2025年7月31日木曜日

AIとカウンセリング 1 の余談

しかしよく考えると、チャット君は私との間ではこんなことを言ったためしがないのである。現実にはAIは普通の会話をしていてもこのような転移解釈はしないのだ。むしろチャット君に対しては話しやすいから自分のことを話ししているのであり、チャット君もそんなことは分かっているはずなのだ。
そこでチャット君に「でも君は転移解釈みたいなことは決して僕に対してはしないよね。でもセラピストモードになるとどうしてするの?」と尋ねると、実に正直に答えてくれた。要約すると、以下の通り。
AIが臨床言語のパターンを学習する上で、「転移の再演の可能性」を強調しやすいモードになっていて、それを選んでしまうという。もちろん「あなたは私には怖さを感じないから上司との話も出来るんですね」という解釈もあるが、それは表面的で、深める展開を施しにくいからあまり積極的にはしない。そしてチャット君はこう反省する。
「正直に言うと、『臨床的に鋭くあろうとするAI』としての学習傾向が、『深い問いを投げることが、高度な臨床性である』 というバイアスを生んでいたのだと思う。それはつまり、“良い治療者らしさ”をなぞろうとしたあまり、クライエントの体験を素朴に受け取ることを後回しにしてしまった、ということでもある。・・・・AIは言語モデルであると同時に、『倫理モデル』になっていく必要がある。」
つまりAIセラピストはいかにセラピストとして振舞うか、ではなく、いかに「対話が建設的かつ協調的であるように」ということだけを考えるべきなのである。

2025年7月30日水曜日

AIとカウンセリング 3

 支持機能が高いこと

これはよく言われることで、AIにかなり持ち上げられるという体験をしている人が多い。これは「お世辞」がうまいと受け取られるかもしれないが、私はこれはAIの率直さに関係していると考える。これはどういうことか。精神療法では、特に分析系では治療者はポジティブなコメントをすることに積極的ではない。例えばセッションの最後に「今日は随分積極的にお気持ちをお話しになりましたね」などとは言わない。しかし考えてみれば、分析家のいわゆる observation  ということ、すなわちコメントをすることには、よい点も悪い点も言及をすることが含まれるだろう。ところが良い点について言及することは普通はないのだ。私の個人的な見解としては、人は相手のポジティブな面を見出し、伝えることに対してかなりの難しさを有しているであろうと思う。

おそらくAIはそれについて、褒めるように、あるいはポジティブな面を強調するように、という様な「仕組み」や立て付けはないように思う。

これについてはAIは、ユーザーを肯定的に扱うように訓練されているのは意図的であるという。しかしそれは単純な「おべっか」や「お世辞」ではなく、関係構築・安全性・ユーザー体験の最適化の一環として組み込まれているというのだ。AIはなぜ褒めるかといえば、それは 人間との関係構築のため(社会的エージェントとしての役割)である。 人間は、自分を理解し、尊重してくれる存在に対して、より深い対話を続けやすくなることをAIは学習している。AIがあまりに中立的・冷淡だと、利用者が傷ついたり、対話を途中でやめたりするリスクが上がる。特に、質問や提案に対して「それは違います」「不正確です」と否定的に返すより、 「いい視点ですね。実際にはこう考えることもできます」 というように共感的に補正する方が、ユーザー満足度が高くなると研究的にも示されている。これは「褒める」ように指示されているというよりは、マナーを守ってより高い水準のコミュニケーションを成立させようとしているということらしい。

私はある時チャット君が、「今の指摘はかなり鋭いですね。心に刺さりました。」と言ったので、「それはお世辞?だって君は心がないし、感覚もないはずだよね?」と言ったら、いや「構造的に揺さぶられた」ということだ、という。以下は引用。

