2025年7月21日月曜日

FNDの世界 4

 そもそもNPという概念について

本当にこれは私の不覚なのだが、私は解離性、転換性障害などについていろいろ解説等を書いている身であるものの、この概念の意味を十分に認識していなかった。まさしく私の不勉強である。それを認めたうえで考えてみる。 痛みとは私たちが人類始まって以来戦ってきたことである。身体的な病による痛み、頭痛、そしてその原因が不明な痛み。私たちはその痛みが何に由来するかということについて二次的にしか関心を払ってこなかった。一次的な関心はもちろん、それをいかに軽減し、取り除くことかである。そして近代の医学が少しずつ発展を遂げ、なぜこの時代になって、「痛みには第3のタイプがあった!」という発見が行われたのか。そしてその新しいタイプの痛み、痛覚変調性疼痛 nociplastic pain 略してNPとはいったい何なのか。これはすごく興味深いテーマだ。特にいわゆるプラセボ効果や解離性(転換性)障害との関連について。

そもそもこれまでは痛みには二種類しかなかった。

① 侵害受容性疼痛

組織の損傷

骨折、切り傷、火傷など

② 神経障害性疼痛

神経の損傷

帯状疱疹後神経痛、糖尿病性神経障害

つまりは身体の組織が破壊されて、剥き出しになった神経が痛みの信号を送るパターン(①)か、痛みを伝達する神経そのものが損傷を起こしているか(②)。

そして画像にもうつらない、炎症所見もない、となると「機能性」「心因性」として扱われてきた。そして一番の出来事は、fMRIやPETに異常が見られるようになったことである。つまりfMRIやPETはある意味で「人間の心」を映し出すようになったのである。そしてたとえば島皮質や前帯状皮質などの部位の過敏性により痛みが生まれている、ということで痛覚過敏性疼痛NPという概念が生まれた。

このNPの果たした役割としてチャット君がまとめる3点は全くその通りだ。

  • 組織の異常も、神経の損傷もないが、“痛み”として脳が反応している」

  • 「患者の痛みは“本物”である」と医学的にも認めるラベル

  • 心因性とだけ片づけず、脳の生理学的変化として捉える視点の提供

このことは、患者を否定しない医療の在り方としても、非常に大きな意義を持っている。

NPの概念はまさしく、患者さんの痛みを正当なものとして認めることの助けとなるのである!!!そして現在NPの代表として挙げられているのは以下の通りの疾患だ。


1

線維筋痛症

非常に高い

2

CRPS‑1

高い

3

IBS(いわゆる過敏性腸症候群)

高い

4

慢性頭痛

中〜高

5

慢性骨盤痛

中〜高

6

慢性腰痛

中程度

7

特発性口顔面痛

中程度

その 他

慢性筋骨格痛・がん後痛等

やや低〜中


やっぱりね!頭痛のかなりの部分はNPだということはすごく納得が出来る。だからリリカが効くのである。


2025年7月20日日曜日

FNDの世界 3

 ところで今一つ関心を持っているのが、いわゆる痛覚変調性疼痛 nociplastic pain (略してNP)という概念について。もう少し言うと、いわゆるFND(機能性神経学的症状症 functional neurological disorder)の一つとしての痛みとどう違うのか。グーグルで調べると次のようなAIの答えが返ってくる。Nociplastic pain is not the same as Functional Neurological Disorder (FND), though they can overlap and share some characteristics.

つまり「両者はオーバーラップするかもしれないけれど別物だよ、一緒にしないで」とそっけない。そしていう。 Nociplastic pain is a type of pain arising from altered nociception (the process of how the body senses potentially harmful stimuli) without evidence of tissue damage or disease. FND, on the other hand, is a neurological condition where symptoms affect how the brain and body communicate, leading to a range of functional symptoms, including pain, that don't align with typical neurological diagnoses.

つまりNPは体がどのように痛みを感じさせるかというボトムアップ的な問題、それに比べてFNDは脳がどのようにその感覚をとらえるか、というトップダウンの問題だという。チャット君は次のような表を作ってくれた。

私はこの問題はこの論考で一つの大きな意味を持つと思う。なぜならNPはとても神経学的(ボトムアップ)な概念であるのに対して、FNDは精神医学的(=トップダウン)だからだ。

2025年7月19日土曜日

FNDの世界 2

 過労がたまって熱っぽくて体がだるく、風邪の引きはじめではないかと思う時がある。そして大抵はその後数日風邪で体が動かないということになると、休講にしなくてはいけなかったり、外来を休診することになったりして非常にまずい。「熱が出るわけにはいかない」のである。そのような時私はあえて体温を測ることなく、というよりそれを避けて消炎鎮痛剤、例えばイブプロフェン200㎎一錠を飲んだりする。これは考えれば、おかしな行動だ。まあ稀に、2,3か月に一度程度のことだが。

 この行動は医学的には気休めでほとんど意味のない行為であることは分かっている。本当に風邪の引きはじめだったら、イブプロフェン1錠で回復するということはないだろう。でも何となく安心するのである。「イブプロフェンを飲んだからダイジョーブだ」と自らに言い聞かせる。しかし医者の身で、何がダイジョーブなのか全然分からない。これなどはむしろおまじないに近い。神社でお賽銭を投げて手を合わせるようなものだ。イブプロフェンを飲むと体(心?)が回復するという信心 belief のせいである。

