2024年6月7日金曜日

PDの臨床教育 その2

 どうしてもディメンジョナルモデルが分かった気がしない。そこでじっくり考えてみる。

性格特性は5つではややこしいので、アイゼンクが考えた3つ、すなわち神経症性、外向性、精神病性の3つを考える。神経症性、とは不安や抑うつなどの負の感情を抱く傾向であり、その反対は情緒安定性である。外向性は人と交わる傾向で、その反対は内向性だ。彼が後で加えた三つ目の精神病性とは自己中心で衝動的で反社会性、その反対は超自我的、である。

まとめると

情緒安定性 emotional stability ⇔ 神経症性 (否定的感情) neuroticism(negative affectivity) 

外向性 extraversion ⇔ 内向性(孤立傾向) introversion(detachment) 

超自我的(誠実性)superego(conscientious) ⇔ 精神病性(脱抑制的)psychoticism (hidinbition)


こうやって英語の表現を参照しながら書くと、これまでわかりにくかったビッグファイブの理論も何となくわかるから不思議だ。

ちなみにDSMでは以下の5つを選んでいる。


情緒安定性 ⇔ 神経症性(否定的感情) 

外向性 ⇔ 内向性(孤立傾向)

同調性 agreeableness ⇔ 対立 antagonism

脱抑制 disinhibition ⇔ 誠実性

精神病性 ⇔ 透明性 lucidity 


これでもわかりにくいのでもう少し砕けた表現をするなら、アイゼンクの3タイプは、

いつもニコニコ安定タイプ(⇔すぐ落ち込むタイプ)

友達付き合いのいいタイプ(⇔一人が好きなタイプ)

ルールを守るタイプ(⇔ルールを破るタイプ)


DSMの5タイプは

いつもニコニコ安定タイプ(⇔すぐ落ち込むタイプ)

友達付き合いのいいタイプ(⇔一人が好きなタイプ)

賛成するタイプ(⇔反対するタイプ)

衝動的なタイプ(⇔ルールを守るタイプ)

常識タイプ(奇妙な思考をするタイプ


2024年6月6日木曜日

「トラウマ本」コロナというトラウマを乗り越えて 加筆訂正部分 1

コロナというトラウマを乗り越えて

  •  今でも少し不思議な気がする。あの災厄は何だったろうか? あれは現実の話だったのか?それとも私たちはそこから本当に抜け出しているのだろうか?あるいは抜け出したという感じ方の方が幻想なのだろうか?またいつ何時、世界中の救急治療室に患者が殺到し始めていて、また新たな株が猛威を振るい始めているという報道を耳にするかわからないではないか? 

  •  あの災厄とはもちろん例のコロナ禍である。トラウマについての本をまとめるにあたり、このテーマについて書いてみることに私は大きな意義を感じている。

  •  私は本書の出版から3年以上前の2021年に、当時赴任していた京都大学教育学研究科のある出版物に以下のような文章を書いた。今から読み直すと結構臨場感に満ちているので再録をしよう。

  •   

  • コロナ禍における臨床を余儀なくされるようになってから久しい。すでに昨年の本誌の巻頭言において、西見奈子准教授は書いている。「今年がこのような年になるとは、だれが予想したであろうか?」そしてその予想しなかった状態は、一年経った今も継続しているのだ。この春から始まったワクチン接種が今後普及することにより将来に多少の明かりは見えているのかもしれない。しかしこの災厄の終息の目途はいまだに立っていないのだ。この間に私たちの心理臨床のあり方も様変わりしている。一年以上もこれまでのような対面のセッションを持つことができていないケースもあるかもしれない。
     このように新型コロナの蔓延は間違いなく私たちにとっての試練となっているが、試練は私たちから様々なものを奪うばかりではなく、新たな体験の機会も与えている。コロナの影響下にある私たちがどのように臨床を継続できるのか、どのように継続していくべきかという問題は、おそらく世界中のセラピストたちがこの一年半の間に直面し、そこから大きな学びの体験をも得ているはずだ。その結果としてセラピストの多くはそれぞれが創意工夫のもとに対応を行っているのである。
     

  •  今から思えば新型コロナの蔓延で大変な生活および仕事上の変更を迫られたことにある。何しろ世界各地で国際学会が2年あるいはそれ以上延期になり、私が毎年出席していた精神科や精神分析の年次大会がいきなりキャンセルになるような事態が生じたのだ。同じような緊急事態は戦時下でもない限り起きないのではないか、と考えたことを覚えている。

  •  心理士である私達の日常臨床を変えたものの一つが、電話、ないしオンラインによるセラピーの活用の可能性である。ソーシャルディスタンシングの重要性が強調される中で、セラピストとクライエントが面接室という密室の空間を共有することは、それ自体が感染のリスクを高めるのではないか、という懸念は、このコロナ禍が始まって当初に私たちが持ったものである。
     昨年(2019年)4月に初めて七都道府県に緊急事態宣言が出された折は、対面による面接を全面的に中止した相談室も多かったであろう。すると残された手段は電話ないしオンラインということになる。そして当面はセッションを持たないよりは、それらの代替手段を用いることを実践したセラピストも多く、その機会に改めてオンラインによるセッションの持つ意味を考え直すことになったはずだ

2024年6月5日水曜日

「トラウマ本」トラウマと心身疾患 加筆部分 3

 MUSの概念はどのように再構成されていくか?

