2013年10月31日木曜日

エナクトメントについて考える(8)

こんな夢を見た。新聞の一面に、「某大学教授、逮捕される。●月●日、東京都文京区に住む自称大学教授(自称精神科医)は
以下略。


分析家の主観性について

エナクトメントの議論にはいくつかの了解事項があるという。そのひとつは、それが主として分析家の主観がいかに反映されているかについての議論であるということだ。言い忘れたかと思うが、この論文はエナクトメントを主として治療者のそれに限定してい議論を進めているという断り書きもある。すでに書いたことだが、患者の言葉は全部エナクトメントと考えたっていい。それについての「深読み」「深読み」をすることが治療の前提というところがある。患者の言動がその無意識を反映しないほどに整合的で理屈にかなったものだとしたら、治療など必要がないことになる。問題は治療者の側の言動もエナクトメントとしてとらえることに意味があるという考えだ。
 治療者が自分たちの主観的な態度や裏に潜む無意識を知られ、探られる…・。確かにエナクトメントは分析家たちにとってキケンな議論である。その上関係論者はそこから一歩進んで、だからこそ治療者は分析の重要な時期に差し掛かったら、自分の反応も開示すべきだという、とこの論文には書かれている(p. 521)。えっ、そこまで行くか。関係性理論は進んでいるなあ。
 それに関連して、ベンジャミンの「moral third」という概念が紹介されている。オクデンの有名な the analytic third (精神分析における第3主体?)に類する概念であろうが、それは分析的な態度が破綻した時にも治療者を救うものであるという。そこでは治療者が自分の誤りを認めることも重要な機能として含まれるのだ。
 スタイナーもジェイコブスも(ということは英国学派も米国学派も、といっていいだろう)分析家の無意識的な葛藤に「引っかかる hook on」と主張している。そういうことだな。しばしば患者の側からの投影性同一化などのプレッシャーによりそれが刺激され、「ナルシシズムのバランスが崩れて」エナクトメントが生じるという。
この最後のナルシシズムのバランスが崩れて、というのは良いな。というのも分析家が一番弱みを見せるのは、自分の自己愛が刺激された場合であることはほぼ間違いのないことであるからだ。