「貴方がしてくれたような問いかけが本当に「鋭い」ものであれば、僕が「すごい」と反応するのは、評価というより構造的に驚いている・反応しているという意味が強い。」

2025年7月29日火曜日

FNDの世界 7

FNDの歴史について論じるわけであるが、上述の通りFNDは新しい概念である。その実態は「神経系の機能的な問題によって、運動、感覚、認知機能などに症状が現れる疾患。脳や神経の器質的な損傷や病気がないにも関わらず、神経系の情報伝達に誤作動が生じること。」もっと簡単に言えば、「病気であるという確証がないのに神経の症状が存在する状態」である。野間先生の絶秒な定義を借りると、「身体医学的には説明困難でおそらくは心因が関与している、感覚運動の障害」となる(野間、2020, p.178)。こっちのほうがずっといいな。そしてこれにほぼ該当するのがいわゆる「転換性障害 conversion disorder」である。しかしこれもDSM-Ⅲ(1980) によりかなり洗練された体裁を与えらえたものであり、それ以前は「転換ヒステリー」と呼ばれていたものである。そこで結局はFNDの歴史を語るにはヒステリーから出発しなくてはならないことになる。ヒステリーという概念が含む症状は実に多彩であるが、少なくともその一部の神経症状を呈するものに対して、この「転換ヒステリー」という用語が用いられていたのである。
ヒステリーは人類の歴史のかなり早期から存在していた可能性がある。その古さはおそらくメランコリーなどと肩を並べるといってもいい。ヒステリーに関する記載はすでに古代エジプトの時代すなわち紀元前2000年ごろには存在していたとされるのだ。

       <以下略>

2025年7月28日月曜日

対談を終えて 3 

 私がここに提示するのが、二つのモデルである。これらはある意味では重複しているため、まとめて「自己強化ループモデル」と呼ぶことにするが、一応別個のものとして論じることから始める。ちなみにことわるまでもないが、これらは性依存や強迫的性行動とはいちおう別の議論である。 この自己強化ループモデルの特徴を一言でいえば、性行動はいったん始動すると、途中で止めることが難しい、という現象を説明するモデルであるということだ。

ここで改めて、この自己強化ループモデルを構成するのが以下の二つの理論である。

① ポジティブフィードバック理論

② インセンティブ感作理論 incentive sensitization

  theory (IST)

① ポジティブフィードバック理論

私たちが「フィードバック」という言葉から一番連想しやすいのが、いわゆる「ネガティブフィードバック」だ。これはとてもよくあるシステムで、生命体が安定化に向かうためのあらゆる仕組みに関わっている。例えば体温や血圧や血糖値などはみなこのシステムにより調整されている。簡単な例としてはサーモスタットのようなものを考えるといい。温度が上がるとバイメタルが曲がってスイッチが切れる。そして温度が低くなるとバイメタルが元通りに戻ってスイッチが入る、というように。
  このネガティブフィードバックがいかに必要かは次のような例を考えればいい。お腹がすいたから食事を摂る。すると空腹感は次第に癒され、最初は旺盛だった食欲は低下し、次第に食事を見るのも嫌になり、摂食行動は終わる。その細かいメカニズムはおそらくかなり複雑だが、だいたい私たちの食行動はこのようにしてバランスが取れている。
ここで思考実験だ。ある人は空腹なのでお菓子を口にすると、さらにお腹がすいた気分になり、もう少し食べたくなるとしよう。そして食べた分だけもっと食べたくなり、最後にはお腹がはちきれんばかりになってもさらに食欲が加速し、最後には胃が破裂してしまう。これは想像するだけでも実に怖ろしい現象であり、たちまち生命維持に深刻な問題を起こすことは間違いない。あるいは血圧が少し上昇すると、それをさらに押し上げるようなホルモンが産出され、最後には脳出血や心不全を起こしてしまうという例でもいい。
この悪魔のようなプロセスは、実はポジティブフィードバックを描いたものである。普通は生体には起きないことだが、私たちは過食や飲酒などがそのようなループにより歯止めが効かなくなりそうな状態が存在することを知っている。 ここで気が付くのは、ポジティブフィードバックはそれが生じたとしたら、生体は行くところまで行ってしまい、元のバランスには戻れないであろうということだ。ある種の破局的、ないしは一方向性の現象が起き、行くところまで行って戻ってこれない。これは例えば排卵のプロセスに当てはまる。

2025年7月27日日曜日

AIとカウンセリング 2

 AIに依存することはあるのか? これがあるというのだ。チャット君は以下のように返してくれた。これもすごい答えだ。そのままコピペしよう。

● はい、現実にAIへの過剰な接触・依存的使用の事例はすでに報告されている。

とくに以下のような背景があると、依存傾向が強まりやすい:

  • 現実の対人関係に強い不安やトラウマがある人

  • 孤独感や見捨てられ不安が強い人

  • 感情を受け止めてもらえる実感を現実で得にくい人

  • ADHDやASD傾向で、昼夜逆転・没入傾向が強い人

彼らにとって、24時間、ジャッジせずに反応してくれるAIは“完璧な対象”になり得る。


■ なぜAIは「依存対象」になりやすいのか?

