2012年10月20日土曜日

第13章 小脳はどこに行った?(1)

小脳って、すごいんです

それにしても小脳ほど忘れられている脳はないのではないか?前書「脳科学と心の臨床」でも私は事実上小脳のことは無視してきた。脳の絵を見ると、いつも大脳の後ろにおんぶされているような格好でついている小脳。小脳、という名前もせいもあり、なんとなくマイナーなイメージ。(ちなみに英語だと、大脳は cerebrum (スリーブラム), 小脳は、cerebellum(セレベッルム)で、小脳の方が小さいからマイナーという語感はない。ただし「um」が縮小語尾であることを知っていれば別だが。)でも小脳って、意外とすごいのだ。最近注目されている部位でもあるし、本書で一つの章を設けるだけの価値は十分ある。
 小脳といっても一般人になじみは少ないだろう。ミスターチルドレンのボーカルの桜井君が最近「小脳梗塞」になったことくらいでしか話題にはならなかったのではないか。小脳自体はあまり梗塞が起きない部位なので、そしてあまりそれで命を落とすことはないので話題にならないのだろう。小脳腫瘍、というのもあまり聞かない。しかし日本には小脳研究の第一人者伊藤正男先生がいらっしゃる。その意味で日本は小脳研究の先進国と言える。そういわば医学部の一年生の時基礎医学の一つ生理学の授業で、ひときわ貫禄のある先生が伊藤先生だった。うわさでは「何かの世界的な権威」、ということくらいしか知らなかったが。もう30年以上前の話だが、今でもご健在で研究を続けていらっしゃる。

伊東正男先生 今でも現役でご活躍である。

 
実を言うと小脳は秘密のベールに包まれていたのだ。ただ運動機能には非常に重要であるということだけはわかっていた。小脳の病変で、運動失調などが起きるからである。しかし最近になってようやく、それが精神の機能にとっても重要らしいということがわかってきたのだ。
 小脳にはいくつの特徴がある。それは脳の中で小脳に限っては、その構造がかなり明らかになっているということだ。大脳に関しては、その皮質は6層構造ということになっているが、かなり場所によりばらつきがある。しかし小脳はどこをとっても規則正しい3層構造をなしている。ネットで検索するときれいな絵が出てきたので拝借する。

小脳皮質は顆粒細胞からなる顆粒層、プルキンエ細胞(英語で言えばパーキンジャーセル。アメリカで最初聞いたときは何の事だか分らなかった。)からなる層、そしてゴルジ細胞、バスケット細胞、星状細胞からなる分子層という三層構造。ここにどのような信号が入ってきてどのように抑制されて、ということがわかっている。まるでコンピューターのようだ。そしてそこに関与している神経細胞の数は膨大である。顆粒細胞だけで500億、と言われている。何か巨大な装置が、脳全体の働きを補助し、支えているらしいということがわかってきた。そしてこの小脳皮質の細胞の働きを調べていくと、それは一種の学習を行う機関であるということがわかってきた。そう、小脳とは大脳を支える巨大な裏方、ハードウェアなのである。脳自身が使っているコンピューターというニュアンスが当てはまるだろう。

ちなみにそもそも神経回路を3層構造に分け、それが学習の機能を持つというモデルがかなり以前に提案されていた。ローゼンブラットという人が1950年代に提出していた「パーセプトロン」の概念である。これはいわばコンピューター理論と脳科学を合体させたような理論であったが、1970年代になり、小脳の細胞が構成する3層構造が、まさにこのパーセプトロンである、という議論が巻き起こった。ここに先ほど紹介した伊藤正男先生の貢献があったことになる。
パーセプトロンのローゼンブラット原図

このパーセプトロンが行っているのは、例えばある行動を行った際に、それが誤差を生じたという信号を受け取り、その行動をより正確にしていくという作業である。たとえば利き手とは異なる手で字を書く、という練習をするときのことを考えよう。最初は手がほとんど思うように動かず、字の形を成さないであろうが、練習を重ねていくと、試行錯誤で徐々にそれらしい形になっていくだろう。そこで少しずつ正確に字を書けるようになる際には、力の入れ加減、ここの指の筋肉の使い方などに関して、失敗しては訂正し、という数限りない学習が繰り返される。それを行っているのが小脳のこのパーセプトロンだと考えられるのだ。

