6.サンドラ・ポールセンの理論
サンドラ・ポールセン著、新井陽子・岡田太陽監修、黒川由美訳 (2012)トラウマと解離症状の治療 EMDRを活用した新しい自我状態療法 東京書籍 を紐解いてみる。ポールセンは統合のことをどう考えているのだろうか?
ポールセンが第1章で断っていることに私は早速かみつきたくなる。「交代人格は人間ではなく、一人の人物のパーツです」とある。ここで彼女は当たり前のことを言っている。「人格はクライエントの分身ではありません。それぞれがクライエントの一部(パーツ)なのです。」(p.21) そしてわかりやすい例として、「私が思い浮かべる母親は私の心の中にだけいて、現実の母親とは違う」という。そして「これは非常に単純で明白な事のように思われますが、内的影響と外的影響の間の区別があいまいになってしまうことこそ、多くの病的な症状や治療の行き詰まりの根本的原因であるのです。」(p.21)と述べる。
ポールセンのこの文章を読む限り、おそらく統合は目標とされていないだろうと思える。各人格を「パーツ」と見なすことで、最終的には統合されて初めて一人前という想定は見えていることにもなろう。パーツであるとしたら「それぞれ喧嘩をするな、協調せよ」という方向に議論が進んで行きそうだ。しかしパーツが「一人前」でない以上、どの人格が選ばれても十分な人間とは見なせないことになる。それともたくさんの人格の中で一人一人前になるべき人物を想定するのだろうか?それは基本人格のことだろうか? しかし基本人格は眠っている場合が少なくないのだ。そこで当然浮かぶ疑問は以下のものだ。「もしパーツ同士の協調を考えるとしても、その全体としての存在をどのように扱うのか?」別の言い方をすれば、やはり統合された一段階高次の人格を想定するのだろうか?
しかしそれはDIDという概念をある意味では否定することにはならないであろうか?なぜならDIDの定義としては、複数の人格の存在を想定することであり、そこに「主ー従」ないしは「全体—部分」を想定はしていないからだ。
ということで読み進めていくと、なんと、「統合」という章が出てくる。それを要約しよう。
そもそもEMDRは本質的に統合を促すものであるという。「クライエントがEMDRを受けると、それまで分断されて未処理だった一連の神経系統の集まりが統合されていきます。」(p.249)「EMDRやそのほかの結合に向けた治療を進めれば、おのずとパーツ同士の<統合>が生じます。葛藤が解決され、トラウマ題材のBASK要素が処理されて、それぞれの要素が結合的に”縫い合わされる”につれ、解離障壁は薄くなるか消失していき、クライエントの明瞭な知識として蓄積されることになります。」(p.249)「自然に融合されてはいないけれども、治療初期に比べれば、もはや構造面や機能面でさほど明確に区別されていない交代人格の断片のことを、私は”破片”と呼んでいます。”破片”は取り立てて分離したがっているわけではないので、統合するのは難しくありません。こうした簡単な<統合>はこの後事例1で説明します。」(p.249)。
いろいろ反発を覚えながら読み進める。この事例1で、治療者はこんなことをする。
「ポニー自身はもう分離した人格でいる必要はないと感じていて、キムと統合されたがっていることが分かった。キムも賛成だと言った。その後解離障壁を残しておいた方がよいと思われるようなトラウマ記憶が残っていないか入念に確認してから、両側性刺激を行なって、残った解離障壁を取り除くことになった。キムとポニーの準備が出来ると、私は「キムとポニーが自分の目を通して外界を見ています、壁が崩れます、壁が崩れるよ‥・・・」と言いながら、両側性刺激を何セットか行った。『どうですか?』と私が尋ねると、キムは『変な気分です、両手がピリピリしています。』と答えた。『その感覚に注目していてください』と私は言い、そのままもう何セットか両側性刺激を続け、確認に入った。『ポニー?』するとキムは『ポニーはもう分離していません。私の中にいます』と返事をして笑った。それは私が知っているポニーの笑い方と同じだったが、それも今やキムの特徴として統合されたのだ。」ちょっと長い引用になったが、これから何を考えることが出来るだろうか?私は「え、そんなに簡単にできるの?」という反応である。この引用の前に、キムの中にいた多くの子供のパーツがかなり少なくなったということに気が付いた、とある。「色々なパーツが抱えていたBASK要素の処理が済んで自己に吸収されたので、子供のパーツはキム本人から解離している必要がなくなったのだ。」うーむ。