2024年10月6日日曜日

精神分析とトラウマ 2

 なぜトラウマと解離が関連付けられるのか?そしてどうして精神分析に解離という話が出てこなかったか、という問題である。これはとても難しい問題だが、論じるに十分な価値ある。ひとことで言えば、トラウマ状況では、しばしば解離という心の仕組みが作動するからである。しかしそれは心が一時的に機能停止の状態になることであり、この現象についてフロイトはあまり論じたくなかったのだ。フロイトにとっての心は常に一定の原則に従って機能するものであると考えたからだ。 ではこの解離とはどういうことか、であるが、人間は苦痛な体験の際に心の痛みを体験し、それは落ち込みや不安だったりする。あるいは起きたことが頭を離れなかったりするだろう。身体的なトラウマの後に強い痛みや苦痛を体験するのと同じである。しかしそれが一定のレベル以上になると、この解離が生じてその苦しみから一時的に救ってくれる。ちょうど体のトラウマの際に脳内に麻薬物質が出て痛みを麻痺させてくれるように、である。

意識のスプリッティング


トラウマと解離について論じるためには、20世紀の初めに精神医学を席巻していたある重要なテーマにさかのぼる。それはヒステリーの患者に見られる意識のスプリッティングという問題であった。フロイトがそもそもヒステリーという現象に注目して、そこで起きる不思議な現象をいかに理解するかについての考察が精神分析を生んだということはご存じであろう。

解離を切り捨てるというフロイトの方針は、ブロイラーとの決別という形で生じた。

二人に共通していたのはアンナOというケースだった。彼女は様々な身体症状とともに異なる意識状態を呈していた。これは二人にとって謎だった。そしてこれは意識がスプリッティングを起こしているのだろう、というところまでは一致した。ただしそこからは意見が食い違ったのだ。

いわゆる暫定報告という論文で、彼らはこう言った。我々が発見したのは、誘因となる不快な出来事を完全に想起させ、それに伴う情動を呼び起こすことに成功し、その情動に言葉を与えたならば、ヒステリー症状は直ちに消失し、二度と回帰しなかった。」

不快な出来事は二つのプロセスで心に押し込まれていた。

1.意識の解離つまり類催眠状態における二重意識により生じた。

2.それが生じない場合には不快なことを思い出さないように防衛的に抑圧した。



2024年10月5日土曜日

統合論と「解離能」推敲1

 DIDにおける統合とは何か。実はこの統合という言葉の定義は曖昧だが、かつてはこれがDIDの治療において目指すべきものかについては、確かなことである。しかしおそらく人の心理的な機能は正常な統合 normal integration を有しているというのがその発端であろう。すると解離はその反対すなわち統合integration  ⇔ disintegration 解体=dissociation 解離 となる。そしてその治癒はすなわち正常な統合の回復、ということになろう。このことは例えばDSM-5-TRによる解離の定義にも表現されている。「解離症群の特徴は、意識、記憶、同一性、情動、知覚、身体表象、運動制御、行動の正常な統合における破綻および/または不連続である。」 このことは理屈としてはわかるが、同じロジックをDIDに当てはめることには問題があろう。DIDにおいて何処がこの定義に当てはまるかと言えば、しいて言えば、「同一性の正常な統合における破綻および/または不連続」ということになるだろうが、例えば人格Aと人格Bはそれぞれこの統合は達成できていることが多い。つまり正確にはこの定義を満たしているわけではないと私は考える。問題は統合体が複数、それも不連続的に存在するということである。 この問題については私はかつてある成書に交代人格は自我障害を有しているか、というテーマで書いたことがあるが、実際に各人格は「正常」であることが多い。 しかしそれにもかかわらずDIDにおいても統合が成立していないことが問題で、すなわち治療とは正常な統合に至ることだというロジックがかなり長い間受け継がれてきたのであろう。

2024年10月4日金曜日

統合論と「解離能」25 

 この論文で Rory Fleming Richardson は、心の機能を病的なものとしてしか見ないのは間違いであると指摘する。そして解離もそれに類するものだという。そして私たちが情緒的に耐えがたい体験をする際に、解離が緩衝材 buffer となることは、それにより今すべきことをするためには重要な働きであるという。 ところでRichardsonはp.208あたりで統合を薦めないいくつかの理由を挙げているのが興味深い。 1.ある特殊な能力を持ち高度の機能を果たしていた人格にアクセスできなくなる可能性。 2.患者が再び孤独になる可能性。 3.何時もそこにいなくてはならなくなる可能性。

これってすごくないか? なかなかここまでは書けないものである。でも解離を肯定的に見るならばまさにそういうことにもなろう。
そしてp.209あたりでさらに過激になっている。治療の目標は解離を絶やさないことだ。解離は必要であり、緊急の際に自らを離脱させるために必要なのだという。さらには自らの立場から離れて他者に共感することもできない、という。相手の立場をとる、ということが一種の解離だという論法である。

実はこの部分を書いていて私は新たな認識を得たという気がする。よくあるトラウマの際に人格が分かれる break off という表現を見かけるが(この Richardson 先生も同様である)、私はこれまでその考え方に抵抗があった。いかにも人格=断片、パーツ、というニュアンスを持ったからだ。しかしそれが人格の成立に関わる可能性は少なくないのではないか。つまり break off した部分は、次の瞬間からすぐに自律性を獲得するのである。それは複雑系の基本的な性質なのだ。たとえば切り出した心臓を幾つかに分解したら、それぞれが独自のリズムの拍動を開始するという事情と同じである。むしろ自律性を失うのは、他の部分との連結が生じている時である。左右脳のことを考えると、それぞれが自律性を獲得するのは脳梁が離断されたときである。  