 以上みたいくつかの例からわかる通り、MUSに分類されていた疾患の一部は、その医学的な所見が新たに見いだされたことで外されていくという運命をたどる。そのような例としてはME/CFS, FM, イップスなどをあげた。  またそれとは逆に、それまで身体疾患と思われていたものがMUSに再分類されることもある。その例としていわゆるPNES などが挙げられることになる。
  そのようにしてMUSという疾患群はいわば新陳代謝を続けるのだ。その様子を示した図を締めそう。言うまでもなくこれは先に示した図に該当項目を書き込んだものである。まさにこの概念は生き物ということが出来よう。そしておそらく遠い将来には、現在MUSに留まる様々な疾患に関して医学的な説明がつくようになることで、そこから抜けていき、MUSの全体集合自体が縮小していくであろう。
 しかしそれでもこのMUS自体が存在し続けるとしたら、それは私たちの持つ心身相関の問題、特に上に述べたように私達人間が「心気的存在」であり、心と体の症状の間の最前線は常に残されるからである。そしてその意味でこのMUSはこれからも存在し続け、同時に数多くの誤解を生み続けるのではないか。


 ただし私はこのMUSという概念に決して満足しているわけではない。それはMUSの有する曖昧さが、時には少なからぬ混乱を招きかねないからである。ある状態がMUSに属するべきかが、場合によっては医学的な理由のみならず文化的な事情、さらには政治的な議論にまで関係していることがある。その一つの例として、子宮頸がんワクチンの後遺症の問題をあげたい。
 以前国が接種を呼びかけた子宮頸癌ワクチンについて、その「後遺症」が大きな問題となったことは記憶に新しい。以下に日本産科婦人科学会のホームページ(https://www.jsog.or.jp/citizen/7118/)を参照しながらまとめてみよう。
 
厚生労働省は2009年にこのワクチンを承認し、翌年に公費助成を開始し、2013年4月には小学6年~高校1年の女子を定期接種対象とし、個別に案内を送って接種を促した。だがその結果として全身の痛みやしびれなどの健康被害の訴えが相次ぎ、同年6月に推奨を中止した。しかし9年経った後に2022年4月から奨励を再開したが、依然として摂取率は低迷しているとのことである。
 被害者による訴訟は2016年7月に東京、名古屋、大阪、福岡の各地裁に一斉提訴され、福岡など6県に住む22~29歳の女性26人が国と製薬企業2社に1人当たり1500万円の損害賠償を求めている。製薬会社側は「安全性は医学的、科学的に確立している」と請求棄却を求めている状態である。
 ここで私が述べたいのは、この子宮頸癌ワクチン接種後の健康被害と言われるものがMUSとして分類するべきか否か、という問題ではない。一見したところ、製薬会社はその「後遺症」といわれる症状自体が本来存在しないものとする一方、原告側はそれをワクチンによる現実の障害とする立場という構図と見なすことができる。
 しかしこの見解の対立はそのまま、この「後遺症」をMUSに分類するかどうかをめぐる対立と見なすことも出来るのだ。製薬会社はそもそも症状自体が医学的に説明できないという意味でMUSと捉えたいであろうし、原告側の立場からはそれはれっきとしたワクチンに由来する医学的な根拠を持った疾患と見なすという立場であろう。双方がこれをMUSに入れることに別々の立場から反対しているといえなくもないのだ。
 頸がんワクチンの「後遺症」がMUSに含まれるか否かの議論は実はきわめて複雑で、判断する人ごとに見解が別れる可能性がある。しかしこれを単なる見解の違いでは済まされないのは、おそらくこの判断が訴訟に極めて大きな影響を与えかねないからである。
 これが純粋な医学的な問題として実証されたならば、製薬会社や政府の責任は明らかであろう。しかしこれをMUSの一つとしてとらえた場合には、製薬会社や政府の責任は全くないと言えるのであろうか。この議論は極めて複雑にならざるを得ない。
 頸癌ワクチンで後遺症が起きるという(誤)情報が、そこに医学的な根拠がないにもかかわらず巷に蔓延していることを知りつつこのワクチンを推奨することは果たして許されるのか。言うまでもなくMUSは症状を有する(精神)疾患であるとするならば、それに苦しむ人々の苦痛もまたリアルなものである。製薬会社や国は、頸癌ワクチンを打たないことで生じる将来の子宮頸がんに罹患するリスクと、MUSによる苦しみを天秤にかけることになるだろうが、それらは簡単に数値で表されるような問題ではないのである。(← この部分、あまりに錯綜しすぎて、この数パラグラフは出版できずに実際には削除になるだろう。)


2024年6月4日火曜日

「トラウマ本」男性性とトラウマ 加筆部分

 男性の「性愛性」の持つ加害性について、なぜ男性が語らないのか?

