2013年10月8日火曜日

「再固定化」概念の見直し(4)

ちなみに同様の例で、しかし「B県人」に相当する人がいない場合はどうだろう?「あ、この人いい人ね」ととりあえずはラベリングができる人がいないような場合だ。この人の例では「再固定化」はおそらく半永久的に生じない可能性がある。つまり「繋がる先」が存在しないからだ。もちろんそのような良い対象像をこれからコツコツと構築していくことが可能であるならば、話は別であるが、おそらく幼少時にその原型さえも創られていない場合には至難だろう。ただし人間は誰でも、よい対象を取り入れるポテンシャルをある程度は生まれながらにして持っていることも事実であろう。生まれてこのかた良い対象に全く出会わなかったというケースも稀であろうし、架空のよい対象、例えば童話やアニメの中にある良い対象を取り入れることも可能であることは、解離性の人たちが例として示すところである。治療者が良い対象のひな型になることで、患者の記憶の中に埋もれていた良い対象像群のイメージが活性化されていく、ということは可能であろう。そしてそれが「見直し(1)」で述べた2番目の例に相当する。
 では3番目の例、すなわち「昔のあまり思い出したくないこと」を想起した際にそれが再燃して、フラッシュバックや解離が頻発するようになったという例はどうであろうか?これはいわば逆方向の再固定化という風に概念付けられるのではないか?再固定化は原則的によりトラウマ性の少ない形で記憶が改変されるという場合であるが、逆の場合もあろう。こんな例もある。昔軽い交通事故にあい、打撲程度ですんで忘れていたことのある人が、別のトラウマを体験する。そのフラッシュバックに、昔の交通事故の思い出も重畳する形で見られたというケースである。あるいは再外傷体験という現象。性的トラウマなどで、取調べを受けることで余計その外傷性が増すというケースもよく聞く。