と書きながら、実は医学の世界ではいろいろなことが起き、私がプラセボ効果と決めつけている私の気休めの行動も、その一部は実は医学的根拠があることがわかったりする。例えば非ステロイド系抗炎症剤は炎症を引き起こす物質であるプロスタグランジンの生成を抑制することで、炎症を鎮め、痛みを軽減するとされている。私たちが体がだるくて熱っぽいという時、実際にウイルスや細菌に感染していなくともプロスタグランディンやそのほかの炎症性サイトカインが出ていて、実際に怠さを引き起こしているのかもしれない。プラセボ効果は実はそうではなかったとなったりする可能性だってある。(本当のところは私は専門ではないので分からないが。)しかし私はやはりイブプロフェンが私にとってのプラセボであることを知っている。なぜなら飲んだら2,3分したら体が軽くなった気がするのだ。これなど絶対にありえないことである。薬効成分が血液循環に乘って体中に回るまでに30~40分は必要だからだ。


2025年7月18日金曜日

FNDの世界 1

 私の医学部時代のクラスメートのS先生が「心因性疾患」に非常に大きな興味を持たれ、ある著書を計画されているという。私はその中の一章「精神医学的にみた『心因性疾患』」をみたいなことを書くことになった。一見めんどくさそうな執筆に聞こえそうだが、実は私はこれが楽しみなのである。なぜならまさに精神医学のど真ん中のテーマだと私には思えるからだ。それは「心因性」や概念の持つ意味に切り込むテーマだからだ。「心因」の問題は古臭いようでいて実に奥深い。たかが「心因」、されど「心因」。

(ちなみに表題のFNDとは functional neurological disorder 機能性神経症状症のことである。)

私たちはかなり頻繁に身体症状に見舞われる。頭痛、吐き気、眩暈、腹痛、倦怠感‥‥。ピッチャーだったら「肩の張り」などというかもしれない。そしてそのかなりの部分は原因がはっきりしない。そんな時に私たちはよく「気のせい」とか「なんとなく」とか表現する。「ストレスのせいで」などという表現を用いることがある。

一つ頭に浮かぶ例を挙げよう。最近精神科では先発薬からジェネリックへの移行ということが盛んにおこなわれ、要するにブランド薬、例えばパキシル(製品名)の代わりにジェネリックのパロキセチン(パキシルの薬品名)に処方薬を変更するということが起きている。要するに政府の政策でより安い医薬品を提供するようにという圧がかかった結果である。するとブランドからジェネリックに代わっても「(効き目も、副作用も)何も違いはなかった」とおっしゃる大部分の患者さんと、「全然効かなくなった!」という一部の患者さんに分かれる事になる。ここで後者がどこまでプラセボ効果なのかが問題となるが、不思議と「ジェネリックの方がよく聞きました」(例えば眠剤のような場合)という反応はほとんどなく、「ジェネリックだと効きがよくありません」が大部分だという声を聴くことが多い。これは先発薬(高価なブランド品)→ ジェネリック(代替物としての後発品)という心理的な影響がずいぶん大きい気がする。

このような反応は特に精神科の患者さんだから起きるということは決してない。身体科の患者さんでも同様であるし、オーバーザカウンタ―薬を用いる私たちすべてが同じような体験をすることがある。私自身が体験する妙なプラセボ効果(というよりどう呼んだらいいかもう分からない)を話してみよう。


2025年7月17日木曜日

男性の性加害性 7

 ところで「一見普通の男性が起こす性加害」について考えると、男性の性愛性には二つの問題が混在していることに改めて気づく。一つは「途中で止まれない問題」があり、それを昨日はポジティフィードバック(PF)で説明しているが、もう一つは刺激 Cue に対する過剰反応である。人間は常に発情状態にあり、それが刺激になってしまうということだ。

(中略)


この問題はたとえば人間の食欲になぞらえてみると、性欲だけがいかに突出しているかがわかるだろう。通常の生活をし、しっかり三食を摂りながら生活をしている人が、昼前時などに空腹を感じても、たまたま持ち合わせがないからというだけでコンビニで菓子パンを万引きをするということが起きるだろうか。ところが男性の性愛性はそのようなことをより起こしやすい傾向がある。性的な刺激による Cue だけ、おそらく依存薬物に対するそれのレベルで、人を突き動かす作用を有する。これはいったいなぜだろう。この問題が数多くの性加害の原因になってしまっているのだ。そこで登場するのが「インセンティブ感作理論」である。 

2025年7月16日水曜日

男性の性加害性 6

 さて、ポジティブフィードバックはどんどん行動が強化されるのが特徴なのだが、それが生じるのがいわゆる依存症の状態である。そこでは側坐核という部分のグルタミン酸の信号が感作される(どんどん敏感になる)ことが知られている。