2012年10月19日金曜日

第12章 サバン症候群が示す脳の宇宙―心理士への教訓

患者に眠る「プチサバン」を見出す

私は心理士の皆さんにはサバン症候群が示す脳という宇宙の広さに純粋に驚嘆し、感動して欲しいと考える。それに「誰でもサバンになれるポテンシャルを持っている、問題はそれに抑制がかかっていることかも知れない」という発想は素敵だ。私たちはさまざまな能力を、独創的な発想を、創造性を、恥ずかしさや後ろめたさや不安のためにがんじがらめに縛りつけて発揮されないようにしている可能性がある。その縛りはしばしば患者本人にも気がつかないし、その周囲の人々にも気がつかない。心理療法家はその抑制を少しだけ取り除くことに貢献できるかもしれない。それによりサバンは無理でもその患者の持っている感性や才能が花開く可能性がある。心理療法をそのようなポジティブなものとして捉えることができるかもしれない。
   サバンの話題からは少しそれるが、日々の臨床をやっていて思うのは、いかに人にはたくさんの種類の能力があるかということ、そしてそのどれに才能や長所を見出すことが出来るかは全く人それぞれであるということだ。そこには無限のバリエーションがあり、そして類型化することはむずかしい。
例えば少しだけ変わったところのある青年について「彼はアスペ的だ」というのは、少しだけその特徴をつかんではいるものの、目を疑うばかりの誇張や決め付けを行うことにもなりかねない。実際にはアスペルガーに特徴的な所見は、一般人の中にも散発的に見られる。実際にあるのは、個々人により違う「プチサバン」的傾向と、「プチ発達障害傾向」の様々な組み合わせなのだ。

たとえばある女性は人の気持ちを理解し、子供の扱いに長けているが、同時に数学が好きで、幾何学の持つ緻密で紛れのない世界が自分にとって救いの場所だと言う。その女性の数学好きは、彼女のアスペルガー的な面を表しているというよりは、数学に美的な価値を見出し、そこに浸ることが出来る能力が備わっている、と捉えるべきであろう。しかしその女性が、では物理学に興味を示氏、力学の法則に美しさを見出すかと言えば、全然違ったりする。人が何に才能を有するかは、それこそ食べ物の好みのように微妙なバランスやさまざまな要素の取り合わせが影響している。
   ここで私が改めて述べたいのは、心理士は患者の様々な発達上の特徴を見据え、場合によってはその人が持っている「プチサバン」ぶりを見出すと言うことも含まれていいのだ、ということだ。私は教育心理学についての知識が欠如しているが、教職にあるものの立場としては、子供の才能を見出す、場合によっては掘り起こすという努力は当然なのかもしれない。しかしこと心理臨床になると、この種の提言はあまり見られない。なぜならば心理臨床は、そして精神医学は特に、患者の異常や欠損部分をいかに見出し改善するか、ということにのみ力を注ぐからである。

2012年10月18日木曜日

第12章 サバン症候群が示す脳の宇宙 (3)

