以上ポールセンの理論を検討したが、それに対する私の立場は明白である。それは恐らくその引用にかかれたような形でセッションを進めることは自分には出来ないだろうということだ。たとえばポールセンは人格に「~と一緒になりたいか?統合されたいか?」と尋ねる。しかし私にはあまりその発想は持たないであろう。いかにもこちらの進みたい方向に誘導しているという印象を受ける。
上の例ではもう少し具体的に述べるならば、それまで子供のパーツを世話していたポニーという人格が、もうその存在意味がなくなったので、統合が提案されたという。しかしここでポニーに対して取り立てて統合することを提案する必要は果たしてあるのであろうか。存在意味を失ったポニーはおそらくあまり出なくなり、休眠することになるだろうし、それはそれで任せればよいのではないか。
またポニーが世話をしていた子供たちは、それぞれがBASK処理が終わって大人しくなったというが、それぞれがトラウマ処理をしたということになる。しかしそれだけでも膨大な時間がかかったのではないだろうか。それともEMDRで比較的簡便にそれが済んだのだろうか?
ポールセンの論述では、それぞれの人格の確認 → EMDRによるトラウマ処理 → 人格の統合という風に進んでいくのであろうが、あまりに簡便に書かれている気がする。トラウマの処理とはそれほど迅速に進んでいくのであろうか?とてもそうは思えない。特に診断としてCPTSDが考えられるようなケースでは、過去のトラウマに触れるだけでも長い治療関係の構築が必要になってくる。
繰り返しになるが、ポールセンの記述する患者についてはトラウマの処理があまりに段取りよく、短期間でなされているという印象を受ける。実際のトラウマはかなり複雑で、短期間に処理できるようなものではないことが多い。ポールセンの議論では、統合は全てのトラウマ処理が終わってから行なう、という印象を受けるが、そもそもそれぞれの人格が分離している必要が無くなってから統合を目指すとなると、それははるかに遠い先の話になるだろう。しかし過去のトラウマが大方処理されたのちにはそれぞれを背負っていた人格の出現自体も減ってきて、事実上の統合(実は多くの人格が寝静まった後)に過ぎないのであろうか。でもこれも私の彼女の理論の理解が浅いからかもしれない。
ポールセンの手法と類似していると思われるUSPTを比べてみる。少なくともUSPTは統合をメインに考えていたことになる。統合によりうっ滞していた記憶や情動が流れ出す、というロジックだ。それに比べてポールセンの自我状態療法では解離している根拠をなくしてから(すなわちトラウマ処理をしてから)統合を行なうという手順になり、統合を最終目標においているとはいえ、それまでの過程を重視しているというニュアンスがありそうだ。
ポールセンの言う「自我状態」は自己のパーツ同士の仕切りがそれほど強固でない時に呼ぶという(p.34)。もっと明確な健忘障壁を備えるようになると、「交代人格」となる。ということは自我状態はUSPTでいうところの内在性の解離状態に近いということが出来るであろうか。そしてポールセンにはこの障壁のことがよく出てくる。「障壁を取り払うこと=融合」という考え方が目立つ。