2024年6月4日火曜日

「トラウマ本」男性性とトラウマ 加筆部分

 男性の「性愛性」の持つ加害性について、なぜ男性が語らないのか?

  ここで男性の「性愛性」、という言い方をするが、私は実はsexuality を「性愛性」と訳すことには少し疑問がある。むしろ性の性質ということでそこに「愛」が含まれていないのであるから、「性性」と呼びたいところだが、そのような言葉はないので男性の性愛性という表現をこれ以降も用いていく。
 そこでまずは男性の性愛性についてあまり男性が語らないのはなぜかについて、幾つかの可能性を考えたい。
 それは男性自身が持つ恥や罪悪感のせいではないかと考える。そもそも男性の性愛性は恥に満ちていると感じる。それはどういうことか。
  男性は特に罪を犯さなくても、自らの性愛性を暴露されることで社会的信用を失うケースがきわめて多い。最近とある県の知事が女性との不倫の実態を、露骨なラインの文章と共に暴露されたという出来事があった。またある芸人は多目的トイレを用いて女性と性交渉をしたことが報じられて、芸人としての人生を中断したままになっている。これらの問題について男性が正面から扱うという事には様々な難しさが考えられる。
 彼らは違法行為を犯したというわけではないであろうし、そこで明らかな性加害を働いたというわけでもなさそうだ。しかしそれでも社会は彼らに何らかの形で制裁を加えることになるのである。
 このような問題が特に男性の性行動に関して生じやすいことについては、一つの事実が関係している。それはいわゆるパラフィリア(小児性愛、窃視症、露出症、フェティシズムなど)の罹患者が極端に男性に偏っているという事実である。
 パラフィリアはかつては昔倒錯 perversion と呼ばれていたものだが、その差別的なニュアンスの為に1980年代にパラフィリアに変更になったという経緯がある。確かに英語で「He is a pervert!」というと、「あいつはヘンタイ野郎だ!」というかなり否定的で差別的な意味合いが込められるのだ。
 パラフィリアはかつては性倒錯とも異常性欲とも呼ばれていたが、その定義はかなりあいまいである。むしろそれに属するものにより定義されるという所がある。それは盗視障害、露出障害、窃触障害、性的サディズム、性的マゾヒズム障害、フェティシズム障害、異性装障害(トランスベスティズム)、その他である。これらのリストからわかる通り、その性的満足が同意のない他者を巻き込んで達成する形を取る場合には、明らかに病的、ないし異常と言えるだろう。例えばそれは窃視症であり露出症である。相手がそれに臨んで同意している限りはそれは「覗き」とも「露出」とも呼ばれないはずだ。
 しかしこのパラフィリアは複雑な問題をはらんでいる。それは最近あれほど叫ばれている性の多様性に、このパラフィリアの話はほとんど関わっていないからである。もちろん窃視症や露出症が性的な多様性に含まれないことは理解が出来る。しかし例えばフェティシズムの中でも無生命のものに恋する人たち(いわゆる対物性愛 object sexuality, objectophilia)が差別的な扱いを受けるとしたら、それに十分な根拠はないのではないか。男性の性愛性が含み得るこれ等のパラフィア的な傾向が、それだけで病的とされるとしたら、それはそれで問題であろう。そもそも「覗き」や「露出」あるいは小児性愛をファンタジーのレベルにとどめて決して同意していない他者を巻き込まないとしたら、それも病的と言えるのであろうか?
 これらの問題に応える形で、DSM-5の診断基準には、重要な条件が掲げられている。すなわちその行為を「同意していない人に対して実行に移したことがあるか」、または「その行為が臨床的に意味のある苦痛、または社会的、職業的、またはほかの重要な領域における機能の障害を引き起こしているか」の条件を満たすことで初めて障害としてのパラフィリアが診断されるのである。
 しかしフェティシズムの様に生きている対象を含まない場合には、それを最初から精神障害のカテゴリーに入れることに正当な意味はあるのであろうか?
 いずれにせよ男性の性愛性にはそれが加害傾向を必然的に帯びてしまう種類のものが多い一つの理由として、このパラフィリアの問題を示したかったわけである。