行為におよび世界にある種の「効果」が生じる、というその因果関係の習得はまさに優先されるべき課題であろう。ウィニコットがその活動性と動きの概念を提示した時、まさにそれを論じていたのである。

「動き」と攻撃性、そしてそれに対する抑止

ここから一番誤解を招きやすい点の説明に入らなくてはならない。子供の側の「動き」による「効果」のもっとも顕著なものは、たとえば器物の破壊であり、人の感情の怒りや悲しみなどの苦痛なのである。
 プレイセラピーの子供は私が6つまで積んだ積み木を崩してその「効果」を楽しんだ。ではもし8個だったら?あるいは塔のように高く積み上げ数十個の積み木なら? それを崩した時はより大きな音がし、それだけ「効果」もそれによる興奮も大きいだろう。そして同様に、あるいはそれ以上に子供がその「効果」に一番反応するのは、実は人の感情なのだ。自分が微笑みかけることで母親に笑顔が生まれる。自分が泣き叫ぶと、母親が心配顔で駆けつける。積み木を崩すことで治療者が多少なりとも演技的に発した悲鳴も、それに加えていいかもしれない。
人が世界に変化を与え、それにより能動性の感覚を味わうとしたら、他人の感情状態の変化は最もよい候補と言えるというのが私の主張だが、それはどのようにして習得されるのだろうか? それはあくまでも自分の感情体験を通してであろう。自分自身が突然味わう喜びや悲しみや恐怖や痛みの感覚がその「効果」の証拠になる。そして同一化や投影の機制を通じて同様のことが人の心に起こることをモニターするだけで、その「効果」を推し量り、その大きさを感じ取ることができる。
 私たちはみな、しばしばこのような「効果」を人の心に起こそうと試みる。贈りものをしたり、サプライズバーティを仕掛けることで人が喜んだり驚いたりする姿を見ることは単純に楽しいものだ。しかし何といっても最大の「効果」は、他人を攻撃し破壊することに伴うものである。人はもがき、苦しみ、のた打ち回るといった反応を見せるだろう。そしてそこには破壊の極致としての殺人が含まれる。これほど劇的な「効果」はないはずだ。
 もちろん現実の他者に苦痛という「効果」を及ぼすことには強烈な抑制がかかる。それは罪悪感には留まらない。他人を害することは実は私たちにとって最大の恐怖となる。これはおそらく道徳心とか倫理性とかにとどまらない、それよりもはるかに原初的な心性である。道徳心に無縁のはずの動物の社会、たとえばゴリラの社会でも、通常はそこに同種の個体に対する攻撃性への強い抑制が見られることを、霊長類の研究者も伝えている ()。 一般に集団を構成する動物には、相手に対する配慮としか言いようのない心性が、本能の一部に組み込まれている。トラの子供たちが爪を立てることなくじゃれ合う時、母トラが子トラの首をそっとくわえて運ぶとき、相手の身体はおそらく事実上自分の身体の延長として体験されているのではないか?そして相手への加害行為には、自らを傷つけることと同等の強烈な抑制が加えられているに違いない。
その結果最大の「効果」を生む加害行為は、想像上の、バーチャルな世界で生き残ることになる。ストーリーやゲームの世界で、攻撃や殺戮がいかに私たちを興奮させ、私たちの精神生活の一部にさえなっているかを考えてみよう。たとえば私たちが親しむ推理小説はどうか?必ずと言っていいほど殺人がテーマになる。人が死なないとスリルが味わえず、面白みが半減するのだ。「〇〇殺人事件」というタイトルの代わりに、「〇〇打撲事件」「〇〇全治一か月事件」などと題された本を想像してみよ。人は店頭で手に取ることすらしないだろう。あるいは囲碁や将棋を考えよう。相手の大石を仕取めたり、王将を追い詰めることは、無上の快感を与えるにちかいない。あるいはビデオゲームを考えればよい。ファイティングゲームでは敵を倒したり、ダメージを与えたりする様なシーンが必ず登場する。これらの例は、私達がいかにイメージの世界では他人に苦しみを与えたり、破壊したり殺したりすることに喜びを見出しているかを示している。
 私は今でも時々、2008年6月に起きた秋葉原連続殺傷事件のことを思い出す。事件が報道された翌日の外来では、患者さんたちと事件のことがしばしば話題になった。そして驚いたのは、彼らの反応の多くが「自分は実行はしないが、犯人の気持ちがわかる」というものだったのだ。ちなみに私の外来の患者さんたちは特別暴力的な傾向を持つことのない、主として抑うつや不安に悩まされている人々であった。それだけに私には彼らの反応が意外だったのである。私はこの時は非常に驚いたが、今から考えれば少しは合点かいく。ファンタジーや遊びの世界で他者や物にダメージを与えることは、むしろ全く普通のことであり、むしろそれを現実の世界で抑えているのは理性であり、それが実害をともなわないという認定なのである。

攻撃性への抑止が外れるとき

加害行動は現実の他者に向かうことに対する強烈な抑止が働いていると述べた。ファンタジーでの加害行動が頻繁なだけ、この抑止のメカニズムは強固である。そして私たちがニュースなどで目にして戦慄するおぞましい事件は、その抑止が外れた結果なのだ。
では攻撃性の抑止はどのような時にはずれるのだろうか? 私はその状況を以下に4つ示してみる。それらは 1.怨恨、復讐による場合、2.相手の痛みを感じることが出来ない場合、3.現実の攻撃が性的な快感を伴う場合、4.突然「キレる」場合である。

1.怨恨、復讐による場合
特定の人に深い恨みを抱いていたり、復讐の念に燃えていたりした場合、私たちはその人をいとも簡単に殺傷しおおせる可能性がある。家族を惨殺された遺族は、たとえ善良な市民でも、犯人への無期懲役や死刑求刑の判決を喜ぶだろう。復讐はかつては道徳的な行為ですらあった。自分の愛する人を殺めた人に、刃物を向けることは、精神的に健康な人であっても、おそらくたやすいことになってしまうのである。しかし考えれば、これは恐ろしいことではないか?
私が特に注意を喚起したいのは、怨恨や被害者意識は純粋に主観的なものでありうるという事実だ。自分が他人から被害を受けたという体験を持つ場合、周囲の人にはいかに筋違いで身勝手な考えに思えても、その人の暴力への抑止は外れてしまうのである。この怨恨が統合失調症などによる被害妄想に基づいている際には、それは顕著かもしれない。しかしそれ以外にも偶発的、ないしは理不尽な怨恨は数多く生じる可能性がある。幼少時に子供が虐待を受け続けたと感じても、当の親は子供の主観的な体験にまったく気づかないことも多い。しかしその結果として自分はこの世から求められていない存在であると感じ、自分は被害者であるという感覚が高まり、世界に対して恨みや憎しみを抱くようになってしまうのだ。神社仏閣に油を撒くというような愉快犯的な犯罪から始まり、無差別的な殺戮やテロ事件に至る場合さえある。すでに述べた秋葉原の事件などは、まさにそのようなことが起きていたと私は理解している。人はこれらの事件を耳にした時、いったい何が起きたのか、と不思議に感じるかもしれない。原因不明の暴力の突出であり、人間の持つ攻撃性が露出したものと理解するかもしれない。しかし当事者にとっては世界への復讐として十分に正当化されるものかもしれないのだ。