2021年12月7日火曜日

偽りの記憶の問題 3

  この偽りの記憶の問題、実は解離を扱う立場からは少し異論がある。このFMSの立場からは皆さんは長い間忘れられていた記憶が突然思い起こされるようなことはないと考えるかもしれない。そして通常はそういうことは起きにくいのだ。ただし数少ない例外は、その記憶が解離されていた場合である。解離における記憶の保存状況は通常の記憶とは異なる。それはしばらく「通電」されることなく眠っていた神経ネットワークであり、そのまま冷凍されていたという印象を受ける。これは例えば幼少時のトラウマの記憶を持った人格が起きだして当時の記憶について語るといった状況に近い。この解離性の記憶が通常の記憶とどのように異なるかを少し考えてみよう。通常の記憶は想起されるごとにいわば解凍され再固定化される。つまりは想起されることに書き換えられるという事である。すると想起されない解離性の記憶は書き換えられることなく、より正確に保存される????? というのが私の憶測であるが、私が専門家として論文を書いたりする立場である以上は安易に断言できない。というよりはこの辺の曖昧さをもう少し明確化できるようになるという意味でも、この記憶に関する論文を書く意味はあるのかもしれない。

  ところで記憶の問題について考えるが、私が一番これまで興味を持っていたのは、記憶の再固定化の問題である。つまり一度記憶されたことがさらに増強されたり、変更を加えられたりするという現象である。これについては東大の喜田 聡先生のグループの研究が有名であるが、彼らの最新の研究を何とネットで拾える。その日本語の報告を私なりに読みやすくして以下に示そう。(私なりにかなり書き換えてある。)

Fukushima, H, Zhang, Y & Kida, S. (2021) Active Transition of Fear Memory Phase from Reconsolidation to Extinction through ERK-Mediated Prevention of Reconsolidation. The Journal of Neuroscience 41:1299-1300.

  恐怖記憶を思い出した後には、恐怖を維持増強する再固定化が起きるか、消去反応かに分かれる。そしてその決め手となるのが細胞外シグナル制御キナーゼ(extracellular signal-regulated kinase; ERK)の活性化であることを発見した。ERKは再固定化から消去への分子スイッチとして働いていたのだ。

マウスを最初明箱に入れられ、暗箱に移動する際に電気ショックを受けて、暗箱に対する恐怖記憶を形成させた。この後、マウスが再び明箱に入れられると海馬、扁桃体、前頭前野で神経活動依存的遺伝子が発現し、再固定化が起きた。ところがマウスを暗箱に戻すと、一分以内では再固定化も消去も起きなかったが、そのときERKキナーゼの活性が起きていて、これにより再固定化が中止されたのだ。さらに10分入れると(消去のための???)遺伝子発現が起こることが分かった。一分でERKの活性化はキャンセルされた。さらに10分間滞在させると再び遺伝子発現が起こり始め、消去が起きることが分かった。すなわち、ERKの活性化を通じて再固定がリセットされることが示唆された。この分子スイッチの働きで、恐怖体験を思い出すだけでは震え上がることがなくなると言えよう。
 ERKの働きにより消去が起こりやすくなると考えられるため、PTSDの治療方法開発に貢献できると考えられる。

2021年12月6日月曜日

偽りの記憶の問題 2

 この偽りの記憶の問題となると決まって引き合いに出させる学者がいる。エリザベス・ロフタスその人である。以下に日本語判ウィキペディアの「エリザべス・ロフタス」の項目からまとめてみる。