  ここで男性の「性愛性」、という言い方をするが、私は実はsexuality を「性愛性」と訳すことには少し疑問がある。むしろ性の性質ということでそこに「愛」が含まれていないのであるから、「性性」と呼びたいところだが、そのような言葉はないので男性の性愛性という表現をこれ以降も用いていく。
 そこでまずは男性の性愛性についてあまり男性が語らないのはなぜかについて、幾つかの可能性を考えたい。
 それは男性自身が持つ恥や罪悪感のせいではないかと考える。そもそも男性の性愛性は恥に満ちていると感じる。それはどういうことか。
  男性は特に罪を犯さなくても、自らの性愛性を暴露されることで社会的信用を失うケースがきわめて多い。最近とある県の知事が女性との不倫の実態を、露骨なラインの文章と共に暴露されたという出来事があった。またある芸人は多目的トイレを用いて女性と性交渉をしたことが報じられて、芸人としての人生を中断したままになっている。これらの問題について男性が正面から扱うという事には様々な難しさが考えられる。
 彼らは違法行為を犯したというわけではないであろうし、そこで明らかな性加害を働いたというわけでもなさそうだ。しかしそれでも社会は彼らに何らかの形で制裁を加えることになるのである。
 このような問題が特に男性の性行動に関して生じやすいことについては、一つの事実が関係している。それはいわゆるパラフィリア(小児性愛、窃視症、露出症、フェティシズムなど)の罹患者が極端に男性に偏っているという事実である。
 パラフィリアはかつては昔倒錯 perversion と呼ばれていたものだが、その差別的なニュアンスの為に1980年代にパラフィリアに変更になったという経緯がある。確かに英語で「He is a pervert!」というと、「あいつはヘンタイ野郎だ!」というかなり否定的で差別的な意味合いが込められるのだ。
 パラフィリアはかつては性倒錯とも異常性欲とも呼ばれていたが、その定義はかなりあいまいである。むしろそれに属するものにより定義されるという所がある。それは盗視障害、露出障害、窃触障害、性的サディズム、性的マゾヒズム障害、フェティシズム障害、異性装障害(トランスベスティズム)、その他である。これらのリストからわかる通り、その性的満足が同意のない他者を巻き込んで達成する形を取る場合には、明らかに病的、ないし異常と言えるだろう。例えばそれは窃視症であり露出症である。相手がそれに臨んで同意している限りはそれは「覗き」とも「露出」とも呼ばれないはずだ。
 しかしこのパラフィリアは複雑な問題をはらんでいる。それは最近あれほど叫ばれている性の多様性に、このパラフィリアの話はほとんど関わっていないからである。もちろん窃視症や露出症が性的な多様性に含まれないことは理解が出来る。しかし例えばフェティシズムの中でも無生命のものに恋する人たち(いわゆる対物性愛 object sexuality, objectophilia)が差別的な扱いを受けるとしたら、それに十分な根拠はないのではないか。男性の性愛性が含み得るこれ等のパラフィア的な傾向が、それだけで病的とされるとしたら、それはそれで問題であろう。そもそも「覗き」や「露出」あるいは小児性愛をファンタジーのレベルにとどめて決して同意していない他者を巻き込まないとしたら、それも病的と言えるのであろうか?
 これらの問題に応える形で、DSM-5の診断基準には、重要な条件が掲げられている。すなわちその行為を「同意していない人に対して実行に移したことがあるか」、または「その行為が臨床的に意味のある苦痛、または社会的、職業的、またはほかの重要な領域における機能の障害を引き起こしているか」の条件を満たすことで初めて障害としてのパラフィリアが診断されるのである。
 しかしフェティシズムの様に生きている対象を含まない場合には、それを最初から精神障害のカテゴリーに入れることに正当な意味はあるのであろうか?
 いずれにせよ男性の性愛性にはそれが加害傾向を必然的に帯びてしまう種類のものが多い一つの理由として、このパラフィリアの問題を示したかったわけである。

「トラウマ本」トラウマと心身疾患 加筆部分 2

 いわゆる転換性障害 conversion disorder

 MUSの筆頭に挙げられるのは転換性障害である。ただし実はこの「転換性」という表現自体がもう過去のものとなりつつあるという点についてもここで述べなくてはならない。その意味でここでの見出しも「いわゆる転換性障害」という表現を取っているのである。そして後に述べるように、この転換性という概念と共に心因性という考えも見直されるようになったのである。
 そもそも従来から転換性障害と呼ばれていたものは随意運動、感覚、認知機能の正常な統合が不随意的に断絶することに伴う症状により特徴づけられる。ひとことで言えば、症状からは神経系の疾患を疑わせるような症状を示すものの、神経内科的な検査に裏付けられない様な病状を示す状態である。
 もともと「転換性」という概念は古くから存在していた。DSM-Ⅲ以前には「転換性ヒステリー」ないしは「ヒステリーの転換型」という用い方がなされていたのである。しかし2013年のDSM-5において、この名称の部分的な変更が行われた。すなわちDSM-5では「変換症/転換性障害(機能性神経症状症)」(原語ではconversion disorder (functional neurological symptom disorder ))となった。つまりカッコつきで「機能性神経症状症」という名前が登場したのである。
 さらに付け加えるならば、2022年に発表されたDSM-5のテキスト改訂版(DSM-5-TR)では、この病名がさらに「機能性神経症状症(変換症/転換性障害)」となった。つまり「機能性神経症状症が前面に出て「変換症/転換性障害の方が( )内にという逆転した立場に追いやられたのである。この様子で行けば、将来発刊されるであろう診断基準(DSM-6?)では転換性障害の名が消えて「機能性神経症状症」だけが残されるのはほぼ間違いないであろう。
 ところで同様の動きは2022年の ICD-11の最終案でも見られた。こちらでは転換性障害という名称は完全に消えて「解離性神経学的症状症 Dissociative neurological symptom disorder」という名称が採用された。これはDSMの機能性functional のかわりに解離性dissociative という形容詞が入れ替わった形となるが、それ以外はほぼ同様の名称と言っていいだろう。
 さてこの「転換性」という表現が消えて「神経症状症」になったことは非常に大きな意味を持っていた。まずこの名称はこれまで転換性障害として定義されたものを最も客観的に(そして味気なく)表現したものである。機能性、とは器質的な変化が伴わないものを意味し、また神経症状症とは、症状としては神経由来の(すなわち心、ないしは精神由来の、ではなく)症状をさす。つまり「神経学的な症状を示すが、そこに器質的な変化は見られない状態」を意味するのだ。
 ところでこの神経症状とは、神経症症状との区別が紛らわしいので注意を要する。後者の神経症症状とは神経症の症状という意味であり、不安神経症、強迫神経症などの神経症 neuross の症状という意味である。他方ここで問題にしている神経症状、とは神経(内科)学的 neurological な症状をさし、例えば手の震えや意識の混濁、健忘をさす。簡単に言えば症状からして神経内科を受診するような症状であり、具体的には知覚、感覚、随意運動などに表われる異常である。しかし上記の様にもともと転換性障害が対象とする症状はこれらの知覚、感覚、随意運動などに表われる異常であったから、神経症状症、と謳うことで転換性障害の症状はそのままカバーされることにはなるのだ。
 さて問題は転換性という用語が機能性に置き換わることになった意味である。そしてそれは「転換性」という言葉そのものについて問い直すという動きが切っ掛けとなっていた。その動きについて J.Stone の論文を参考に振り返ってみる。
 ほんらい転換性という用語はそもそもFeudの唱えたドイツ語の「転換 Konversion」(英語のconversion)に由来する。 Freudは鬱積したリビドーが身体の方に移されることで身体症状が生まれるという意味で、この転換という言葉を使った。
 ちなみにFreudが実際に用いたのは以下の表現である。「患者は、相容れない強力な表象を弱体化し、消し去るため、そこに「付着している(5) 興奮量全体すなわち情動をそこから奪い取る」(GW1: 63)。そしてその表象から切り離された興 奮量は別の利用へと回されるが、そこで興奮量の身体的なものへの「転換(Konversion)」が生 じると、ヒステリー症状が生まれるのである。
 さらにFreud は言った。「ヒステリーが、和解しない表象を無害なものにすることは、興奮全量を身体的なものに置き換えた結果としてできる(防衛―神経精神病、1894)」
 しかし問題はこの転換という機序自体が証明されてるわけではなく、転換性障害に心理的な要因 psychological factors は存在しない場合もあるのだ。心的葛藤が身体症状に転換されるという意味で用いられたが、それは仮説の一つに過ぎないのだとStone は主張する。

Jon Stone (2010) Issues for DSM-5: Conversion Disorder Am J Psychiatry 167:626-627.

