2013年10月28日月曜日

エナクトメントについて考える(5)

 エナクトメント、もう少し頑張ろう。実は最近精神分析で最も権威のある専門誌に載ったエナクトメントの論文が掲載されたのでそれを読んでみようと思う。そう、こういうことでもしないと絶対に自分からは読まないからだ。Towards a better use of psychoanalytic concepts:
A model illustrated using the concept of enactment* Werner Bohleber, Peter Fonagy, Juan Pablo Jim6nez, et al.( Int J Psychoanal (2013) 94:501 -530) 読者はまたさらに遠くにほったらかしである。
 この論文は現在の精神分析で様々な理論が提出されているが、それらに共通したなにかを追及する目的で書かれ、そこでテーマとして選ばれたのがこのエナクトメントなのだ。この四半世紀になって注目を浴びるようになったと紹介されているこのエナクトメントの概念は、やはり現代的な精神分析を論じるうえで何かのカギを握っているということか。そこでエナクトメントを扱った主要論文を参照してみるという。Steiner (2000, 2006); Jacobs (1986,2001), Mclaughlin (1991), Mclaughlin and Johan (1992) and Chused (1991, 2003); Goldberg (2002);, Hirsch (1998), Levenson (2006) and Benjamin (2009).などなど・・・・。(← 字数稼ぎか?)
そもそもエナクトメント enactment の由来は、acting out, action などの用語であり、フロイトがどらの症例のエピローグで導入したagieren というドイツ語である。昔これを「アジーレン」と発音して、故・小此木啓吾先生に、「アギーレンだよ」と直してもらったな。(ラテン語の動詞 'agere' to do という意味である.)これはストレーチーによりacting out という英訳を与えられた。実はエナクトメントの議論の前には、このアクティングアウトに関する長い議論があったのだ。これは治療にとってどのような意味を持つのか?だいたいにおいて、アクティングアウトは悪者であった。治療を妨げるもの、という意味である。なぜなら精神分析には、「想起してワークスルーする」という命題があり、アクティングアウトはそれとは真逆だからだ。フロイトの非常に知られた命題である、「人は思い出す代わりに反復する」(早期、反復、徹底操作)を考えればわかるであろう。でも本当だろうか?アクティングアウトはことごとく想起され、理解され、解釈を与えられるべきであろうか?そもそも人間のやることなすことを完全に理解し、解釈することなどできるだろうか?

ここまで述べたら、エナクトメントの意義が少し明確になるのではないだろうか? アクティングアウトが悪者である、という伝統的な精神分析が有していた理想主義的な見方に対する反省が、このエナクトメントの概念には込められていたわけである。