 ロフタスの主張をケッチャムとの著書『抑圧された記憶の神話』(1994)から要約すると以下のようになる。

私は記憶の変更可能性についての権威だとみなされている。私は色々な裁判で証言してきたが、裁判に携わる人にこう警告してきた。「記憶は自在に変化し、重ね書きが可能だ。無限に書いたり消したりできる広画面の黒板のようなものであると考えられてきました。比喩的に言うならば、コンピュータ・ディスクや、書類キャビネットに大切に保管されたファイルのような形で記憶が脳のどこかで保持されていると誤解されてきたのです。ところが最近では、記憶は事実と空想の入り混じった創造的産物だと考えるようになりました。これが記憶の再構成的モデルと言われるものです。」
 ところでロフタスとワシントン大学は、2003年ににより、ニコル・タウをケーススタディとして扱った2002年の出版物に対し、そのケースであるタウ自身に訴えられたという。その訴訟においてはロフタスに対する21の訴状のうち20は「市民参加に対する戦略的な訴訟」として退けられたという。
 ロフタスは「回復した記憶の理論」への批判および記憶の性質と保育園などでの性的虐待の可能性に対する社会的恐怖の一部に見られた虚偽の児童性的虐待の主張について証言したが、そのためにネット上などでの誹謗中傷を受けた。それによればロフタスが悪魔的儀式虐待またはより巨大な陰謀の一部であるこれらの犯罪を隠蔽する仕事をしていたと断じた。「幼児と女性に対する犯罪を擁護する学者」として脅迫も相次ぎ、一時期はボディガードを付ける生活も送っていた。
 ロルフ・デーケンは、著書『フロイト先生のウソ』にて、「『ほんの些細な暗示によって記憶が書き換えられてしまうことから考えても、過去の出来事の映像がそのままの形で記憶のなかに保存されているなどということはまったくあり得ない話である』と心理学者エリザベス・F・ロフタスは指摘している」(文庫版199ページより引用)という形で彼女の発言を引用することで、「心のどこかに、過去の体験の映像が完璧な形で保存されている?」というフロイト流精神分析学における無意識の存在の否定の根拠の一つとしている。
 スーザン・クランシーは、著書『なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか』にて、「記憶の研究における世界的な権威であるエリザベス・ロフタスは、実際には起きていない心的外傷体験の記憶をつくりだした人たちの事例を数多く研究している。」と紹介することで、アブダクション(地球外生命体、いわゆる宇宙人に誘拐されたとされる事件)が偽りの記憶であることを示唆している。

さてこうやってまとめているうちにいろいろ私の中にも考えが浮かんできた。一つにはロフタスの主張は概ねその通りであるという事だ。記憶はしばしば書き換えられるだけでなく植え付けられることもある。記憶は脳にデータとして保存されているというわけではない。ただし多くの記憶内容は信頼に足るという点も事実である。つまり記憶は概ねにおいて現実を反映しているものの、細部に亘るに従い忘却されたり改変されたりする、というのが真実だ。そして後は程度問題であり、ケースバイケースである。とんでもないあり得ないストーリーを「想起」する人もいるが、それほど高頻度に起きることではない。かと思えばフォトグラフィックメモリーを誇り、教科書を隅から隅まで正確に再現する人もいる。だからロフタスの主張はそれを極論として用いるならばどちらも誤解を招く可能性があるのだ。特に政治的な利用のされ方をした場合には、そうだ。それにこの文章に出てくるロルフ・ゲーデンの本を日本語訳で読んだが、かなり信頼できないものという印象であった。

2021年12月5日日曜日

偽りの記憶の問題 1

 暫く依頼原稿が途絶えていたので、のんびり「解離における他者性」などと60回以上も書いたが、また新たなる原稿を書かなくてはならない。「偽りの記憶」についてである。私は米国においてPTSDや解離性障害についての関心が高まるさなかの1990年代はずっとアメリカで臨床をやっていたのだが、これらの関心にワンテンポ遅れる形で出てきたのが、いわゆるFMSの問題、つまり「false memory syndrome 偽りの記憶症候群」というテーマである。そしてあっという間にFMSF偽りの記憶症候群財団が出来上がった。ベタな言い方をするならば、米国人(もちろん欧州人も同じ傾向を持つが)は肉食系であり、物事をことごとくpolemic なものに仕立て上げる。そのことは新型コロナウイルスのワクチンを打つか打たないかという事でデモ行進や争いごとが起きるという事情を見れば明らかであろう。「え、そんなことで?」と私達なら思うようなことで彼らは意見を対立させ、訴訟を起こし合う。そしてFMSの場合もそれは同様だったのだ。それはこんな経緯で起きた。

幼児期の性的虐待の問題がクローズアップされるとともに、幼児期の性的虐待の記憶を呼び覚ますことを試みる心理士やソーシャルワーカーが現れる。そして幼少時に自分を虐待した親を訴える訴訟が生まれた。するとその中に幼少時に虐待を受けたという記憶を「誤って想起した(させられた)」ために甚大な金銭的、社会的損害を被った親たちが利益団体を形成した。