 すなわちFreudの転換の概念を見直すことは、心因ということを考えることについての反省をも意味する。そしてそのような理由で、DSM-5においては、転換、心因性という考えが取り払われたのである。DSM-5における診断基準の特徴は、心因の存在、疾病利得を問わず、症状が意図的に制御できるかどうかについても問うていない。その意味でこれはかなり大きな概念上の変更ということになるのだ。

2024年6月3日月曜日

「トラウマ本」トラウマと心身疾患 加筆修正部分 1

 「MUS」はヒステリーの現代版か?

 本章ではトラウマと現代的な心身問題というテーマで論じる。
 まずは「MUS」という概念の話から始めよう。これは「 医学的に説明できない障害 medically unexplained disorder」の頭文字であるが、本章の以下の論述でもこのMUSという表現を用いたい。
 このMUSという疾患群は取り立てて新しい疾患とは言えない。というよりその言葉の定義からして医学が生まれた時から存在したはずである。そして常に悩ましい存在でもあった。それは現在においても同様である。そうしてMUSに分類される患者は概ね「心因性の不可解な身体症状を示す人々」として扱われることになるのだ。
 こう述べただけではMUSの意味するところがピンとこないかも知れないが、昔のヒステリーと同類だと考えていただきたい。すぐに「ハハー。あれか!」とピンとくる方が多いであろう。そしてこのMUSがトラウマとの関連で論じられやすいことについても何となくお分かりかと思う。
 MUSを「ヒステリーの現代版」と見なす上で、改めて「ヒステリーとは何か?」を考えてみよう。それは古代エジプト時代から存在し、20世紀の後半までは半ば医学的な概念として生きていた疾患であった。
 ここで「半ば医学的な概念」と表現をしたが、それはヒステリーは患者が自作自演で症状を生み出したもの、というニュアンスを有していたからである。つまりその症状は本人の心によって作られたようなところがあって、そこには疾病利得が存在するという考え方が支配的であった。つまりそれは病気であってそうでないようなもの、という中途半端な理解のされ方をしていたのである。そしてその意味では差別や偏見に満ちた概念がこのヒステリーであったのだ。
 幸いDSM-Ⅲ(1980)以降はヒステリーという名前が診断基準から消え、その多くの部分が解離性障害という疾患概念に掬い上げられた。そしてそのことにより差別という手垢がある程度は拭いとられる結果になったのである。
 ただしヒステリーというカテゴリーに含まれると考えられるのは解離性障害だけではない。そこには様々な身体症状を持った多くの患者が混在していたのだ。そしてそれらの患者は当時の医学的な診察や検査ではうまく説明がつかないという特徴を持っていた。
 もちろん医学は時代とともに進歩し、検査の技術も発展を遂げてきた。しかしまだ医学が未発達な時代にも、その症状の現れ方がその時々で変動したり、その訴えが実際の医学所見より誇張されていると感じられた場合に、このレッテルが貼られる傾向があった。またてんかんのようにその表れがドラマティックでコントロール不能な場合にも、脳波がない時代にはこのヒステリーに分類されていたのである。
  かつてヒステリーに分類されていた患者たちは、その後の医学の進歩により解離性障害やてんかんやそのほかの身体疾患として扱われるようになって行った。しかしそれでも医学的に説明できないケースが残され、それが文字通り「医学的に説明できない障害」すなわちMUSとして残されていることになる。そしてかつてヒステリーに対して向けられていた偏見は、実は現在のMUSにもある程度当てはまるのである。


2024年6月2日日曜日

「トラウマ本」トラウマと脳 加筆挿入部分

 トラウマと脳のマクロスコピックな変化

上記のPTSDにおける脳の機能の変化は、海馬や扁桃核、前頭前野などの特定の部位に関わっていたが、それに呼応するようなこれらの部位のマクロスコピックな変化についての新たな所見が報告されている。これらは最近のCTやMRIの解像度の上昇とも深く関係しているのである。  主として記憶を司る部位である海馬については、その容積の減少がうつ病や統合失調症やアルコール中毒にも多くみられることが知られているが、とりわけPTSDやストレスによるコルチゾールの影響との関連が報告されている。(Bonne, O., Brandes, D. et al. 2001)。  ただし最近の双子研究は、トラウマやPTSDを経験した双子の、これらを経験しなかった片割れにおいても海馬の容積が小さいことが見いだされ(Kremen, WS., Koenen, KC., et al,2012)、海馬の容積の小ささはトラウマの結果であると共に遺伝的な体質によるものでもあるという可能性が示されている(Kremen, WS, Koenen, KC. et al,2012)。すなわちトラウマが海馬の萎縮を生むという因果関係はまだ推論の域を出ていないとも言える。 海馬に加えて最近ではトラウマに関連した扁桃核の容積の減少も報告されている (Rajendra, A., Morey, R., Gold, AL., et al. 2012 )。扁桃核の容積と幼少時のトラウマとの関係はこれまで種々に指摘されてきた。最近でも人生の上での短期間のストレスがその容積の減少と関係しているという研究が報告されている (Sublette ME, Galfalvy HC, et al. (2016)。  さらにトラウマとの関連で注目されているのは、虐待を受けた子供で前頭前野や側頭葉の容積が低下しているという所見である(Gold, AL, Sheridan, MA., et al, 2016)。最近のメタアナリシスでは、虐待と腹側前頭前野、上側頭回、扁桃核、等の体積の減少が指摘されている。さらには虐待を受けた子供で、一次視覚野の容積の減少が見られるという報告もあり、それがワーキングメモリーの低下と関連しているとする研究もある (Tomoda A, Navalta CP et al 2009)。   ちなみに1990年代に神経幹細胞と新生神経細胞が成人の脳にも存在することが示されたが、それがトラウマやその治療による脳の容積の増減を説明する根拠になるかは不明である。むしろ脳の実質を占める神経細胞以外の部分、たとえばグリア細胞の関与もあろう。グリア細胞は神経細胞を支持し栄養を供給する以外にも、さまざまな働きをしているということが最近明らかにされている(Fields, 2009)。