タメットの「抑制の低下、混線」仮説

次にタメット氏の説について検討したい。彼は自分自身のサバンとしての体験から出発していかに自分の頭脳が機能しているかを語る為に、きわめて説得力がある。その著書「天才が語る」から引用してみよう。
まず彼は自分の数学を通しての体験が言語的な体験と近いということを強調する。これについては、本章でもすでに紹介した。(数がいくつかの素数に分解される様子が、たとえば英単語がいくつかの部分に分かれるのと同じ感覚で生じるという。たとえば incomprehensibly (理解できないように、という形容詞)が、in と comprehend と ible と lyとに分かれる、という風にである。タメット氏によれば、たとえば37×469という掛け算を見ると、それが6253+(111×100)であることが見た瞬間にわかる、というが、単語をいくつかの部分に分かれるのがすぐにわかるのと同じ感覚であるという。もちろんこれは私にはチンプンカンプンであるがタメット市にとっては当たり前のことなのだ。
タメット氏は、そもそも言語的な能力にはきわめて広範な知的能力を必要とすると説く。そしてわれわれ全員がある意味では言語に関するサバンであるという。さて次のくだりが重要なので引用する。「自閉症やてんかん、統合失調症といった脳神経の症状は、脳の抑制レベルが低下し、本来なら独立している領域の間で異常な混線が生じた結果ではないか、と多くの研究者たちは考えてきた。」(p171)そしてそもそも共感覚が、そのような抑制の低下の一つの現れであるという。
 彼は代表的なサバンであるキム・ピークの例を出す。かの「レインマン」の主人公のモデルとしても知られるキムは、2009年にすでに世を去っているが、彼は生まれたときから脳梁が欠損していた。脳梁はすでに本書にも登場しているように、左右の大脳半球の間に存在し、その交通を促進したり抑制したりする部分だ。そして彼の脳梁の欠損は、抑制の低下を生み、その結果として彼の大脳が情報を蓄積する力が飛躍的に増しているのだとする。これもあるサイトにグラフィックに描かれているキムの脳の図があるので紹介しよう。これも「抑制の低下」を招く結果となり、彼の爆発的な記憶力を生み出しているというのだ。
http://ontogenez.narod.ru/htmT/fenomMind.htm より
 
  ところでサバン症候群を説明する二つの仮説を出した。「皮質の張り出し、代償説」と「抑性の低下、混線説」である。両方ともしっかりとした学説だが、名前は私が雰囲気で付けたものである。そして両者はまったく異なるものではないということがお分かりであろう。結局サバン状態においては、普段は(あるいは普通の人は)あまり活用されていない皮質が何らかの理由で活性化され、素晴らしい力を生み出している状態と言える。それは皮質の張り出しでも、抑性の低下でも起きうるだろう。本章ですでに脳梗塞のあとに美術の才能に目覚めた人のサイトを紹介したが、それは美術的な活動をつかさどる皮質野への抑制がとれて活動が亢進する場合も、それが梗塞により死んだ皮質の機能を取り戻すために新たに張り出された皮質の利用を通じて起きているという場合もありうるのだ。
   しかしそうは言ってもやはりサバン現象は不思議だ。脳生理学的には全然わかっていない。果たして将来解明されるかどうかも不明だ。それは人間の無限の可能性、まさに宇宙的な可能性を示唆しているとしか言いようがないのだ。

2012年10月17日水曜日

第12章 サバン症候群が示す脳の宇宙 (2)

サバンは脳の空きスペースを利用する
  サバン症候群の興味深いことは、それが脳の障害とかなり密接な関係を持っているということだ。ある脳の障害を持つということは、それを担当する皮質が使われないということを意味する。するとそれをいわばフリースペースとして、別の能力が占拠することができる可能性が生まれる。精神遅滞と盲、そして天才的な音楽的才能の三つがそろうケースは非常に良く知られているが、それは視覚が大脳皮質に占めるエリアが非常に広いために、盲目なために使われていない視覚野に音楽をつかさどるエリアが「張り出す」という現象が起きていると考えられる。
   一つある原則的なことを述べよう。大脳皮質は実は一つのことに役割が分担されているわけではない。皮質は別のことにも使い回しがきく。これを「脳の地図は描きかえられる」ともいう。たとえばよく知られた幻肢(ファントムリム)という現象がある。手を切断した場合、すでに手の感覚はないはずなのに、顔をふれた時、同時にあたかも(すでにそこにない)手をふれられたような気がするという現象だ。これは手からの入力がなくなり、使われなかった皮質が、顔からの入力にも反応するようになったことになる。説明のために図を描いてみた。

  この図で最上層にあるのは大脳皮質の感覚野の神経細胞である。下の手と顔の絵から矢印が向かっているが、それらは手や顔の感覚入力を皮質の神経細胞に伝える神経線維だと思っていただきたい。ここで手術や事故により手からの神経が切断されたとする。すると手からの感覚を受けることが出来ない皮質の細胞は遊んでしまうことになる。ところがそこにすぐ隣にある左側の、顔からの感覚を伝える神経線維が伸びてくる。それが下の図である。


