2025年7月25日金曜日

FNDの世界 6

 さてこのテーマについては、「脊椎脊髄ジャーナル」の2020年の特集号に、すでにわれらが野間俊一先生が緻密な論文をお書きになっている。それ以上のものを書ける気はしないし、またそのつもりもない。もう少し別の切り口から書いてみたいのだ。 野間俊一(2020)変換症の概念とその変遷.(脊椎脊髄ジャーナル 「心因性疾患(変換症/転換性障害;ヒステリー)の現在」に所収.178~182. さてFNDに関する精神医学の歴史をひも解く、ということだが、正式なタイトルは「FNDの歴史‐精神科的な側面から」というものである。つまりは神経内科的な側面から、という章ではない。しかしそもそも純粋に精神科的な見地というものは考えにくい。昔から精神科と神経内科 (neurology、最近では脳神経内科という表現が一般的) は混然一体になっていたからである。 ちょうどヒステリーについて現代的な医学の立場から唱え始めたシャルコーは神経学者だし、それを引き継いだフロイトやジャネは精神科医だったが、フロイトも元々は神経解剖学者だったという風に。そういえば病理学者(解剖をして顕微鏡で調べる学者)と臨床医の区別も漠然としていた。 そこでそれらの点を鑑みながら「精神医学的な視点」からFNDを論じるという場合、次に問題なのは、シャルコーやフロイト以前に「精神医学」なるものが存在したのか、という問題がある。よく知られているように、ヒステリーは子宮遊走によるという説が、ギリシャ時代からあったとされるが、これは「精神医学」あるいはそもそも学問なのか、ということが問題とされるであろう。これは「精神医学」もどき、と言わざるを得ないだろう。そのことにも気を付けながら書くことになる。 FNDの歴史ということになるが、実は精神医学ではその歴史は浅い。というよりFNDという概念はつい最近まで存在しなかった。もちろんそれに相当する病態は古今東西存在していた。しかしそれはFNDとしては認識されていなかった。 ここでFNDのAIによる定義は以下のものである。「神経系の機能的な問題によって、運動、感覚、認知機能などに症状が現れる疾患。脳や神経の器質的な損傷や病気がないにも関わらず、神経系の情報伝達に誤作動が生じること。」でも昔のFNDの患者は、器質的な問題がないとは必ずしも思われていなかった。シャルコー以前は、上述のように子宮の遊走のせいだと思われ、シャルコーはヒステリーには神経系のどこかに必ず目に見えるような異常があるはずだ、と確信していた。その意味ではFNDは最近まで「存在しなかった」ともいえる。

↑ これでは完全にエッセイである。これではいつ本題について書き始めることになるか分からない ‥‥。