2024年6月1日土曜日

「トラウマ本」男性のトラウマ性 加筆訂正部分 3

 男性は不感症という議論

 さてこの問題に関して、森岡正博氏の議論を少し紹介したい。森岡(2004)の「感じない男」はユニークな書であり、上に述べたような男性の性愛性について、結局それが男性の不感症のせいであるという結論に至っている。

 彼は男性にとっての性的興奮の高まりは、その行為が終わることで一挙に消えてしまい、その快感の程度は極めて低いという点を指摘する。つまり射精と共に男性の性的興奮は突然消失し、またその際の性的な快感も女性に比べればはるかに低いと主張する。
 それに比べて女性ははるかに強くまた継続的な快感を体験する。また男性の様にクライマックスに達した後に一挙に消え去るという事も生じない。男性はこのことに対して羨望の念を持つ。そしてこの羨望が男性の女性に対する攻撃性として表れることがある、とする。
 森岡の説は男性の側からその性的な体験について赤裸々に論じたという意味でも非常に画期的であるといえる。ただし私自身はこの理論に必ずしも賛意を向けられないところもある。特に男性の女性に対する羨望という点は、そのような気持ちを体験する人もいるかもしれないが、一般化は出来ないのではないかと思う。男性の性愛性の含む暴力性はさらに複雑な要素が絡んでいるように思えるのである。

ただし森岡の論点のある側面は、私が以下に述べる嗜癖モデルにも通じ、その意味では大いに参考すべき点も多いと考える。


2024年5月31日金曜日

「トラウマ本」男性のトラウマ性 加筆訂正部分 2

 男性の「性愛性」の持つ加害性について、なぜ男性が語らないのか?

  さてまずは男性の性愛性についてあまり男性が語らないのはなぜかについて、幾つかの可能性を考えたい。(ここで男性の持つ性愛性、という言い方をするが、本当は「男性の性性 male sexuality」とでも表現すべき問題である。しかしこのままの表現ではヤヤこしいので、このような表現のまま続ける。)
 それは男性自身が持つ恥や罪悪感のせいだろうか? そうかもしれない。そもそも男性の性愛性は恥に満ちていると感じる。それはどういうことか。
  男性は特に罪を犯さなくても、自らの性愛性を暴露されることで社会的信用を失うケースがきわめて多い。最近とある県の知事が女性との不倫の実態を、露骨なラインの文章と共に暴露されたという出来事があった。またある芸人は多目的トイレを用いて女性と性交渉をしたことが報じられて、芸人としての人生を中断したままになっている。これらの問題について男性が正面から扱うという事には様々な難しさが考えられる。
 彼らは違法行為を犯したというわけではないであろうし、そこで明らかな性加害を働いたというわけでもなさそうだ。しかしそれでも社会は彼らに何らかの形で制裁を加えることになるのである。
 このような問題が特に男性の性行動に関して生じやすいことについては、一つの事実が関係している。それはいわゆるパラフィリア(小児性愛、窃視症、露出症、フェティシズムなど)の罹患者が極端に男性に偏っているという事実である。パラフィリアはかつては昔倒錯 perversion と呼ばれていたものだが、その差別的なニュアンスの為に1980年代にそちらに変更になったという経緯がある。確かに英語で「He is a pervert!」というと、「あいつはヘンタイだ!」というかなり否定的で差別的な意味合いが込められるのだ。
 パラフィリア、つまり以前の倒錯は異常性欲とも呼ばれていたが、その定義はかなりあいまいであり、むしろそれに属するものにより定義されるという所がある。それは盗視障害、露出障害、窃触障害、性的サディズム、性的マゾヒズム障害、フェティシズム障害、異性装障害(トランスベスティズム)、その他である。これらのリストからわかる通り、その性的満足が同意のない他者を巻き込んで達成する形を取る場合には、明らかに病的、ないし異常と言えるだろう。例えばそれは窃視症であり露出症である。
 しかしこのパラフィリアは複雑な問題をはらんでいる。それは最近あれほど叫ばれている性の多様性に、このパラフィリアの話は一切関わっていないようだからである。もちろん窃視症や露出症が性的な多様性に含まれないことは理解が出来る。しかし例えばフェティシズムの中でも無生命のものに恋する人たち(いわゆる対物性愛 object sexuality, objectophilia)が差別的な扱いを受けるとしたら、それに十分な根拠はないのではないか。男性の性愛性が含み得るこれ等のパラフィリックな傾向が、それだけで病的とされるとしたら、それはそれで問題であろう。
 ただしDSM-5などによるこれらの診断には、重要な条件が掲げられている。すなわちその行為を「同意していない人に対して実行に移したことがあるか」、または「その行為が臨床的に意味のある苦痛、または社会的、職業的、またはほかの重要な領域における機能の障害を引き起こしている」かの条件を満たすことで初めて障害として診断されるのである。しかしフェティシズムの様に生きている対象を含まず、誰にも迷惑をかけないし、もちろん当人も困っていない場合に初めて疾患の定義から外れることになる。しかし自ら苦痛に感じているフェティシストなどいるのだろうか。
 いずれにせよ男性の性愛性にはそれが加害傾向を必然的に帯びてしまう種類のものが多いということをお示ししたかったわけである。