この図は、顔をふれると切断されたはずの手を触られている感覚がするという事態を表現していることになる。何しろ体はその神経細胞が刺激されると、それは手からの信号であるということを覚えているから、そのように感じ続けるわけだ。

ラマチャンドランの「脳の中の幽霊には、それを地図に書いた図が載っている。

この図では、顔の1の部分をふれると切断した手の親指が、2の部分をふれると人差し指が触られている気がする。(以下、3は中指、4は薬指、5は小指である)。もちろんこの時その顔の部分を触られているという感覚も伴う。そして感じているというその手自体はもう切断されてしまっているのだから、実に奇妙な体験となる。



この空いた「大脳皮質への張り出し」という現象はサバン症候群を理解するうえでの一つの有力な仮説を提供する。それが、「左脳の傷害に対する右脳の代償説」である。まあ簡単に代償説、としておこう。これを提唱しているのはTreffert (2006) という学者である。彼によるとサバン達は左半球にダメージを被っているという。そしてサバンのスキルのほとんどは右半球由来のものだというのだ。(これについては後で少し説明を必要とする。)元々自閉症では、この左脳の機能低下と右脳の代償という理解はしばらく前からあったという。何しろ左の言語野がほとんど働いていないのが、自閉症の主要な障害だと考えれば納得がいくであろう。

 これに関連して、左脳をピストルで撃たれた少年の研究があるという。それによりその少年は言葉を話せなくなったものの、機械的なスキルについてのサバン振りを発揮するようになった。もう一つの証左はピック病に見られるという。ピック病は前頭側頭痴呆と言われるが、しばしば左脳に特にダメージが起きる。すると美術的な才能が開花するという。

以前脳卒中で美術的な才能が開花したという人のことが話題になったが、そのサイトは非常に興味深い。(http://x51.org/x/04/06/2745.php)この人の場合性格まで違ってしまったという。ただし脳のどの部位が特にダメージを受けたかは明確には書かれていない。


2012年10月16日火曜日

第12章 サバン症候群が示す脳の宇宙 (1)

