2024年10月23日水曜日

統合論と「解離能」推敲 5

実はこの文脈化の話、私には今一つピンとこないのだが、こと統合か、否か、という問題については、Howell はかなり本音を語っている。「だいたい、integration という語やその背後にある概念が問題だ。ラテン語の integer は単位とか単体 unit or unity であり、統合という概念はワンパーソン心理学の概念なのだ。」(143). 関係論的な立場の人にとっては、一人心理学といわれると「終わっ」ているといわているようなものなのだ。  そしておそらく一番大事な文章。「文脈的な相互依存 contextual interdependence という概念により、解離対統一という対立項を回避することができる」(143)。ここまで読めば、Howell 先生は統合否定論者だといっていいだろう。 ところで統合を重視する立場は、解離能の話とは逆行していると言える。最初は分裂しているのが人の心だとすれば、解離とは「元に戻る」ないしは「先に進めないでいる」ことを意味するし、治療の目標は当然ながらこの解離の克服による統合ということになる。 しかしこれは解離の最も不思議な現象である人格の創出、出現という問題を解決することにはならない。これは当たり前の話であるが、解離というのはもともと最初から分かれているものがくっつかない、という問題では決してない。最初あったのもが別れる、あるいは最初あったものの他に出来る、という現象である。そしてそれが解離能の概念につながる。この議論はだから解離する能力、すなわち「解離能」という概念に逆向しているといえる。 さて私はこの発達論的な統合論については今のところ賛成していないが、実は我らが Winnicott はこの理論に似た理論を提唱している。Winnicott は最初は断片的だった自己が統合されていくプロセスを確かに論じているのだ。その意味でPutnam 先生の分散行動モデルDBSに近いといえる。しかしこんな言い方をしているのだ。 「私の考えでは、自己self (自我 ego ではなく)は、私自身であり、その全体性は発達プロセスにおける操作を基礎とする全体性を有している。しかし同時に自己は部分を有し、実はそれらの部分により構成されているのだ。それらの部分は発達プロセスにおける操作により内側から外側へという方向で凝集していくが、それは抱えて扱ってくれる人間の環境により助けられなくてはならない(特に最初において最大限に、である。)」(Abram, .313)  Abram はWinnicott のこの理論について解説を加え、このプロセスは母親による発達促進的な環境 facilitating environment により成し遂げられ、そうでないと母親との迎合による模造自己 imitation self が出来上がるばかりであるという。つまり偽りの自己のことだ。