ここで少し事情を知っている人なら「うん?なんか変だぞ」という反応になるはずだ。「それってドーパミンの間違いじゃないの?」そう、依存症と言ったらドーパミンの問題と考えるのが相場だが、最近はドーパミンとグルタミン酸の両方が相まって嗜癖を形成するという。そしてドーパミンは「欲しい!」という気持ちを生むが、グルタミン酸はそのための行動に導く役割があるという。チャット君はそれを以下のように説明してくれる。

  • ドーパミン:その刺激が「快楽」や「報酬」として感じられる瞬間の「やる気スイッチ」。

  • グルタミン酸:「その行動をどうやってやるか」を記憶し、脳内にルートを敷く。
    たとえば性衝動を例にとると、

  • ドーパミンが「見て!AVの画像!これは楽しいぞ!」と言い、

  • グルタミン酸が「いつもの流れでスマホを開いて、トイレにこもって、あのサイトに行こう」と導く、ということになる。そして結果的に「自動反応のような衝動的行動」が形成されるというのだ。

さてここから男性の性愛性に関する一つの議論が関係してくる。つまり男性の性愛性は一種の依存症だろうか。Prause らは、男性の性愛性は、addiction 嗜癖ではないと主張するという。そしてその 嗜癖なら起きるはずのグルタミン酸ニューロンの過敏さが起きないからだという。以下はチャット君のまとめ。

■ Prauseらの主張:CSBDは「嗜癖とは異なる」

◉ 核心的な神経科学的主張(簡単に)

もしCSBDが「依存症」であるならば、報酬系(特に側坐核:nucleus accumbens)において、グルタミン酸作動性のニューロンが過敏化しているはず
→ しかし、実験データではそうした反応は見られなかった(むしろ“habituation”=慣れが起きていた)


ちなみに依存症における側坐核の役割としては、

側坐核は報酬の予測・モチベーションの形成に関わる中枢。依存症では、glutamate(興奮性神経伝達物質)がこの部位で過敏化し、cue(刺激)への強烈な欲求(craving)を生む。この神経変化は、薬物、ギャンブル、アルコール依存などで明確に確認されている。しかしPrauseらは、性刺激に対してこの“過敏化”が起きていないと報告している。


2025年7月15日火曜日

男性の性加害性 5

 私がここに提示するのが、二つのモデルである。これらはある意味では重複しているため、まとめて「自己強化ループモデル」と呼ぶが、一応別個のものとして論じることから始める。ちなみにことわるまでもないが、これらは性依存や強迫的性行動とはいちおう別の議論である。すなわち性依存でもなく、強迫的性行動でなくても、問題となるモデルであるが、それらとも深く関係している可能性があることが、後で分かるだろう。(というか、これを書きだした時点ではよく分からない。これから書きながら探求するのだ。) この自己強化ループモデルの特徴を一言でいえば、性行動はいったん始動すると、途中で止めることが難しい、という現象を説明するモデルであるということだ。

さて以前「男性の性加害性2」で示したスライドでも示したように、この「自己強化ループ」を説明する理論は二つある。

① ポジティブフィードバック理論

② インセンティブ感作理論 incentive sensitization   theory (IST)

このうちまず①のポジティブフィードバックについて。

一番なじみ深いのはいわゆるネガティブフィードバックだ。これはとてもよくあるシステムで、安定化方向への制御のためのあらゆる装置である。例えば体温や血圧や血糖値などはみなこのシステムだが、要するにサーモスタットのようなものを考えるといい。温度が上がるとバイメタルが曲がってスイッチが切れる。そして温度が低くなるとバイメタルが元通りに戻ってスイッチが入る、というように。このネガティブフィードバック(以下、NF)がいかに必要かは次のような例を考えればいい。お腹がすいたから食事を摂る。すると空腹感は次第に癒され、最初は旺盛だった食欲は低下し、次第に食事を見るのも嫌になり、摂食行動は終わる。その細かいメカニズムはおそらくかなり複雑だが、だいたい私たちの食行動はこのようにしてバランスが取れている。  ここで思考実験だ。ある人は空腹なのでお菓子を口にすると、さらにお腹がすいた気分になり、もう少し食べる。するともっと食べたくなり、最後にはお腹がはちきれんばかりになってもさらに食欲が加速し、最後には胃が破裂してしまう。これは実に怖ろしい現象であり、たちまち生命維持に深刻な問題を起こす。あるいは血圧が少し上昇すると、それをさらに押し上げるようなホルモンが産出され、最後には脳出血や心不全を起こしてしまう。

 この悪魔のようなプロセスは、実はポジティブフィードバックを描いたものである。普通は生体には起きないことだが、私たちは過食症や飲酒癖などがそのようなループにより歯止めが効かなくなりそうな状態が存在することを知っている。  ここで気が付くのは、ポジティブフィードバック(以下、PF)はそれが生じたとしたら、生体は行くところまで行ってしまい、元のバランスには容易には戻れないであろうということだ。ある種の破局的、ないしは一方向性の現象が起き、行くところまで行って戻ってこれない。これは例えば排卵のプロセスに当てはまる。

