2013年10月26日土曜日

エナクトメントについて考える(3)

例の裁断機の刃は、あっという間に研磨され、今日にも送られてくるという。裁断機の刃の研磨が一両日中にメール便で済んでしまうというこの国。(「研磨ワン」さん、拍手!!)しかも刃を取り出すための設計図もパソコンでダウンロードし、必要な工具(10ミリ、13ミリのスパナ)もアマゾンで注文しているのである。便利な世の中になったものだ。私が面倒くさがりなだけか?

何でもかんでもエナクトメントという議論
私が出した極めてシンプルな例は、そこにより何か臨床的な意味や洞察を含ませることを意図したものではない。このような会話が生じた臨床状況によっては様々な意味合いを持ちうるが、このように抽出した場合にはいかようにも可能性を考えることが出来るような例である。治療者の、「忘年会のためにセッションをキャンセルすることに、後ろめたさを感じているんですね。」という言葉にはさまざまな思考や感情がその背後に考えうるが、そのことを教えてくれるのが、エナクトメントという概念なのだ。この言葉が「意識化されていない心的内容が言動により表現されることを指す」というエナクトメントの定義を満たすかどうかを考えてみるだけで、そこにたくさんの可能性が広がっていることがわかる。そしてこの言葉に何がエナクトされているかを一つに絞る必要はないのだ。というより一つに絞れないことが臨床的な現実の多様性や不可知性を物語っているのである。
 このようなエナクトメントの概念の性質上、当然ながらこの概念は不要である、という見解が出てくる。「どのような治療者や患者の言動も、結局は何か意識化されていないものの表現である。あえて言うならば、何でもエナクトメントになってしまうのではないか。」
これは全くまっとうの議論なのである。実は私たちの言動の中で、意識化されていない心的内容が表現されていないものなど考えられないと言っていい。たとえばある言葉が、全く頭で考えたとおりに、つまり思考と少しのずれもなく口から出たとしよう。これは一見エナクトメントではないように思える。しかし思考そのものがすでにエナクトメントだったら?つまり考えた内容が、自分が気がつかない心の動きに左右されていたら?ってか、それが他の意識化された思考によって導かれたような思考ってあるんか? 

たとえば「今日は久しぶりに晴れて気持ちがいいな。」と思ったとしよう。この思考は外を歩いていて空を何気なく見上げたときに、浮かんできたものだ。ではなぜその思考が生まれたのか。おそらくさまざまな理由がその背景にある。たとえばこの思考は、たとえば仕事がうまく行っていて気分がよかったことにより浮かんできたのかもしれない。あるいは台風続きで不快を覚えていたために、雲のない空を見た感動もそれだけ大きかったのかもしれない。しかしおそらくそれらは特に意識に明確な形で上ることはないであろう。思考とはたいていはそのように重層的に決定されて、なおかつたまたま生まれてくるものだ。いわば思考そのものが無意識の集積の上に浮かんでいるようなものであり、その意味ではことごとくエナクトメントなわけである。それでは行動はどうか。行動とはそれこそ思考を背景としたもの以外のものも含まれるのであるから、なおさらエナクトメントということになる。