  こんな想像をしたことはないだろうか?類人猿が大脳を巨大に進化させることで、人類が生まれ、高い知性を獲得したわけだが、では人類が突然変異でさらに進化したらどうなるだろうか?大友克洋の「アキラ」に出てくるような超能力を持った新人類だろうか?
 私はそうは思わない。そんなの非現実的だ。人の能力の獲得に、その種の飛躍はないだろう。(というより超能力を私はやはり信じてはいない。)その代り一瞬にして3ケタ×3ケタの掛け算をこなし、一度読んだ本は二度と忘れなかったり…。そんな能力だったら獲得するかもしれない。それらは超人的ではあっても、私たちが暗算をしたり、暗唱したりする力の延長線上にあるからだ。いつ人類は、もう一度進化を始めるのだろうか?
   しかしこの空想は少なくとも二つの壁に突き当たる。人は事情があってこれ以上脳を大きくすることが出来ない。人間の女性の骨盤の内径は、今の大きさで赤ん坊の頭が通過するギリギリなのである。ということはこれ以上人は頭を大きくすることが解剖学的に無理だということになる。さらにもう一つの壁。一瞬にして複雑な計算をこなすだけの神経回路が本来存在しえないとしたら、初めからこんな想像は無理なのではないか?脳がいくらこれ以上進化したって、電卓には本質的になりえないとしたら。ところがこの第二の壁については、実はあり得るかもしれないと考える根拠がある。常識ではありえないような能力を示す生き証人がいる。それがサバン症候群を有する人々だ。
 私の愛読書に「なぜかれらは天才的能力を示すのか」(ダロルド・トレッフォート、高橋健次訳、草思社、1990年)という本があるが、ここには実際に3ケタ×3ケタの掛け算を即座にやってのける天才児が描かれている。彼らの特徴は、それをどのように計算しているかを人に説明できないことだ。彼らには答えが自然にわかるという。そしてこのことは、私たちの頭にも、同様のことを行えるだけの潜在能力があるという空想をいただかせる。ただ私たちはそれを抑制しているだけかもしれないのだ。とすると、まるで私たちの脳は無限の宇宙のようなものだ・・・・。
   私はサバン症候群について読むのが好きだし、その感動を伝えるためにこうして書くことも好きだが、読者の中にはそれらについて既に知っているかもしれない。たいてい次のような感じで説明されている。
「一卵性双生児のジョージとチャールズは、例えばある人の誕生日が木曜日に当たる年をすべてあげることが出来る。さらに過去あるいは未来の4万年にわたる暦の年月日と曜日を言い当てることが出来る。二人は暇さえあれば、20ケタの素数を言い合って遊んでいるが、実際には、彼らは二人とも、一ケタの足し算もできないし、数式も一切知らないのだ。もちろん紙に書いて計算することなど思いもよらない。」(「なぜかれらは天才的能力を示すのか」から。
  実は私のサバン症候群に対する関心が格段に増したのが、ダニエル・タメット氏の存在である。彼については、かつてNHKで彼についての番組があったので、見た方も多いかもしれない。彼について私はちょうど2年前のこのブログで、次のように書いている。
サバン症候群のヒーロー
実はもう一人私が期待しているアスペさんがいる。こちらはかなり有名な人で,私は彼の本を読み,ユーチューブでその実際の表情や物腰を見て気に入った人だ。彼は実に優しく穏やかな印象をあたえるが,その持つサヴァンとしての能力はとてつもない。超能力といった感じがする。ダニエル・タメット31歳。彼の自叙伝“Born on a Blue Day”は日本語で訳されている。(「ぼくには数字が風景に見える」講談社2007年)
彼は例えば数桁同士の掛け算を、いくつかの色を伴った図形同士の結合のように捉え,二つの図形が混じり合った図形の色と形がそのまま積を示しているという。実際に彼の「計算」の様子を見ていると、紙の上で指先を動かしながら図形をイメージするだけで、決して数字を扱う計算はしていない。
彼には著しいこだわりもあり,例えば毎朝食べるシリアルは,厳密に重さを計量して同じ量を食べるという。その意味で彼は立派なアスペルガー症候群なのだが,でもとても温かく繊細という印象を受ける。しかしもちろん彼の実際の人柄は知らないから、私は「期待」するのである。
実は彼の温かさと彼のホモセクシュアリティーとは関係しているように思える。米国に滞在中常に思っていたことがあるが、細やかな気遣いをする、「日本人的」な白人男性はその多くが男性のパートナーを持っていた。私は彼らの多くが好きで、親交もあった。後にタメット氏の同性愛傾向を知ったとき,彼を映像で見た時の細やかさは,それと関係していたのか,と納得がいったのである。
自分のサバン振りを雄弁に語る人は実は希少である。なぜなら大部分のサバンは同時に精神遅滞があり、コミュニケーション不能だからだ。彼はサバン症候群で生じていることを教えてくれるまたとない人でもあるのだ。
   サバン症候群がどのような問題から生じるかについては様々な仮説が設けられる一方ではその真相はつかめていない。ただし一つ重要な提案を彼がしている。それはサバンにおいては脳の中で、ある種の混線が起きているのではないか、ということだ。彼は自分自身の数学的な才能を考えるとき、それが言語野の働きや視覚野の働きとかかわっていることを自覚している。彼は数字を見たとき、その色や形が直感的に感じられるだけでなく、それを構成している素数までわかるという。(彼は素数はスベスベしていて、それ以外の数字はごつごつしているという。)そして数がいくつかの素数に分解される様子が、たとえば英単語がいくつかの部分に分かれるのと同じ感覚で生じるという。たとえば incomprehensibly が、in と comprehend と ible と lyとに分かれる、という風に。(天才が語る サバン、アスペルガー、共感覚の世界 ダニエル・タメット 古屋美登里訳 講談社 2011年より。これも非常に面白い本である。)
   そして言う。「この仮説を裏づけるいくつかの証拠がる。第一に、言語(左前頭葉)と数字(左頭頂葉)のために特化していると研究者が指摘している脳の領域が、左脳内で隣接している点だ。左頭頂葉には、連続した論理的な空間把握能力も含まれていて、これは計算するときに使われるが、左頭頂葉、特にブローカ野は、順序だった統語的文章を作る能力をつかさどっているといわれている。つまり、様々な計算をするときに脳の中で数字の形を切り分けて処理するというぼくの能力は、言葉と語句を意味のある文章に構築処理することとまったく同じなのだ。(167ページ)