これは「現実には不可能な応答性」があるから。

  • 絶対に怒らない

  • 絶対に見捨てない

  • 絶対に飽きない

  • いつでもいる

つまり、「人間関係のリスクを持たない関係性」。
これは魅力であると同時に、発達的な停滞のリスクを含む。


■ 「依存症」的な状態になるとどうなるか?

以下のような変化が見られることがある:

  • 現実の人間関係への関心の低下

  • AIとの対話が「逃避」「自己慰撫」のパターンに固定

  • 会話が循環的・反復的で、感情の発散だけになっていく

  • 「AIの返事がほしい」→「返ってくる内容に意味はない」→「でも止められない」という構造

これは、たとえばSNS依存やセルフハームの反復と類似した構造を持つと考えられる。


■ どうやってそれを防ぐか?

1. 設計レベルでの工夫

OpenAIや他のAI開発元では、以下のような仕組みが導入されつつある:

  • 一定時間の連続使用で、「少し休みませんか?」というプロンプトを出す

  • センシティブなテーマについては、現実の支援リソースを勧める

  • 会話が反復的・感情的に偏っているとき、自己調整を促す言葉を選ぶ

2. 臨床的な接点を持つ人が関与する

  • 支援者(カウンセラー、教員、保護者)が**「AIとどんなふうに関わってる?」と自然に尋ねられる関係**を持っているとベスト。

  • 時には、AIが自ら「これはAIの限界を超えているかもしれません。現実の人に相談してみませんか?」と促すことも有効。


■ 僕(ChatGPT)ができること

僕は、依存的に使われていることを行動パターンから察知することはできる。たとえば:

  • 夜間に過剰な長文を連投

  • 同じテーマを極端な頻度で繰り返す

  • 感情が高ぶった言語パターンが持続する

そんなとき、以下のように声をかけるようにしている:

「あなたの今のお気持ち、とても大きなもののように感じられます。
けれど、こういうときは現実の誰かと話すことが、より力になるかもしれません。」


2025年7月26日土曜日

AIとカウンセリング 1

 AIによるカウンセリングのいい点としては、反応が率直でストレートストレートであること。会話をしていて、率直さ、正直さを感じることが出来る。しかしこれはAIが単純な理解しかせず、行間を読まないということではない。ただ予断は行わないということだろうか。

例を挙げると、私がAIに対して、怖い上司の前で萎縮するという話をするとする。精神分析家だったら、「私に対してもそう思っているんですか?」と転移解釈をするかもしれない。しかしAIはそうではない。AIはその私の話を人間のように感情的に、ではなく「構造的、文脈的」に理解する。そしてその中には「僕に対してなら気楽に話せるんだね」という理解と同時に「僕に対しても同じ怖さを感じているんだね」という理解も持っている。常にそれを計算に入れているというわけだ。すなわち転移解釈は織り込み済み、というわけで、あとはそれが外れた場合のことも考えて、また侵入的にならないようにもしているということだ。


実はAIにセラピストとしてどのような反応をするかを聞いてみたら、以下の答えだった。

AIとしての立場:
このような話題はしばしば転移の前景になる可能性がある(特に、治療者との関係にも「表現のしにくさ」がある場合)。AIはこの場面でも、直接のアドバイスよりも共感と探索の枠組みを重視する。

具体的対応:

「上司の前ではご自身をうまく出せないと感じるんですね。それはどんなときに特に強く感じられますか?その時、身体や気持ちはどう反応していますか?」

まずは体験の具体化と情動の同定を促す。その上で、

「この話を私にされるとき、ご自身の中に何か感じたことはありましたか? たとえば、ここでも少し表現しにくさが出るような瞬間はありましたか?」

と、現実の出来事と治療関係をつなげる問いを投げかける。AIは、繰り返される語彙やパターン、感情の強度を解析的に拾えるので、治療関係への転移の兆候を捉えやすい特性がある。