2025年7月14日月曜日

男性の性加害性 4

 「一見普通の男性が起こす性加害」または「非犯罪性格の男性の犯す性加害」が改めてテーマになるわけだが、おそらくこれがなかなか理論的に整理されないのは、それがある意味では非病理学的な、よくある、「普通の」現象としてとらえられているからであろう。あるいは一見普通に見せかけているが、実は犯罪者性格の人が起こす事件であると考えられている可能性もあろう。 ところが私は「一見普通の男性が起こす性加害」には、それをそれとしてことさら取り上げるだけの根拠があるように思う。「一見普通の男性が起こす性加害」とは要するに「性加害者は通常の理性を備えた男性が、それを一時的に失う形で生じることが多い」ということを意味しているのだ。  そして私たちは同様に理性を失う形で行動を起こしてしまう例を知っている。それは例えばギャンブル依存であり、アルコール中毒やそのほかの薬物中毒である。これらは嗜癖、あるいは行動嗜癖と呼ばれる。そしてそれと同様に「一見普通の男性が起こす性加害」の問題は、男性の性愛性の持つ嗜癖としての性質ということである。  しかしここで私たちは一つの疑問に突き当たる。コカイン依存やギャンブル依存は、それを特に有しない人には問題行動を起こさせない。何らかの事情で自分で使うことのできる現金を手にしても、普通の人は何も特別行動を起こさないだろう。しかしいてもたってもいられずにパチンコ屋に向かってしまう人は、間違いなくパチンコ依存という病的な状態にある。しかし性加害はごく普通の(と周囲からも思われる)男性が起こしてしまうことが多い。その人が特別強い性欲を有しているというわけではないだろう。ということは男性にとっての性欲は、最初から依存症的な性質を有しているということになる。  ところで人間が通常有する生理的な欲求に本来的に依存症的な性質が備わっていることなど、他に例があるだろうか。例えば食欲はどうだろう? 極端な飢餓状態ではそれこそ地面を這っている虫さえも食べてしまうということがあるという。しかしこれはよほどの極限状態であろう。  ということで男性の性愛性の依存症的な性質を説明するために私はここで二つのモデルを取り上げようとしているのである。

2025年7月13日日曜日

男性の性加害性 3

 ところで性依存=性嗜好障害+強迫的性行動症いう式のうち後半部分について。これがCSBD(compulsive sexual behavior disorder 強迫性性行動症)であり、ICD-11に掲載されている。これが持つ意味は大きい。そして事実ICD-11にはこれがかなり長々と記載されている。いわゆるポルノ依存のような状態だ。つまり性的行動を何度も何度も繰り返し、それによる苦痛を自分や他人に与えるという問題だ。ただしここで二つの点に注意すべきである。

1.これは強迫性障害 OCD とは別物であること。ICD-11には断り書きがあり、強迫的 compulsive という名前はついているものの、「本当の強迫ではない」というのだ。(CBDS is not considered to be a true compulsion. ) なぜなら通常のOCDに見られる強迫行為は基本的には快楽的ではなく、通常は不安を起こすような思考(つまり強迫思考 obsession ) を和らげるものであり、CBDSはその限りではないからだ。あくまでも性的な快楽を追求する点がCBDSの特徴だ。(ちなみに私はこのことを知らずに、「ああ、ICD-11は性行動の問題を強迫行為の一種としてとらえているんだね」と単純に思っていたのだ。しかしこれを読むと実はそれは嗜癖に近いと言っていることになるのだ。だってそもそも楽しい行為がやめられないって、依存症そのものじゃないか。でもあえて性依存という言葉を使っていない。それは現代の精神医学では、これが行動依存の一種であるかどうかの結論は出ていないから、というのである。だからこのCSBDは嗜癖の分類の中にではなく、衝動コントロール障害 impulse control disorder の下に収められているのだ。

2.DCM-5にはそもそもこのCBDSに該当するような診断が入っていないということ。つまりICD-11の立場、すなわちこれは正式な依存症でも強迫でもない、という立場は同じでも、それを診断基準に含めないという選択肢をとったのが、DSM-5だったのだ。だから両者の決定的な齟齬を意味してはいないことになる。


2025年7月12日土曜日

週一回 その26

少しずつ続けていくうちに、いつの間にかこの文章もまとまってきた。

総合考察

  最後に現代的な視座から見た「週一回」についての総合的な論述を行う。

 第一章では、我が国の「週一回」に関する「コンセンサス」すなわち「週一回では、治療作用として転移解釈を用いる本来の精神分析的な治療は難しい」に関して、二つの問題点を指摘し、さらに第二章では我が国の「コンセンサス」に見られる治療頻度や治癒機序に関する議論が、海外における現代の文献ではどのように扱われているかについての検討を行った。

 そのうえで改めて第一章で掲げた二つの問題点について検討を加えよう。まず第1点の「週一回」か「週4回以上」という線引きについては、欧米圏での議論の傾向としてはそれが対立軸としての意味を持つような厳密な区分は見られない。そこには精神分析と精神分析的精神療法は基本的に類似のものであり、それらが一つの「精神分析的様式の治療」(Kernberg)としてとらえられる傾向が関係しているからであろう。そしてそのような考え方の背景にあるのは、治療者の介入の表出的―支持的連続体の概念であり、週一回の治療は解釈的なアプローチは相対的にあまり用いられない支持的療法に相当するが、依然として精神分析的様式として認められ、我が国の「コンセンサス」に見られる「週一回」を分析的とみなさないという排他的な姿勢とは異なるのである。


