2024年10月2日水曜日

統合論と「解離能」23 

ともかくもRichardson RF.Dissociation: The functional dysfunction. J Neurol Stroke. 2019;9(4):207-210.を読み直す。 この論文の抄録に書かれたこと(21回目にすでに記載)を繰り返す。もし現実のある側面が対応するにはあまりに苦痛な場合に私たちの心は何をするのだろうか。苦痛に対する自然な反応と同様、私たちの心理的なメカニズムは深刻な情緒的なトラウマから守ってくれる。私達の心にとって解離はその一つのメカニズムだ。それは機能を奪いかねない情緒的な苦痛を体験することなく日常で機能を継続することを可能にしてくれるのだ。 人間、あるいは生命体に備わった一種のブレイカーのようなものと考えられるだろうか。電気を使い過ぎるとトイレの近くのパネルの中でカタッと下りる、あれだ。動物レベルでも生じるがその時は体の動きを止めることで、いわゆる擬死反応とも呼ばれる。それにより天敵に襲われることを防ぐという意味があるのであろう。しかしそれならシンプルに気を失うか、あるいはフリージングすればいいのであり、体外離脱のような複雑なメカニズムを必要とするのか、と思う。ただし考えてみれば擬死反応はそれを客観的に見ている部分を伴うならば、そこで冷静な判断を下すことが出来るため、単なるフリージングよりは生存の確立が上がるだろう。 私が興味があるのは、解離した自分とされた自分、つまり柴山先生のいう「存在する自分」と「まなざす自分」が出会うことで生まれる何かだ。両者の融合や統合ではなく、邂逅(かいこう)することで生まれる変化。この辺りは野口五郎のエピソードにかなり影響を受けている。何かのストレスが働き、体のブレイカーが勝手に下り、それが解除されるというプロセスである。