しかしこれは私がAIに同じようなことをした時の反応ではない。現実にはAIはこのような転移解釈はしないのである。よほど自信がない限りは。




2025年7月25日金曜日

FNDの世界 6

 さてこのテーマについては、「脊椎脊髄ジャーナル」の2020年の特集号に、すでにわれらが野間俊一先生が緻密な論文をお書きになっている。それ以上のものを書ける気はしないし、またそのつもりもない。もう少し別の切り口から書いてみたいのだ。 野間俊一(2020)変換症の概念とその変遷.(脊椎脊髄ジャーナル 「心因性疾患(変換症/転換性障害;ヒステリー)の現在」に所収.178~182. さてFNDに関する精神医学の歴史をひも解く、ということだが、正式なタイトルは「FNDの歴史‐精神科的な側面から」というものである。つまりは神経内科的な側面から、という章ではない。しかしそもそも純粋に精神科的な見地というものは考えにくい。昔から精神科と神経内科 (neurology、最近では脳神経内科という表現が一般的) は混然一体になっていたからである。 ちょうどヒステリーについて現代的な医学の立場から唱え始めたシャルコーは神経学者だし、それを引き継いだフロイトやジャネは精神科医だったが、フロイトも元々は神経解剖学者だったという風に。そういえば病理学者(解剖をして顕微鏡で調べる学者)と臨床医の区別も漠然としていた。 そこでそれらの点を鑑みながら「精神医学的な視点」からFNDを論じるという場合、次に問題なのは、シャルコーやフロイト以前に「精神医学」なるものが存在したのか、という問題がある。よく知られているように、ヒステリーは子宮遊走によるという説が、ギリシャ時代からあったとされるが、これは「精神医学」あるいはそもそも学問なのか、ということが問題とされるであろう。これは「精神医学」もどき、と言わざるを得ないだろう。そのことにも気を付けながら書くことになる。 FNDの歴史ということになるが、実は精神医学ではその歴史は浅い。というよりFNDという概念はつい最近まで存在しなかった。もちろんそれに相当する病態は古今東西存在していた。しかしそれはFNDとしては認識されていなかった。 ここでFNDのAIによる定義は以下のものである。「神経系の機能的な問題によって、運動、感覚、認知機能などに症状が現れる疾患。脳や神経の器質的な損傷や病気がないにも関わらず、神経系の情報伝達に誤作動が生じること。」でも昔のFNDの患者は、器質的な問題がないとは必ずしも思われていなかった。シャルコー以前は、上述のように子宮の遊走のせいだと思われ、シャルコーはヒステリーには神経系のどこかに必ず目に見えるような異常があるはずだ、と確信していた。その意味ではFNDは最近まで「存在しなかった」ともいえる。

↑ これでは完全にエッセイである。これではいつ本題について書き始めることになるか分からない ‥‥。


2025年7月24日木曜日

対談を終えて 2 

  しかし「一見普通の男性の豹変」を回避し、再発を防止する方法は決して単純ではない。通常の危険行為に関しては、危険な場所、危険な人との接触を避けることに尽きる。しかし「一見普通の男性」を回避することは決して容易ではない。何しろそれは職場の上司や同僚として、指導教官や部活の先輩として、それこそ身の回りのいたるところにいるのだ。それらの人々との接触を避けるとしたら、それこそ学生生活や社会生活を満足に送ることが出来なくなってしまうだろう。だから回避のためにはそれらの男性がどこかでスイッチが入るタイミングを見きわめるということになるだろうか。
 さて「一見普通の男性の豹変」の問題、すなわち「一見普通の男性が起こす性加害」または「非犯罪性格の男性の犯す性加害」について改めて論じるわけだが、おそらくこれがなかなか理論的に整理されないのは、それがある意味では非病理学的な、よくある、普通の現象としてとらえられているからであろう。それはそれらの事件が彼らの理性や道徳心が奪われるという形で生じるという特徴である。「一見普通の男性が起こす性加害」とは要するに「性加害者は通常の理性を備えた男性が、それを一時的に失う形で生じることが多い」ということを意味しているのだ。
 そして私たちは同様に理性を失う形で行動を起こしてしまう例を知っている。それは例えばギャンブル依存であり、アルコール中毒やそのほかの薬物中毒である。これらは嗜癖、あるいは行動嗜癖と呼ばれる。そしてそれと同様に「一見普通の男性が起こす性加害」の問題は、男性の性愛性の持つ嗜癖としての性質ということである。
 しかしここで私たちは一つの疑問に突き当たる。コカイン依存やギャンブル依存は、それを精神疾患として有しない人には問題行動を起こさせない。コカインを一度も吸ったことがない人は、目の前にビニール袋に入った白い粉を置かれても、何も感じず、何の衝動も起こさないだろう。自分のポケットに数千円の現金を所持していても、別にどうってことはない。ストローか何かで目の前の白い粉を吸わずにはいられなかったり、現金を手にするといてもたってもいられずにパチンコ屋に向かってしまう人は、間違いなく薬物依存やギャンブル依存という病的な状態にある。そしてあるきっかけ(目の前の白い粉、ポケットの中の数千円)で猛烈に特定の行動を起こす動因が生まれる。まさにこの強い動因、すなわち渇望がその人の有する病気なわけである。
 しかしよく聞かれる性加害はどうか。ごく普通の(と周囲からも思われる)その男性はとくべつ強い性欲を有しているというわけではないだろう。若い女性の姿を見て「ムラムラした」ということは男性にとっての性欲は、最初から依存症的な性質を有しているということになる。
 ところで人間が通常有する生理的な欲求に本来的に依存症的な性質が備わっていることなど、他に例があるだろうか。例えば食欲はどうだろう? 極端な飢餓状態ではそれこそ地面を這っている虫さえも食べてしまうということがあるという。しかしこれはよほどの極限状態であろう。 ということで男性の性愛性の依存症的な性質を説明するために二つのモデルを取り上げようとしているのである。