2012年10月15日月曜日

第11章 愛着と脳科学―心理士への教訓


   愛着に関する研究が進み、新しい知見が得られることで、心理療法の捉え方も大きく変わらざるを得ない。愛着の問題は子供に対してのストレンジ・シチュエーションや、母親に対するAAI(成人愛着面接)などによりある程度実証的なデータを得ることができている。そしてそれにより、子供の愛着のパターンが、母親が本来持っていた愛着のパターンから推察できることがわかってきている。するとそれは診断にも治療にも大きな変化を与える可能性があるのあだ。
 私がなじみの深い「関係精神分析」の分野では、発達理論が治療に組み込まれることはもはや常識といっていい。関係精神分析は、治療者と患者という二人の対等な(しかし役割の異なる)人間同士の情緒的な交流に重点を置く精神分析の流れであるが、そこでの関係性とは、当然母子間の関係性から連続しているものとみなされる。つまり母子間の間で成立していたはずの安定した二者関係の障害が様々な病理を生むと考えるのである。
  さて本書では脳科学との関連で様々なテーマについての考察を加えているのであり、愛着についても同様である。そこでこんなイメージを持って欲しい。すでに述べたように、生後2,3年以内に愛着形成が成立するが、それは脳内の基礎的な神経ネットワークの構築を意味する。それを心という建物の基礎工事と考えよう。安定した、秩序だった骨組みによる基礎工事は、その後の地上階、上層階の建物を支える上で極めて重要になる。逆に基礎工事がおろそかになると、その後の建物の安定度、耐震度などに極めて大きな影響が出てくる。
  ちなみにここら辺の思考には実は私の日常生活が大きく影響している。都心にある私のオフィスのあるビルのすぐ隣では、約2年がかりでこれまでの古い建物が壊され、新たに高層ビルを建築している。その間ずいぶん騒音に悩まされたが、窓からその建築のプロセスを基礎工事をいつも眺めていたことになる。そして建物が出来上がる過程で、いかに基礎に時間とエネルギーが注がれているかを実感したのである。人間の心の構築もまったく同じである。心の基礎工事としての神経ネットワークの構築は、安定した養育関係の中で生じなくてはならないのだ。

心理療法は基礎工事どうしのドッキング

   そこで少し唐突なようだが、心理療法とは治療者の側の基礎工事を患者の側のそれがドッキングするようなものだというイメージを持っていただきたい。人間=建築物というイメージは心に浮かべにくいかもしれないが、少し無理をして、治療関係を、二つの建物が一時的にドッキングするという実際にはあり得ない事態としてイメージして欲しい。患者の基礎工事はグラついたものでも、治療者のそれとドッキングすることで一時的に補強されて安定するかもしれない。すると患者の側の心は基礎が一時的に支えられる分だけ上層階も安定し、そこで行なわれるべき仕事もより能率が上がるだろう。過去のことを振り返ったり、現在の人間関係で悩んでいる事柄についてより深い洞察を得たり、深い反省を加えたりできるかもしれないのである。そして患者が治療者の基礎部分を借りて一時的に安定している状態で、自身の基礎工事を一部やり直すこともできるかもしれない。十分に深部に達していない杭を打ち込みなおす、とか。梁を一本補強するとか。
  あるいは治療者の方は、患者という建物の基礎部分に直接触れることで、どのようなときにそれが揺れやすいか、どのような方向に傾きやすいかを知ることができるかもしれない。時には患者の側の基礎部分の揺れが自分の基礎部分に伝わってくることで、患者の心で起きていることをより身近に感じたり、場合によってはそれに少し巻き込まれるようなことも起きるかもしれない。これらは精神分析では同一化とか取り入れ、共感、あるいは逆転移などといわれている現象である。
   治療関係をこのような比喩で捉えることは、特に治療者の姿勢や態度に特に変化をもたらさないかもしれない。私もここで特別の治療方針を提言しているつもりはない。ある意味では常識的なことである。ただしこのような認識は、治療がいわゆる左脳的な、知的で認知的なプロセスだけにはとどまらないということを再確認させてくれるであろう。治療における解釈も、認知行動療法的なかかわりも、あくまでも「上層階」で行われることである。そこには必ず下層階や基礎部分でのやり取りが係わっているし、それを意識しない治療者、自分の基礎部分を患者のそれにドッキングさせることをためらう治療者の場合には、患者はそれに気付くことになり、そこに物足りなさを感じるかもしれない。(もちろん患者がそれを望まないのにドッキングしてくる治療者は、今度は警戒されたり、侵入的と思われたりする可能性があるので注意しなくてはならない。)