(以下略)


2025年7月11日金曜日

週一回 その25

 この論考の推敲も長いが、少しずつ修正は続いている。ここで紹介するHPの日本語訳もより正確なものにした。

なお精神分析的精神療法の介入の仕方や頻度に関しては、国際精神分析協会や米国精神分析協会のホームページが最近の動向を反映していると見なすべきであろう。  米国精神分析協会APsAのホームページには以下のような記載が見られる。

「精神分析的精神療法の治療方法は精神分析の理論と技法に基づく。主たる相違点は、患者と分析家の会う頻度がより低く、時には週に一度のみであることである。精神分析と同様、セッションの頻度は患者のニーズに応じてカスタマイズすることが可能である。もう一つの相違点は、患者は治療者が視野に入らない形でカウチに横になるのではなく、通常は椅子に座り治療者との対面で行うことである。(令和7年5月20日にHPより転記https://apsa.org/about-psychoanalysis/#toggle-id-2)


<以下略>

2025年7月10日木曜日

週一回 その24

 海外における面接の頻度や治癒機序に関する理論 

 ここまでで論じた我が国における「コンセンサス」(「週一回では、治癒機序としての転移解釈を用いる治療は難しい」)は海外での精神分析の議論にも同様に見られるのであろうか?それがこの章で論じるべきテーマである。

 まずは我が国の「コンセンサス」の議論の前提となる「ヒアアンドナウの転移解釈」に関する議論の歴史について触れる必要がある。米国においても Strachey により提唱された転移解釈(変容惹起性解釈)の重要性についての議論は、Merton Gill のヒアアンドナウの転移解釈の議論に引き継がれることで「新たな活力を得た」(Wallerstein p.700)と言われる。そしてよく知られる1960年代からのMenninger Clinic における精神療法リサーチプログラム(以下「PRP」)においても「ヒアアンドナウの転移解釈が絶対的に主要な absolutely primary 技法である」 という Strachey および Gill の提言は、一種の「信条 credo」として謡われていたという(Wallerstein p55)。
  しかしこのPRPの研究の結果としてヒアアンドナウの転移解釈の絶対性ということは証明されず、治療はケースによりそれぞれ独自であり、解釈による洞察以外にも様々な支持的な要素が入り混じった複雑なプロセスであるということが示されたという。そしてPRPの研究結果の一つのエッセンスは「支持的治療は、高度に表出的な治療や探索的な治療と同じくらい長持ちする構造的な変化をもたらした」(Wallerstein, Gabbard)ということだったのである。


(以下略)

2025年7月9日水曜日

週一回 その23

 週一回に関する「コンセンサス」とPOST

 以上に見た藤山氏の提言と高野氏、岡田氏の論文は、いずれも「週一回」においては、Strachey により提唱された精神分析的な治療作用としての転移解釈を行うことの難しさや困難さについて論じていた。そして我が国における最近の「週一回」についての議論もおおむねその考えに賛同し、受け入れる方向に向かっているという印象を受ける。  山崎氏(2024)はこれまでの「週一回」に関する議論を総括したうえで、「『週一回』は『分析的』にするのは難しいという結論が出ているといっていいだろう」(2024,p20)。とし、これが最近の複数の分析家や精神療法家の間のコンセンサスであるという考えを示す。そしてそれにもかかわらずこれまで彼らの多くが「『週一回』は『分析的』でも精神分析的に行えるというごくわずかな可能性に賭けることで、『精神分析的』というアイデンティティを維持しようとしてきた」のだという(2024,p19)。  ここで理論的な整理のために、この山崎氏の示す「『週一回』は『分析的』にするのは難しい」という現在の療法家が下した結論を「コンセンサス」と言い表して論を進めよう。この「コンセンサス」を正確に言い直せば、「週一回では、治療作用として転移解釈を用いる本来の精神分析的な治療は難しい」となろう。  そのうえで山崎氏が提案するのは、精神分析との違いを明確にしたうえで、「週一回」それ自身が持つ治療効果について考えることである。これは上で見た高野氏や岡田氏の論文にもみられる方向性に近い。山崎氏は便宜的に「週一回」を【精神分析的】心理療法と精神分析的【心理療法】とに分ける(2024,p22)。このうち前者は「週一回」でも分析的にできる、という平行移動仮説水準のレベルに留まったものであり、後者はPOST(精神分析的サポーティブセラピー)に相当すると述べる。つまりは「週一回」を「コンセンサス」をもとに概念化したものが、POSTと考えることが出来るのだ。

(中略)


 我が国の「週一回」の議論の特徴とその限界


 これまでに見た我が国の「週一回」の議論および「コンセンサス」は、山崎氏その他の検証に示されるように、ある一定の学問的なレベルに至っていると考えられる。そこでの「コンセンサス」、すなわち「週一回では、治療作用として転移解釈を用いる本来の精神分析的な治療は難しい」ことの根拠としては、週4回という治療構造では供給が十分であり、容易に転移の収集が出来るが、「週一回」ではそれが難しいということである。