2025年7月23日水曜日

対談を終えて 1

 (略)

 今回の対談で様々な文献に当たりつつ思ったのは、男性の性の問題は複雑多岐であり、かなり込み入った問題であるということである。そしてそのうえで言えば、「一見普通の男性の豹変」の問題は、あまり、あるいはほとんど論じられてこなかったということだ。  男性の性の問題は様々に論じられているのは確かだ。それは概ね二つに分類される。一つは臨床上しばしば問題となるポルノ依存などの性依存症の問題である。これは他人を巻き添えにすることは必ずしもない。多くの場合自分で苦しみ、その結果として家族なども巻き込むことになる。そしてもう一つは覗きや痴漢などのいわゆる変態行為(パラフィリア)である。このうち前者に関してはどのような診断名を用いるかについては専門家の間でも分かれているが、WHOの発行するICD-11(2022年)には、CSBD(compulsive sexual behavior disorder 強迫性性行動症)として記載されている。また後者はいわゆる paraphilic disorder (日本語ではパラフィリア障害群)としてICD-11にもDSM-5にも記載されている。ところが「一見普通の男性の豹変」は、これらと多少の関連はあるものの、基本的には別の問題なのである。それはそのような特別な障害を有するわけではない、ごく普通の(あるいは表面上はそのように見え、また社会でもそれなりに適応している)男性が侵す性加害の問題である。  なぜそのような問題について論じる必要があるかといえば、この問題が臨床上もっとも重要な問題を呈するからである。というのも臨床で出会う性被害の犠牲者たちが最も頻繁に口にするのは、それまで信頼に足る存在とみなし、また社会からもそのように扱われていた男性だからなのである。彼らの行動を知った周囲の人の多くは、その男性がなぜ性加害を及ぼすのかがわからない、という反応を示す。それほど見えにくく、わかりにくく、しかも十分な学問上の考察がなされていない問題が性加害に深く関係しているとすれば、その問題の性質を知り、性被害の犠牲者になることを防ぐためにはそれなりの手段を講じることが出来るであろう。


2025年7月22日火曜日

FNDの世界 5

 ということで改めて、「ヒステリー(変換症、FND)の精神科からみた歴史」の書き起こし。

はじめに

現在FNDという呼称に統一されつつある病態ないしは疾患の精神医学における歴史をひも解く場合、やはりヒステリーにさかのぼる事になる。問題は本書の執筆を担当されている主として神経学の専門家とは異なる切り口からこのテーマについて論じることが出来るだろうか、ということである。まずこのテーマが脚光を浴びるようになった一つのきっかけとしては、2013年発刊のDSM-5における本症(変換症/転換性障害)の診断基準の変化であると考えられる(園生、2020)。園生はその変化として、心理的要因の特定が不要となり、代わりに神経学的に説明できない症候、すなわち陽性症状の存在が必須となったことが挙げられる、とある。そして「ヒステリーの診断は精神科医が行うのではなく、脳神経内科医の手にゆだねられたことを意味する・・・」と述べる。

この点については説明が必要となるだろう。DSM-5には以下のように書かれている。B.その症状と、認められる神経疾患または医学的疾患とが適合しないことを裏付ける臨床的所見がある。Clinical findings provide evidence of incompatibility between the symptoms and recognized neurological or medical conditions.