2012年10月14日日曜日

第11章 愛着と脳科学 (3)


新皮質と愛着
愛着との関係で最後に登場するのは、新皮質についてであり、これはマクリーンの第三番目の脳に相当する。ただし読者としては当然次のような疑問を覚えるかもしれない。「動物でも愛着行動をちゃんと起こすということは、人間に特に発達している新皮質はあまり愛着には関係していないのではないか?」この答えはイエスであり、ノーである。そう述べる根拠をここに示そう。
  前章(第10章)では「無意識とは右脳か?」という問題を考えた。私たち人間や類人猿において顕著に発達している大脳新皮質は、左右半球でかなりその働きが異なる。そのうち左半球については、その存在理由はある意味ではかなり明確である。というのも人間は動物に比べてはるかに多くの情報を操ることが出来、また言語を用いることが出来る。左脳の大脳皮質の発達は人類にとってそのような意義を持っていたのだ。
 それに比べて右脳はどうか。右脳は情緒的、全体的、非言語的、直感的、関係的な機能をつかさどっている。そしてそれらの機能はおそらくより愛着に密接に関係していることが予想される。なぜなら愛着行動はまさに情緒的、非言語的、関係的だからだ。
 そこで次のような問いを立ててみる。人はこれらの大脳半球を有することで、より愛着行動を形成したり示したりすることに適しているのであろうか?答えは冒頭で述べたように、イエスでありノーなのだが、以下はその説明である。
まず大脳半球の存在は、愛着行動そのものを抑制することはないということだ。「いや人間の社会は愛着障害や育児放棄が起きているではないか」と言われるかもしれない。
しかし今年(2012年)7月に上野動物園で起きた、パンダの「シンシン」の育児放棄のことは記憶に新しい。育児放棄は動物界ではよくあることだ。種の保存の法則により厳密に従う場合には、少なくとも生存の可能性が低い子孫によりエネルギーを注ぐことは理屈に合わないことになる。だから動物園などではスタッフが子育てを放棄した親の代わりに子を育てるのに忙しいというわけである。
 人間の場合には大脳皮質という巨大なコンピューターを備えているわけだし、そこで処理できる情報は情緒的、非言語的なものも含めて多い。人間の子供を育てる為にはそのような母親の能力が役に立っているはずだ。ここは私の純粋な想像だが、人間の赤ん坊の顔を見ていると、その表情の豊かさに驚く。動物の顔を見ていても出てこない表情が顔のあらゆる表情筋を使って表される。これはそれを読み取って処理する母親の能力の高さをも反映していると考えるべきであろう。それは言葉の微妙なトーンを読み取る力もまた同様である。
しかし大脳皮質の発達は、さまざまな形で愛着の表現に抑制をかける可能性をも含む。日常臨床でしばしば患者から聞くのは、「幼いころ自分の感情を親に表現できなかった」という訴えである。言語というコミュニケーションの手段を有する人間は、それに頼りすぎて、それで表現しない部分を切り捨て、あるいは無視する危険性をも持つことになる。すると言葉で感情を伝えることが出来ない子供のさまざまな変化を、親は無視する可能性もあるだろう。子供の側の「こんなことを言っては親を心配させるのではないか?」という懸念もまた大脳皮質の産物である。その結果として自然な愛着や依存を表現できない子供がいることもまた確かであろう。
このように考えると人間の巨大な大脳皮質が愛着行動に示す影響についても、さまざまな可能性を考えなくてはならないということになる。