(以下略)

2025年7月8日火曜日

男性の性加害性 2

 男性の性加害性のスライド、結局こうなった。






 

2025年7月7日月曜日

週一回 その22

「週一回」の地道な見直しが続く。もうこの論文を書きだしてから二月以上たっている気がする。

「週一回精神分析的サイコセラピー」― 現代的な立場からの再考

1.はじめに

 この論考は我が国の精神分析学の世界において過去10年あまり継続的に議論が行われている「週一回精神分析的サイコセラピー」というテーマに関して、 現代的な精神分析理論の立場から再考を加えることを目的としている。

 このテーマについての議論は精神分析学会で一つの盛り上がりと学問的な進展をもたらしている。その一連流れを俯瞰した場合、そこに様々な議論が存在するものの、全体としてある方向性や考え方が一定の支持を得ているようである。それは精神分析本来の意義や有効性が発揮されるためには、週4回以上のセッションによる精神分析を行うことを前提としたものであるというこであり、週一回という低頻度の精神療法を同様に精神分析的に行うことは非常に難しいという考え方である。それは論理的に一貫し、整合性のある議論と言える。しかし一方では精神分析理論を学び、その影響下にある治療者が行う治療的な関わりの大多数が、週一回ないしはそれ以下の頻度で行われているという現実がある。そしてそれらの低頻度の精神療法において精神分析的な理解やそれに基づく技法の有効性が制限されるとしたら、それは非常に残念なことと言うべきであろう。
 現代の精神分析は近年大きな理論的広がりを見せ、いわゆる治療作用に関しても様々なモデルが提案されている。そして海外の文献を参照しつつ、より広い視点から週一回の精神分析的な精神療法の妥当性について検討を加える価値があろうと考えたことが、筆者が本稿をまとめるに至った主たる動機である。

2.「週一回精神分析的サイコセラピー」をめぐる我が国の議論

「週一回精神分析的サイコセラピー」というテーマに関しては、それを包括する内容の学術書(高野、山崎編、2024)が近年出版され、またいわゆる精神分析的サポーティブセラピー(岩倉ほか、2023)の議論も深くかかわっている。我が国における若手の精神分析的な臨床家たちが共通のテーマについての議論を重ね、一つの流れを生み出していることは非常に心強い限りである。

(以下省略)

2025年7月6日日曜日

男性の性加害性 1

 「信頼していた男性がなぜ豹変して加害的になるのか?」「一見普通の男性の起こす性加害行為」

このようなタイトルにしたのは、この点が臨床上もっとも重要だからである。というのも臨床で出会う性被害の犠牲者たちが最も頻繁に口にするのは、それまで信頼に足る存在とみなし、また社会からもそのように扱われていた男性が、なぜ性加害を及ぼすのかがわからない、ということである。つまり「一見普通の男性の起こす性加害行為」である。そしてそれを説明する上での一つの概念が「自己強化ループ」というモデルである。しかしその前に少し概念的な整理が必要である。 そもそも男性が侵す様々な性加害ないしは性犯罪の問題は社会で様々な形で問題とされてきている。そして性依存 sexual addiction の概念もその一つといえる。そしてこの概念はとても重要なツールになるものの、同時に非常に混乱を招く概念でもある。 性依存症という言葉が意味するのは、性行動がある種の嗜癖となって様々な問題を引き起こすということである。この性依存は例えば薬物依存やギャンブル依存などと同様にある種の病的な状態とみなされ、本人は嗜癖となっているその性行動を抑制するのが難しく、それが性加害を含む様々な問題につながるという考えである。 ただしこの性依存症という概念が議論の対象となっているのは、それが性加害行為を行う男性を免責する可能性があるからである。依存している薬物に手を出さずにはいられず、それが一種の病気であり、精神障害の一つであると考えることは、性加害者に法的な責任を問うことをむずかしくすると考える人も少なくないだろう。ただしここで重要なのは、再犯を繰り返すいわゆる性犯罪者の中で性依存症の人の占める割合はごく一部であるということだ。 まず基本に立ち返ろう。単に性欲が強いというだけで性依存症ということにはならず、それが自分や他者に苦痛を引き起こすことにより初めてそう呼ばれるものになる。しかし性的欲求は人間に自然に備わったものであり、それの依存症は科学的に確認されないという指摘もある。 Prause, Nicole; Janssen, Erick; Georgiadis, Janniko; Finn, Peter; Pfaus, James (1 December 2017). “Data do not support sex as addictive”. Lancet Psychiatry 4 (12): 899.

 B. R. Sahithya; Rithvik S. Kashyap (2022/05/16). “Sexual Addiction Disorder— A Review With Recent Updates”. Journal of Psychosexual Health 4 (2).^ Grubbs, Joshua B.; Hoagland, K. Camille; Lee, Brinna N.; Grant, Jennifer T.; Davison, Paul; Reid, Rory C.; Kraus, Shane W. (2020). “Sexual addiction 25 years on: A systematic and methodological review of empirical literature and an agenda for future research”. Clinical Psychology Review (Elsevier BV) 82: 101925.