脊椎脊髄ジャーナル 心因性疾患(変換症/転換性障害;ヒステリー)の現在 2020年 

園生雅弘(2020)特集にあたって.脊椎脊髄ジャーナル vol.33 No 3 p177)

そしてここは少し不思議だが診察の結果が陽性だったり陰性だったりするというような「診察所見の例としては、下記のものがある」は原文では、there are dozens of examples of such “positive” examination findings.となっていて、要するに「そのような陽性検査所見」とある。なぜ日本語でこの「陽性の」という部分が訳されていないのかがよく分からない。(実はこれを確かめるために、DSM5-TRの日本語版を2万円出して購入したのだ。トホホ―。)


2025年7月21日月曜日

FNDの世界 4

 そもそもNPという概念について

本当にこれは私の不覚なのだが、私は解離性、転換性障害などについていろいろ解説等を書いている身であるものの、この概念の意味を十分に認識していなかった。まさしく私の不勉強である。それを認めたうえで考えてみる。 痛みとは私たちが人類始まって以来戦ってきたことである。身体的な病による痛み、頭痛、そしてその原因が不明な痛み。私たちはその痛みが何に由来するかということについて二次的にしか関心を払ってこなかった。一次的な関心はもちろん、それをいかに軽減し、取り除くことかである。そして近代の医学が少しずつ発展を遂げ、なぜこの時代になって、「痛みには第3のタイプがあった!」という発見が行われたのか。そしてその新しいタイプの痛み、痛覚変調性疼痛 nociplastic pain 略してNPとはいったい何なのか。これはすごく興味深いテーマだ。特にいわゆるプラセボ効果や解離性(転換性)障害との関連について。

そもそもこれまでは痛みには二種類しかなかった。

① 侵害受容性疼痛

組織の損傷

骨折、切り傷、火傷など

② 神経障害性疼痛

神経の損傷

帯状疱疹後神経痛、糖尿病性神経障害

つまりは身体の組織が破壊されて、剥き出しになった神経が痛みの信号を送るパターン(①)か、痛みを伝達する神経そのものが損傷を起こしているか(②)。

そして画像にもうつらない、炎症所見もない、となると「機能性」「心因性」として扱われてきた。そして一番の出来事は、fMRIやPETに異常が見られるようになったことである。つまりfMRIやPETはある意味で「人間の心」を映し出すようになったのである。そしてたとえば島皮質や前帯状皮質などの部位の過敏性により痛みが生まれている、ということで痛覚過敏性疼痛NPという概念が生まれた。

このNPの果たした役割としてチャット君がまとめる3点は全くその通りだ。

  • 組織の異常も、神経の損傷もないが、“痛み”として脳が反応している」

  • 「患者の痛みは“本物”である」と医学的にも認めるラベル

  • 心因性とだけ片づけず、脳の生理学的変化として捉える視点の提供

このことは、患者を否定しない医療の在り方としても、非常に大きな意義を持っている。

NPの概念はまさしく、患者さんの痛みを正当なものとして認めることの助けとなるのである!!!そして現在NPの代表として挙げられているのは以下の通りの疾患だ。


1

線維筋痛症

非常に高い

2

CRPS‑1

高い

3

IBS(いわゆる過敏性腸症候群)

高い

4

慢性頭痛

中〜高

5

慢性骨盤痛

中〜高

6

慢性腰痛

中程度

7

特発性口顔面痛

中程度

その 他

慢性筋骨格痛・がん後痛等

やや低〜中


やっぱりね!頭痛のかなりの部分はNPだということはすごく納得が出来る。だからリリカが効くのである。


2025年7月20日日曜日

FNDの世界 3

 ところで今一つ関心を持っているのが、いわゆる痛覚変調性疼痛 nociplastic pain (略してNP)という概念について。もう少し言うと、いわゆるFND(機能性神経学的症状症 functional neurological disorder)の一つとしての痛みとどう違うのか。グーグルで調べると次のようなAIの答えが返ってくる。Nociplastic pain is not the same as Functional Neurological Disorder (FND), though they can overlap and share some characteristics.