2024年5月30日木曜日

「トラウマ本」男性のトラウマ性 加筆訂正部分 1

  読者の皆さんは、この「トラウマと男性性」という章の出現に戸惑われるかもしれない。しかしそれが本章のテーマである。私は男性と自認しているが、社会において男性がいかに他者に対してトラウマを与えているかということについて、同じ男性目線から何が言えるのかについて、この際自分自身の考えを掘り下げてみたいのだ。

 まず問題意識としては、過去および現在の独裁者や小児性愛者や凶悪犯罪者およびサイコパスのほとんどが男性であるのはなぜか、という疑問がある。これほど明確な性差が見られる社会現象が他にあるだろうか。そしてそれについて男性自身による釈明は十分に行われていない気がする。これは大いに疑問だろう。

臨床上のなやみ 

 このテーマについて、私は一つの臨床上の問題を体験している。私は男性による性被害にあった女性の患者に会うことがとても多いが、その被害状況で実際に何が起きていたかについて患者と一緒に辿ることがある。もちろんそうすること自体が再外傷体験に繋がりかねないから十分な注意が必要だが、その中で一般論としての男性の加害的な性質が話題になることも少なくない。「一体男性はその様な状況でどうしてそのような言葉や行動をとったのだろうか?」ということについて検討するというわけである。そしてその際、男性の性のあり方についてどのように説明したらいいかについて常に悩むのである。説明の仕方によっては患者の心の傷を深めることさえあるのではないかと考える。
  ある一つの事例を提示しよう。

       (省略)


 Aさんは私との外来で、その先輩の行動について意見を求められた格好になった。私は言葉に詰まったが、それはその男性の行動の説明がつかないから、というのではなく、どのような答え方をすればAさんにとってある程度納得がいくものになるかが想像できなかったからである。それでも私は何らかの返答をする必要があると思い、「男性がそのような場面で豹変することがあり、困った問題である」という内容の説明をした。
 もちろん私自身にもその答え方がベストだとは思えなかったが、それに対してAさんはこう答えた。「『男はみなオオカミだ』、と先生も言うわけですね。それを男性は一種の免罪符のように用いるのですね。」と言われて返す言葉がなかった。

この時のAさんの反応を受けた私の反応としては、「どうして逆効果になりかねないことしか言えないのだろう?」情けなさと、「ではどうやったら説明できるのだろうか?」という気持であった。 私としては男性の有する性衝動の強さが性加害性に大きな影響を及ぼすという事実は広く認められているものの、同時に性被害の当事者には受け入れ難いという事情とどのように折り合いを付けることが出来るのだろうか、と深く考えさせられた。そしてその疑問がそのまま本章のテーマとなったのである。


2024年5月29日水曜日

のび太~スネ夫 並べてみた

 並べてみた

(出典)佐藤健二さんのブログより ← 素晴らしい

https://blog.goo.ne.jp/kenken1347/e/9004c75fe564a6336f667e03de29e562





2024年5月28日火曜日

PDの臨床教育学 1

  本稿のテーマはあくまでも「PDについての教育の仕方」である。つまりPDとは何か、ということではなく、PDとは何かをどのように注意して若手医師に教育すればいいのか、ということである。つまりは教え方のポイントということだ。しかし書いていて紛らわしい。これは企画として成立するのだろうか?

PDのエッセンスとは何か
 まず私は人に何事かをレクチャーする時、そのテーマの本質についてなるべくわかりやすく、簡潔に伝えることを心がける。その意味でPDの議論の本質は、PDとは症状を伴う精神疾患ではなく、何らかの認知、感情、対人関係の問題あるパターンについて扱うという点である。だからそれは「困った傾向を持つ人」ということで言い表される。(こんなことを書くと、「お前さん自身が困った人ではないか。そんな偉そうに書くな!」という突込みが自分の中に入る。)
 DSMのPDでA,B,C群に分かれていたのが象徴的だ。アメリカでは、A群はmad,B群はbad,C群はsadに分かれると教わった。「PDはマッド、バッド、サッドだ」と。A群はスキゾイドPDなどに象徴される思考過程の特異性を伴ったPD、B群はBPDや反社会性などの対人関係に問題を抱えたPD,そしてC群は回避性PDなどの、感情面での問題を抱えたPDということになる。
 DSMではこれに沿って10のひな型が提示されていた。例えばボーダーライン特性を持った人(BPD)自己愛的な人というと比較的直ぐに「あ、ああいう人か?」これをピジョンホールモデル、あるいはカテゴリーモデルという。ピジョンホールとは鳩が一羽ずつ入っている穴のことだ。これでいいのではないか、と言われるかもしれないが、実はこの問題がいろいろ指摘されている。というのもどれにも属さない、あるいはいくつかが混じっているという診断が沢山出てきてしまうからである。少なくとも個々の患者についての診断には直感的に役立つものの、PD的な問題が臭うものの診断できない、というケースも沢山出てくるのである。

以前この話について書いている時にドラえもんの話になったことを思い出す。去年5月31日に書いた内容だ。


以下の絵は、佐藤健二さんのブログより ← 素晴らしい

https://blog.goo.ne.jp/kenken1347/e/9004c75fe564a6336f667e03de29e562


  パーソナリティ障害personality disorder (以下PD)に関する議論は大きく様変わりをしているし、またその様な運命であるという印象を受ける。DSMにおいて多軸診断が廃止されたのはその表れと言えるのではないか。PDがいかに分類されるべきかという問題とともに、そもそもPDとは何かという、いわばその脱構築が問われるような動きが起きているのではないか。


 かつて私が論じたのは、以前のような意味でのPDはその一部が次々と別のものに置き換わる可能性があるということである。そもそもPDとは思春期以前にそのような傾向が見られて、それ以降にそれが固まるというニュアンスがある。その意味でPDと呼べるものはあまり残っていないのではないかという印象を持つ。