しかしおいしいものを食べたい、ほしいものを求めたいという願望も自然なものであるが、その欲求をコントロールできず、その結果として自分や他者に苦痛や迷惑を与える行動を私たちは知っている(過食症、買い物依存、その他)。人間が本来自然に持つ願望が度を超えて抑制が効かなくなる病態を私たちは経験しているのであり、性的願望にも同様の依存状態が存在することを認めることは自然であろう。 そこでまず性依存という概念について調べる。すると例えば次のような記載を見かける。「国際的な診断基準であるICD-11では、これらの症状は性嗜好障害や強迫的性行動症として分類されます。」つまり性依存=性嗜好障害+強迫的性行動症 というわけだが、性嗜好障害とはいわゆるパラフィリア、分かりやすく言うと「変態」と呼ばれる類のもの、すなわち盗撮、痴漢、露出、覗き、下着の窃盗、児童への性的関心、また強迫的性行動症とは例のポルノ依存のような状態を言う。すなわち性依存には私たちが最も関心を持つ問題、すなわち「一見普通の男性が起こす性加害」をこれらは掬い上げていないのだ。

2025年7月5日土曜日

週一回 その21

この論考ももう最終段階にきている。


 結論:現代的な視座から見た「週一回」について

  最後に現代的な視座から見た「週一回」についての総合的な論述を行う。

 第一章では、我が国の「週一回」に関する「コンセンサス」すなわち「週一回では、治癒機序としての転移解釈を用いる治療は難しい」に関して、二つの問題点を指摘した。第一点目は、この線引きが恣意的である可能性である。そして第2点目は、この「コンセンサス」が 一世紀近く前に提唱された Strachey の提言を現代まで持ち越している点である。さらに第二章では我が国の「コンセンサス」に見られる治療頻度や治癒機序に関する議論が、海外における現代の文献ではどのように扱われているかについての検討を行った。

 そのうえで改めて第一章で掲げた二つの問題点について検討を加えよう。まず第1点の「週一回」か「週4回以上」という点は、欧米圏での議論の傾向としては対立軸と見なされるような厳密な区分は見られない。そこには精神分析と精神分析的精神療法はたがいに類似のものであり、それらが一つの「精神分析的な様式の治療」(Kernberg)としてとらえられる傾向が見られる。そこを貫くのは治療者の介入の表出的―支持的連続体の概念であり、そのどちらの極により相対的に近いかということで両者が区別されるという考え方である。すなわち週一回の治療は解釈的なアプローチは相対的にあまり用いられないことになるが、それは我が国の「コンセンサス」に見られる「週一回」を分析的とみなさないという排他的な姿勢とは異なるのである。


(以下略)

2025年7月4日金曜日

週一回 その20

  なお精神分析的精神療法の介入の仕方や頻度に関しては、国際精神分析協会や米国精神分析協会のホームページが最近の動向を反映していると理解すべきであろう。  米国精神分析協会(APsA)のホームページには以下のような記載が見られる。 「精神分析的精神療法の治療方法は精神分析の理論と技法に基づく。主たる相違点は、患者と分析家の会う頻度がより低く、時には週に一度しか会わない。精神分析と同様、セッションの頻度は患者のニーズに応じてカスタマイズされなくてはならない。もう一つの相違点は、患者は通常はカウチを用いず対面で行うことである。(令和7年5月20日にHPより転記https://apsa.org/about-psychoanalysis/#toggle-id-2)  また国際精神分析協会(IPA)のホームページには、以下のような記載がある。 「精神分析的精神療法は通常はより低い頻度(週に1,2セッション)で、対面法で行う。[精神分析とは異なり]治療の目標はしばしば特定の問題(例えば関係性や仕事上の困難さ)抑うつ、不安症の解決に焦点づけられる。もちろん精神分析と同様に転移や逆転移は生じるが、それらはしばしば解釈されることなく背景に置かれ、その代わりに患者の人生にかかわる問題がより直接的に扱われる。時には患者と治療者は後の段階になって彼らの治療を深めるためにより頻回の精神分析に取り組むことがある。」  このように国際精神分析協会も米国精神分析協会も、そして米国心理学協会も、それらのホームページでうたっているのは、精神分析と精神療法がいかに類似していることである。「精神分析的精神療法は精神分析と極めて近い。つまり自由連想が用いられ、無意識を重視し、患者・治療者関係を重視することである。」(米国心理学協会のHPより)(岡野 2023で引用)。  海外の、特に英語圏に見られる議論の傾向をここでまとめよう。そこでは精神分析と精神療法が類似していることが強調され、時には精神分析的療法の中の構成要素として精神分析と精神分析的精神療法が挙げられる。このうち後者は表出的精神療法と支持的精神療法に分けられるが、それらは明確に分類されるというよりは、表出的―支持的スペクトラム上の技法のどれがより中心的に用いられるかによる相対的な違いとして概念化されている。  そして何よりも注目すべきなのは、代表的な精神分析機関のホームページを見る限りは精神分析的精神療法としては少ない場合には週一回という言及がなされるようになっているということである。ここに至って週一回は分析的ではないという制限は事実上取り払われた(あるいは最初から存在しなかった)ということが出来るであろう。