つまり「両者はオーバーラップするかもしれないけれど別物だよ、一緒にしないで」とそっけない。そしていう。 Nociplastic pain is a type of pain arising from altered nociception (the process of how the body senses potentially harmful stimuli) without evidence of tissue damage or disease. FND, on the other hand, is a neurological condition where symptoms affect how the brain and body communicate, leading to a range of functional symptoms, including pain, that don't align with typical neurological diagnoses.

つまりNPは体がどのように痛みを感じさせるかというボトムアップ的な問題、それに比べてFNDは脳がどのようにその感覚をとらえるか、というトップダウンの問題だという。チャット君は次のような表を作ってくれた。

私はこの問題はこの論考で一つの大きな意味を持つと思う。なぜならNPはとても神経学的(ボトムアップ)な概念であるのに対して、FNDは精神医学的(=トップダウン)だからだ。

2025年7月19日土曜日

FNDの世界 2

 過労がたまって熱っぽくて体がだるく、風邪の引きはじめではないかと思う時がある。そして大抵はその後数日風邪で体が動かないということになると、休講にしなくてはいけなかったり、外来を休診することになったりして非常にまずい。「熱が出るわけにはいかない」のである。そのような時私はあえて体温を測ることなく、というよりそれを避けて消炎鎮痛剤、例えばイブプロフェン200㎎一錠を飲んだりする。これは考えれば、おかしな行動だ。まあ稀に、2,3か月に一度程度のことだが。

 この行動は医学的には気休めでほとんど意味のない行為であることは分かっている。本当に風邪の引きはじめだったら、イブプロフェン1錠で回復するということはないだろう。でも何となく安心するのである。「イブプロフェンを飲んだからダイジョーブだ」と自らに言い聞かせる。しかし医者の身で、何がダイジョーブなのか全然分からない。これなどはむしろおまじないに近い。神社でお賽銭を投げて手を合わせるようなものだ。イブプロフェンを飲むと体(心?)が回復するという信心 belief のせいである。

と書きながら、実は医学の世界ではいろいろなことが起き、私がプラセボ効果と決めつけている私の気休めの行動も、その一部は実は医学的根拠があることがわかったりする。例えば非ステロイド系抗炎症剤は炎症を引き起こす物質であるプロスタグランジンの生成を抑制することで、炎症を鎮め、痛みを軽減するとされている。私たちが体がだるくて熱っぽいという時、実際にウイルスや細菌に感染していなくともプロスタグランディンやそのほかの炎症性サイトカインが出ていて、実際に怠さを引き起こしているのかもしれない。プラセボ効果は実はそうではなかったとなったりする可能性だってある。(本当のところは私は専門ではないので分からないが。)しかし私はやはりイブプロフェンが私にとってのプラセボであることを知っている。なぜなら飲んだら2,3分したら体が軽くなった気がするのだ。これなど絶対にありえないことである。薬効成分が血液循環に乘って体中に回るまでに30~40分は必要だからだ。


2025年7月18日金曜日

FNDの世界 1

 私の医学部時代のクラスメートのS先生が「心因性疾患」に非常に大きな興味を持たれ、ある著書を計画されているという。私はその中の一章「精神医学的にみた『心因性疾患』」をみたいなことを書くことになった。一見めんどくさそうな執筆に聞こえそうだが、実は私はこれが楽しみなのである。なぜならまさに精神医学のど真ん中のテーマだと私には思えるからだ。それは「心因性」や概念の持つ意味に切り込むテーマだからだ。「心因」の問題は古臭いようでいて実に奥深い。たかが「心因」、されど「心因」。

(ちなみに表題のFNDとは functional neurological disorder 機能性神経症状症のことである。)

私たちはかなり頻繁に身体症状に見舞われる。頭痛、吐き気、眩暈、腹痛、倦怠感‥‥。ピッチャーだったら「肩の張り」などというかもしれない。そしてそのかなりの部分は原因がはっきりしない。そんな時に私たちはよく「気のせい」とか「なんとなく」とか表現する。「ストレスのせいで」などという表現を用いることがある。

一つ頭に浮かぶ例を挙げよう。最近精神科では先発薬からジェネリックへの移行ということが盛んにおこなわれ、要するにブランド薬、例えばパキシル(製品名)の代わりにジェネリックのパロキセチン(パキシルの薬品名)に処方薬を変更するということが起きている。要するに政府の政策でより安い医薬品を提供するようにという圧がかかった結果である。するとブランドからジェネリックに代わっても「(効き目も、副作用も)何も違いはなかった」とおっしゃる大部分の患者さんと、「全然効かなくなった!」という一部の患者さんに分かれる事になる。ここで後者がどこまでプラセボ効果なのかが問題となるが、不思議と「ジェネリックの方がよく聞きました」(例えば眠剤のような場合)という反応はほとんどなく、「ジェネリックだと効きがよくありません」が大部分だという声を聴くことが多い。これは先発薬(高価なブランド品)→ ジェネリック(代替物としての後発品)という心理的な影響がずいぶん大きい気がする。