 以下は私の印象である。もっとも筆頭にあげられるべきBPDはいったん置いておこう。従来それと同列に扱われることも多かったスキゾイドPDについては、それと発達障害との区別はますます難しくなってきた。スキゾタイパル、スキゾフレニフォルムなどはDSMでは統合失調症性のものとして改変されている。

 また自己愛性PDについては、それが置かれた社会環境により大きく変化して、あたかも二次的な障害として生まれてくる点で、従来定義されているPDとは異なるニュアンスがある。 

 更にはDSM-5やICD-11 に見られるいわゆるディメンショナルモデルへの移行がそもそもPDの脱構築に大きく貢献していると言わざるを得ない。もしこの議論に従うとしたらPDはそれぞれの人間が持っている、遺伝的な素因にかなり大きく左右されるような要素の組み合わせということになり、カテゴリカルな意味はますます薄れる。
 カテゴリカルな診断の例として、ドラえもんの登場人物を考えよう。ジャイアン,のび太、スネ夫という登場人物が出てくる。それぞれが癖のあるキャラである。そこでジャイアン型PD,のび太型PD,スネ夫型という明確なカテゴリーを思い描くことが出来るであろう。

 しかしいざ実際の人々を分類して行ったら、典型的なジャイアン型もすね夫型も意外と少ない。それでもこのモデルに従って分類しようとすると、結局はジャイアン30%、のび太30%,スネ夫30%付近の人ばかりになり、結局は「ドラえもん混合型」PDの人ばかりになってしまう。(実際には混合型PD)それならその通りそれぞれの%で記載していった方が合理的になるが、結局「ジ30の30ス30PD」というのが一応ディメンショナルモデルの原型というわけだが、さっそく問題がある。その人のプロフィールを直感的に思い描けないという問題になるのだ。トンガリとは「キテレツ大百科」という漫画に出てくるキャラらしい。

(図はのび太50%+スネ夫50%=トンガリという説。)https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2208/24/news143.html

ただしここでスネ夫的素質、のび太的素質というのは、人間が固有に持つ要素なのか、ということになる。


 私は個人的にはカテゴリーモデルを捨てきれないが、その候補として残るのは恐らくBPD,NPD,反社会性、回避性くらいということになり、これはまさしくDSM-5 の代替モデルで最終的に提唱されたカテゴリーに近いということになる。

ただしその中でしぶとく生き残るのがBPDなのだ。


2024年5月27日月曜日

「トラウマ本」共感とトラウマ 挿入部分

  共感のトラウマ性

 これまで共感について、それを基本的には人間にとって必要なもの、有益なものとしてとらえて論じた。その理論に従うならば、共感を得られないことがある体験のトラウマ性を増すことになる。多くの患者にとって自分の話を信じてもらえなかった、分ってもらえなかったという体験は大きな心の痛手になる。逆に言えばトラウマとなりうる体験も、それを話し、分かってくれる相手と出会うことで、深刻なトラウマ体験となることが回避されるのである。もとアメリカ大統領のバラク・オバマは「現代の社会や世界における最大の欠陥は共感の欠如である」といったという(「反共感論」 p.28)。
 彼の言葉を代弁するならば、「独裁者が少しでもわが子を送り出す自国の兵士の親や、敵国の被災者の気持ちに共感できるのであれば、あのような無慈悲な攻撃をすることはないであろう。」

ということが出来るだろう。

 ところが共感の負の側面も論じられるようになってきた。そのことを何よりも考えさせてくれるのが、すでに紹介したPaul Bloomの「反共感論」(白揚社、2018)という著書である。

Bloomは言う。「共感とはスポットライトのごとく、今ここにいる特定の人々に焦点を絞る。他方では共感は私たちを、自己の行動の長期的な影響に無関心になるように誘導し、共感の対象にならない人々、なりえない人々の苦難に対して盲目にする。」(「反共感論」p.17)

 考えていただきたい。誰かが「〇〇教徒(☓☓人種でもいい)はけしからん、この世から追放すべし!」と叫び、それが多くの人の共感を集め、その結果として〇〇教徒や☓☓人種が差別をされたり蹂躙されたりするという事がなんと多いことか! 安易な共感はまた凶器に繋がると言ってもいい。

 ただし私は本章では共感そのものには良し悪しはない、という立場に立ちたい。それは私達が何に共感するかで異なる意味を持つであろうと考えるのである。


2024年5月26日日曜日

「トラウマ本」 トラウマと記憶 加筆修正部分 2

 解離とトラウマ記憶の問題

 本章の最後に解離とトラウマ記憶の問題について述べたい。蘇った記憶や過誤記憶について考える際、トラウマ記憶の問題は特に重要である。私たちがトラウマ、すなわち心的な外傷となる出来事を体験した際に、その際の記憶は通常の記憶とは異なる振る舞いを見せることが知られている。それはトラウマの臨床、すなわちPTSDや解離性障害などの症状の治療に携わる者にとってはなじみ深い。ただ本章でこれまで論じてきたような一般心理学の立場からはその点が十分に把握されているとは言い難い。では一体トラウマ記憶は通常の記憶とどのように異なっているのであろうか?そしてそこに解離の機制はどのように関与するのであろうか?