2025年7月3日木曜日

週1回 その19

 結構手直ししている。地道な作業だ。

 このPRPにも直接携わった Kernberg (1999)は後に分析的な治療を「精神分析的な様式の治療 psychoanalytic modalities of treatment 」と一括りにして、その中を「精神分析」、「精神分析的精神療法」、「精神分析を基盤とした支持的精神療法 psychoanalitically based supportive psychotherapy」 に分類した。そして精神分析的精神療法は通常は最低週2回のセッションが必要であるとし、そうすることで転移の発展と患者の日常の現実の変化の両方を探ることができると明言する(p.1081)。この主張は、週2回以上を精神分析的ととらえた前出の藤山氏の主張と共通している。また Kernberg はそれ以下の週一回の支持療法では、転移に専念するのではなく、患者の現実の世界における進展を扱うことに費やすべきであるとする。

  なおこのKernberg の考えを反映する形で提唱されたのがTFP(転移に焦点づけたセラピー transference focused psychotherapy (Clarkin, 2007) である。このTFPはBPDの治療を目的として始まったが、他の障害を持つ患者についてもその対象を広げている。TFPはその名の通り患者と治療者の転移関係における明確化、直面化、解釈が治療の主流となる(Gabbard, 448)。しかも治療早期から、転移の中でも特に陰性転移が扱われるとのことであるが、治療頻度はやはり上記の「精神分析的精神療法」と同様に週2回となっている。

以上のKernberg らの立場は、転移を積極的に扱う手法は週2回でも可能であるとみなす具体例と言えよう。ただし精神療法と精神分析との関係についての頻度という観点から論述する他の文献は少なく、Kernberg の「転移解釈は週2回以上」という見方が一般の分析的な臨床家たちのコンセンサスを得ているかは明言できないことになる。

 現在において精神分析と精神療法との関係性、および頻度の問題についてより包括的な立場を提示しているものとして、Glen Gabbard のテクストが挙げられよう。Gabbard の「精神力動的精神療法」(狩野力八郎 監訳、岩崎学術出版社、2012年)は米国における精神医学の基本テキストとして用いられ、邦訳を通して私たちにも馴染み深い。Gabbard は上述の表出的、支持的という分類に関して「治療者の介入の表出的―支持的連続体」(以下、「連続体」)を提示する。これは表出的な極に近いものから順番に、「解釈」、「オブザベーション」、「直面化」、・・・・として「心理教育」、「助言と称賛」と進んで支持的な極に至るというものである。そしてどちらの極により近いかにより、精神療法を表出的精神療法と支持的精神療法として分類する。
 この連続体に基づく「表出的か支持的か」という分類について、Gabbard は「より表出的に計画されている治療」については2,3回、支持的では週一回あるいはそれ以下であるとしている。しかし「週一回未満の低頻度」では「転移に焦点を当てることは難しくなる」と述べる。
 このGabbard の分類によると、週一回は支持的精神療法に分類され、そこでの介入も「連続体」の上では解釈などの表出的なものよりはむしろ心理教育、助言などの支持的なものが主体となる。ただしこの後者も「連続体」の理解に則ったものという意味では精神分析的な介入ということが出来よう。
 ところで注意を要するのは、Gabbard は表出的な介入としての解釈を分析的な治療にとって第一義的ないしは特権的なものとは必ずしも見なしていないということである。彼は「転移は治療の妨げになる時には解釈する必要がある」(p.79)という理解のもとに、それに至るまでの防衛の解釈により重きが置かれるべきであるという考えが示されている。さらに「分析家や分析的治療者は・・・転移の作業をしばしば美化しがちである」(p80)とし、力動的精神療法で治療者が行うことの大部分は非解釈的である」(p81)とする。これは Gabbard が提唱する多元的なアプローチの文脈からはより理解可能な姿勢と言えるだろう。

2025年7月2日水曜日

男性の性愛性とポジティブフィードバック(自己強化ループ) 2

  これは「途中で止まれない」構造の生物学的根拠になる

  • 射精がポジティブフィードバック的に加速されるプロセスだとすれば、男性が性的刺激を受けたあとの行動は、「意志による制御」よりも「自己強化された衝動」に駆動されやすい。

  • このとき、理性的判断や倫理的抑制(ネガティブフィードバック)は後退しやすくなる

  • この構造を理解することは、**性加害の一部が「道徳以前の身体現象」として起こる」**ことを意味しうる。


●「加害意図がなかった」とされるケースの説明に使える

  • 一部の性加害は、加害者の主観的には「同意があると思い込んでいた」あるいは「止まれなかった」という説明がされる。

  • 射精行動が自己強化的プロセスだとすれば、
     → この「止まれなさ」は単なる言い訳ではなく、身体に組み込まれたフィードバック構造に由来している可能性がある。

  • 同時に、それが加害の正当化ではなく、「制御の難しさに対する事前的な倫理的備え」として機能することを明確にする。

「射精がポジティブフィードバックであることは、性加害が“生理的に止まりにくい”という困難を意味する。しかしそれは、だからこそより高度な自制の準備が必要であり、意志の放棄や責任回避を許すものではない。」

  •  もちろん免責されるべきではないが、この理解は再発予防につながるのではないか?