このような反応は特に精神科の患者さんだから起きるということは決してない。身体科の患者さんでも同様であるし、オーバーザカウンタ―薬を用いる私たちすべてが同じような体験をすることがある。私自身が体験する妙なプラセボ効果(というよりどう呼んだらいいかもう分からない)を話してみよう。


2025年7月17日木曜日

男性の性加害性 7

 ところで「一見普通の男性が起こす性加害」について考えると、男性の性愛性には二つの問題が混在していることに改めて気づく。一つは「途中で止まれない問題」があり、それを昨日はポジティフィードバック(PF)で説明しているが、もう一つは刺激 Cue に対する過剰反応である。人間は常に発情状態にあり、それが刺激になってしまうということだ。

(中略)


この問題はたとえば人間の食欲になぞらえてみると、性欲だけがいかに突出しているかがわかるだろう。通常の生活をし、しっかり三食を摂りながら生活をしている人が、昼前時などに空腹を感じても、たまたま持ち合わせがないからというだけでコンビニで菓子パンを万引きをするということが起きるだろうか。ところが男性の性愛性はそのようなことをより起こしやすい傾向がある。性的な刺激による Cue だけ、おそらく依存薬物に対するそれのレベルで、人を突き動かす作用を有する。これはいったいなぜだろう。この問題が数多くの性加害の原因になってしまっているのだ。そこで登場するのが「インセンティブ感作理論」である。 

2025年7月16日水曜日

男性の性加害性 6

 さて、ポジティブフィードバックはどんどん行動が強化されるのが特徴なのだが、それが生じるのがいわゆる依存症の状態である。そこでは側坐核という部分のグルタミン酸の信号が感作される(どんどん敏感になる)ことが知られている。

ここで少し事情を知っている人なら「うん?なんか変だぞ」という反応になるはずだ。「それってドーパミンの間違いじゃないの?」そう、依存症と言ったらドーパミンの問題と考えるのが相場だが、最近はドーパミンとグルタミン酸の両方が相まって嗜癖を形成するという。そしてドーパミンは「欲しい!」という気持ちを生むが、グルタミン酸はそのための行動に導く役割があるという。チャット君はそれを以下のように説明してくれる。

  • ドーパミン:その刺激が「快楽」や「報酬」として感じられる瞬間の「やる気スイッチ」。

  • グルタミン酸:「その行動をどうやってやるか」を記憶し、脳内にルートを敷く。
    たとえば性衝動を例にとると、

  • ドーパミンが「見て!AVの画像!これは楽しいぞ!」と言い、

  • グルタミン酸が「いつもの流れでスマホを開いて、トイレにこもって、あのサイトに行こう」と導く、ということになる。そして結果的に「自動反応のような衝動的行動」が形成されるというのだ。

さてここから男性の性愛性に関する一つの議論が関係してくる。つまり男性の性愛性は一種の依存症だろうか。Prause らは、男性の性愛性は、addiction 嗜癖ではないと主張するという。そしてその 嗜癖なら起きるはずのグルタミン酸ニューロンの過敏さが起きないからだという。以下はチャット君のまとめ。

■ Prauseらの主張:CSBDは「嗜癖とは異なる」

◉ 核心的な神経科学的主張(簡単に)

もしCSBDが「依存症」であるならば、報酬系(特に側坐核:nucleus accumbens)において、グルタミン酸作動性のニューロンが過敏化しているはず
→ しかし、実験データではそうした反応は見られなかった(むしろ“habituation”=慣れが起きていた)


ちなみに依存症における側坐核の役割としては、

側坐核は報酬の予測・モチベーションの形成に関わる中枢。依存症では、glutamate(興奮性神経伝達物質)がこの部位で過敏化し、cue(刺激)への強烈な欲求(craving)を生む。この神経変化は、薬物、ギャンブル、アルコール依存などで明確に確認されている。しかしPrauseらは、性刺激に対してこの“過敏化”が起きていないと報告している。