2024年10月3日木曜日

統合論と「解離能」24 

私はいわゆる内在性解離という概念がよくわからないが、しかしその概念は便利だと思う。何しろ角回の刺激やPCP(エンジェルダスト)の使用で体外離脱体験のようなものが生じるというのである。要するに私たちの脳内にそのような神経回路がビルトインされている可能性があるのだ。しかもそれはもう一つの主体(眼差す主体)である。私はいろいろなところで、解離とはもう一つの中心が成立した状態だという言い方をしたが、例えば歌手が声が出ないときに、それを操っているのはこのもう一つの主体というわけだ。この二つ(あるいはそれ以上)の存在が様々な混乱をもたらすが、これは例えばシングルコアのコンピューターに、あとからいくつものCPUが加わることによって「マルチコア」になったものの、混乱が生じてしまっている状態という感じではないか。もちろん普通のPCではそのようなことはないのだが、人間の場合にそれが起きてしまう。とすれば解離はもう障害以前の能力ということにはならないだろうか。ただこの能力が使いきれなくなって障害となるというわけである。 例えば黒幕人格さんの感情の暴発を考えよう。これはその人の現在の生活にとって様々な問題となりかねない。しかしそれはもともと過去の虐待的な状況の中で、相手に対して正当防衛的に発揮されるべきものであったと考えるならば、その存在自体は必然だったといえる。そして虐待的な状況でそれが発現しないことでそれを生き延びることができたのである。いわばつけが回ってきたにもかかわらず、それが障害として扱われてしまう。このように考えるとまさにこの論文の題名のように、解離は 「function 機能であり、かつ dysfunction 機能不全でもある」ものなのだ。

2024年10月2日水曜日

統合論と「解離能」23 

ともかくもRichardson RF.Dissociation: The functional dysfunction. J Neurol Stroke. 2019;9(4):207-210.を読み直す。 この論文の抄録に書かれたこと(21回目にすでに記載)を繰り返す。もし現実のある側面が対応するにはあまりに苦痛な場合に私たちの心は何をするのだろうか。苦痛に対する自然な反応と同様、私たちの心理的なメカニズムは深刻な情緒的なトラウマから守ってくれる。私達の心にとって解離はその一つのメカニズムだ。それは機能を奪いかねない情緒的な苦痛を体験することなく日常で機能を継続することを可能にしてくれるのだ。 人間、あるいは生命体に備わった一種のブレイカーのようなものと考えられるだろうか。電気を使い過ぎるとトイレの近くのパネルの中でカタッと下りる、あれだ。動物レベルでも生じるがその時は体の動きを止めることで、いわゆる擬死反応とも呼ばれる。それにより天敵に襲われることを防ぐという意味があるのであろう。しかしそれならシンプルに気を失うか、あるいはフリージングすればいいのであり、体外離脱のような複雑なメカニズムを必要とするのか、と思う。ただし考えてみれば擬死反応はそれを客観的に見ている部分を伴うならば、そこで冷静な判断を下すことが出来るため、単なるフリージングよりは生存の確立が上がるだろう。 私が興味があるのは、解離した自分とされた自分、つまり柴山先生のいう「存在する自分」と「まなざす自分」が出会うことで生まれる何かだ。両者の融合や統合ではなく、邂逅(かいこう)することで生まれる変化。この辺りは野口五郎のエピソードにかなり影響を受けている。何かのストレスが働き、体のブレイカーが勝手に下り、それが解除されるというプロセスである。

2024年10月1日火曜日

精神分析とトラウマ 1

  富樫公一編、監訳、C.B.ストロジャー (著), D.ブラザーズ (著), & 3 その他

(2019)トラウマと倫理―精神分析と哲学の対話から.岩崎学術出版社


この本の前書きにも書いたことがあるが、精神分析の世界は、いつの時代にも二つの立場に分かれる傾向にある。患者の心の探究に向かうのか、それとも患者の苦悩に向き合うのか、という立場である。最初はフロイトの中では両者は異なるものではなかった。無意識に抑圧された願望が症状を生むのであり、それを知ることは症状の軽減につながるからだ。ところが無意識の探求はかならずしも症状の軽減につながらず、時にはより苦しみを増すことになった。それは無意識の探求の仕方がまだ十分でないからであり、徹底操作durcharbeiten が必要だと考えたあたりから、心の探求としての精神分析が始まった。そして症状軽減は歓迎すべき副作用だということが生まれた。以前に私はこんなことを書いた。

よく知られることだが、フロイトは多くの治療原則を設けた。それらには禁欲規則、自由連想、受け身性、匿名性等があげられよう。そして解釈の重要性を「金」と呼び、それ以外の治療手段を「混ぜ物(合金)」と呼び、後者に大きな価値下げを行った。それ以来精神分析理論を行うものにとっては、この規則を遵守することが正しいことと考えられた。症状の改善や行動の変化は、いわば歓迎すべき副作用ではあっても、治療の本質とは関係がないとされたのである。」

 このようなフロイトを突き動かしたのは何かと考えると、それは真実の探求への情熱であったということである。そしてもう一つ言えば、真実がそこにあるという確信を彼は持っていたということになるであろう。そして同時にフロイトのパーソナリティは、どことなく人に冷たく、無関心な面があった。ルー・ザロメに、自分のもっともよくない側面は、人間が無価値に見えるということだと言ったが、それは恐らく患者にも向けられていた可能性がある。