 2001年にPorter & Birtは  “Is Traumatic Memory special ?” (トラウマ記憶は特別だろうか?) という論文で、通常の記憶とトラウマ記憶にどのような差がみられるかについて研究を行った(Porter & Birt, 2001)。  彼らは306人の被験者に対して、これまでの人生で一番トラウマ的であった経験と、一番嬉しかった経験を語ってもらったという。すると両者の体験の記憶は多くの共通点を持っていた。つまり双方について被験者は生々しく表現できたという。またよりトラウマの程度が強い出来事ほど詳細に語ることが出来た。  それをもとに彼らはそれまで一部により唱えられていた説、すなわち「トラウマ記憶は障害されやすい」という説はこの実験からは否定される、とした。さらにトラウマ記憶についてはそれが長期間忘れられていた後に蘇ったのはわずか5%弱であり、嬉しかった記憶についても2.6%の人はそれが忘れられていた後に蘇ったという。  この研究ではまた長期間忘れていた後に想起されたトラウマに関して聞き取りをしたところ、それらの記憶の大部分は無意識に抑圧されているわけではなかったという。それらはむしろ一生懸命意識から押しのけようという意図的な努力、すなわち抑制suppressionという機序を用いたものであったというのだ。  この学術的な研究からは、トラウマ記憶が抑圧され、後に治療により回復される、という理論は概ね誤りであるという結論が導かれることになる。  しかし実は一時的に失われていた記憶が治療により、あるいはそれとは無関係に蘇るという現象は、精神科の臨床では稀ならず見られる。それはトラウマを扱う多くの臨床家にとってはむしろ常識的な了解事項とさえいえる。これはいったいどういうことであろうか?
ここで一つの臨床事例を提示しよう。ある20代の男性Aさんは、仕事場での業務が量、質ともに過酷さを極めた為に、身体的な異常をきたした。そしてとうとう自宅療養を余儀なくされたのである。しかし実はその自宅療養に至る前の数か月間、彼は職場で上司から深刻なパワハラを受けていた。ただ休職に至った時点では過去数か月間の記憶もかなりあいまいになっていたのである。
 Aさんは職場からのストレスから解放されて自宅での療養生活を始めたころから、見慣れない景色や体験した覚えのないエピソードを夢に見たり、あるいは覚醒時に突然それらに襲われたりするという体験を持った。それを手繰っていくにつれて、それらが過去数か月の間に起きていたことの断片らしいことが判明した。そしてその内容は後に客観的な証拠(同僚の証言や本人が書いていた行動記録のメモなど)により実際の出来事に合致していることが分かった。つまり彼は数か月間に起きたトラウマ的な出来事を「忘れて」いたことになる。そしてこのような例は実は臨床ではかなり頻繁に出会うのだ。すなわち先ほどのPorter & Birtの結論は間違っていると言わざるを得ない。えー!どうするの?

2024年5月25日土曜日

「トラウマ本」 トラウマと記憶 加筆修正部分 1

 自己欺瞞

人はかなり頻繁に、自分自身にとって都合のいい嘘をつく。そしてそれをいつの間にか真実のこととして処理してしまう傾向もある。これをここでは自己欺瞞による虚偽記憶と呼ぼう。この問題について、私は別の著書で論じたことがある(岡野,2017、p.126~7)。心理学者Dan Arielyは、人がつく嘘や、偽りの行動に興味を持ち、様々な実験を試みつつ論じている。
  Arielyは、従来信じられていたいわゆる「シンプルな合理的犯罪モデル」(Simple Model of Rational Crime, 以下、SMORC)を批判的に再検討する。このモデルは人が自分の置かれた状況を客観的に判断し、それをもとに犯罪を行うかを決める、というものだ。つまり露見する恐れのない犯罪なら、人はごく自然にそれを犯すのだ、という考え方である。このSMORCは人間の性悪説に基づく仮説であり、以前から存在していた。
 しかし Arielyのグループの行った様々な実験の結果は、このSMORCを肯定するものではなかったという。彼は大学生のボランティアを募集して、簡単な計算に回答してもらい、その正解数に応じた報酬を与えるという実験を行った。その際第三者により厳しく正解数をチェックした場合と、自己申告をさせた場合の差を見た。すると前者が正解数が平均して「4」であるのに対し、自己申告をさせた場合は平均して「6」と報告された。つまり自己申告では2だけ水増しされていることがわかったという。
 さらに正当数に応じた報酬を高くした場合には、それにより後ろめたさが増すせいか、虚偽申告する幅はむしろ減少したという。また道徳規範を思い起こさせるようなプロセスを組み込むと(例えば「虚偽の申告をしないように」、という注意をあらかじめ与える、等) それによっても虚偽申告の幅は縮小した。その結果を踏まえて Arielyは言う。
 「人は、自分がそこそこ正直な人間である、という自己イメージを辛うじて保てる水準までごまかす」

そしてこれがむしろ普通の傾向であると主張したのである。
 もう少しわかりやすい例をあげよう。あなたが釣りに行くとしよう。そして魚が実際には4尾釣れた場合、あなたはさほど良心の呵責なく、つまり「自分はおおむね正直者だ」いう自己イメージを崩すことなく、人に「自分は6尾釣った(ということは釣った2尾は逃がした、あるいは人にあげた、と説明をすることになる)」と報告するくらいのことは、ごく普通に、あるいは「平均的に」するというのだ。
 話を「盛る」という言い方を最近よく聞く。私たちは友人同士での会話で日常的な出来事を話すとき、結構「盛って」いるものだ。それはむしろ普通の行為と言っていい。「昨日の私の発表、どうだった?」と人に聞かれれば、私たちの多くは「すごく良かった」というだろう。食レポなどを聞くと、「すごくおいしい!」などと、この傾向はさらに顕著であろう。たとえ心の中では「まあまあ良かった」でもその様に言うものである。相手の心を気遣うとそうなるのがふつうであり、このような「盛り」は普通しない方が社会性がないと言われるだろう。そしてこれは日本文化に限ることではない。
  このような、いわば社交辞令としての「盛り」以外にも、私達は日常のエピソードを話す時は、「昨日すごくびっくりしたことがあった!」などと、やや誇張して話すものである。これなどは「弱い嘘」よりさらに弱い「微かな嘘」とでも呼ぶべきであろうか。そして Arielyの「魚が6尾(本当は4尾)」はその類、あるいは延長上にあるものと考える。
  この様な自己欺瞞による嘘は、単なる嘘とは違い、それを事実として確信することに一歩近づいていると言えるだろう。つまりその様な場合、私たちはその虚偽性をどこかで意識しつつ、同時に否認しているところがある。そしてそれが本格的な虚偽記憶に移行する素地を提供するのである。なぜなら「魚を6尾釣った」と公言することで、前述した言語化することによる記憶の歪曲はより成立しやすくなるからである。そして数週間後、あるいは数か月後は実際に魚を6尾釣ったという記憶に置き換わる可能性があるのである。