共感のトラウマ性
これまで共感について、それを基本的には人間にとって必要なもの、有益なものとしてとらえて論じた。その理論に従うならば、共感を得られないことがある体験のトラウマ性を増すことになる。多くの患者にとって自分の話を信じてもらえなかった、分ってもらえなかったという体験は大きな心の痛手になる。逆に言えばトラウマとなりうる体験も、それを話し、分かってくれる相手と出会うことで、深刻なトラウマ体験となることが回避されるのである。もとアメリカ大統領のバラク・オバマは「現代の社会や世界における最大の欠陥は共感の欠如である」といったという(「反共感論」 p.28)。
彼の言葉を代弁するならば、「独裁者が少しでもわが子を送り出す自国の兵士の親や、敵国の被災者の気持ちに共感できるのであれば、あのような無慈悲な攻撃をすることはないであろう。」
ということが出来るだろう。
ところが共感の負の側面も論じられるようになってきた。そのことを何よりも考えさせてくれるのが、すでに紹介したPaul Bloomの「反共感論」(白揚社、2018)という著書である。
Bloomは言う。「共感とはスポットライトのごとく、今ここにいる特定の人々に焦点を絞る。他方では共感は私たちを、自己の行動の長期的な影響に無関心になるように誘導し、共感の対象にならない人々、なりえない人々の苦難に対して盲目にする。」(「反共感論」p.17)
考えていただきたい。誰かが「〇〇教徒(☓☓人種でもいい)はけしからん、この世から追放すべし!」と叫び、それが多くの人の共感を集め、その結果として〇〇教徒や☓☓人種が差別をされたり蹂躙されたりするという事がなんと多いことか! 安易な共感はまた凶器に繋がると言ってもいい。
ただし私は本章では共感そのものには良し悪しはない、という立場に立ちたい。それは私達が何に共感するかで異なる意味を持つであろうと考えるのである。