2021年12月4日土曜日

解離における他者性 64

 そもそもAさんと会ったはずなのに、Bさんという人格が出現した場合、そしてどう考えても私たちはいつものAさんと会っているはずだと思えるとき(高さは違っても同じ声、同じ顔かたち、など)私たちはおそらく「あ、Aさんじゃなくて、Aさんの部分だ!」とは絶対に思わない。(もちろんBさんが次のような自己紹介をしたならまた別であるが。「こんにちは。私はAの中の聴覚部分を担当しているA”です。普段は表に出てきません。」と普段のAさんと同じ声で語り掛けるのだ。そこで「きのう話したこと覚えているの?」と聞くと「昨日起きたことの中で聴覚に関係することしかわかりません…。」という答えが返ってきて、ああ、この人格さんはAさんの昨日の一部を担当しているんだ。だから人格部分Bさんなんだ、と納得するだろう。あるいはBさんは体の左側しか動かせず、右の方が麻痺していて「私はAの左部分です」と自己紹介をするなどの場合も、Bさんはいかにも「人格部分」っぽいと言えるだろう。ところがしばしばBさんはAさんにとって異性のような声や仕草を見せ、しばしばAさんを嫌っていたりする。そしてBさんもちゃんと五感が備わり、考えや判断を下すのだ。それがむしろ普通だとしたら、Bさんを「人格部分」と呼ぶ理由などあるだろうか?

結論から言えばこうだ。ふつう私たちは交代人格さんをどのように理解したらいいかわからない。何と呼んでいいかもわからないのだ。しかしテキストブックには「人格部分」などと書いてある。そこでそのように呼び、それに慣れていくのである。


2021年12月3日金曜日

2021年12月2日木曜日

解離における他者性 62

 

人を部分と見なす、とはどういうことか?

 

部分と見なす、という表現を書いていて、私自身もこの意味がよく分かっていないと感じる。私たちは恐らく交代人格にどのように会ったらいいかを本当はよく分からない。あるいは私がいま用いている「交代人格」とは何かという事が分からないし、そもそもその様な呼び方がふさわしいかもわからない。でもなんともほかに呼びようがないのである。別人格alter personality, alternate personality, alternative personalityや副人格という呼び方も昔はあったが、あまり最近は目にしない。専ら用いられるのは部分 parts とか人格部分 parts of personality という言い方である。私の考えでは、DIDの方との関係の中で出会う人格は、他に何と呼んでいいかわからない人格ではないかと思う。そこでとりあえずつけられた交代人格とか部分とかの呼び方をあまり深く考えることなく用いるのではないか。あるセラピストの方は、私が「部分 part」という呼び方に異議を唱えると言ったら、「では何と呼ぶのですか?本にもパーツと書いてありますよ」という反応だった。たしかにそうなのだ。どのような呼び方をしたらいいかがわからず、とりあえずその様な呼び方をしている先達を習ってそうしているだけかもしれない。 

ただパーツと呼ばれた人格さんの中には「私は部分じゃありません!」とか「どうしてパートと呼ぶんですか?」という反応をされる方もいるであろう。だから呼び方はやはりかなり重要な問題なのだ。そう反発したくなる気持ちもわかるだろう。もしあなたが例えば一卵性双生児の一人で、「貴方がたは二人で一人前なので、半分の人格にすぎません」と言われたら憤慨するだろう。というよりも「あなたは半分です」と言われたことの意味が分からないのではないだろうか。もちろん「あなたは半人前です」という言い方があるが、それはまだ十分に成長していない、という意味であり、「まだ幼い」、「子供の様だ」という意味であろう。しかし子供の心は大人の半分だ、という発想は恐らくないのである。大人の心を大きな円だとしたら、子供の心は恐らく小さな円であり、「半円」ではないはずである。

そこで半分、部分であるという言い方はある種のイメージに由来することがある。それは最初は丸だった自分が半分に分かれたという考え方だ。

 

2021年12月1日水曜日

解離における他者性 61

 まずは1から考えましょう。他者として見ずに、例えばその人自身の演技とみる。

 この演技という範囲は非常に広い。~と思い込んでいる。~のつもりになっている、というものを含むとしたら、どこまで「意図的」な行為かはわからない。そしてその演技の意図としては大抵が「注意を引こうとする」ため。というのが定番である。この最後の点については、以下の文章を約7年前にこのブログに乗せたことがある。2015111日である。

先日「プリズム」(百田尚樹、幻冬舎文庫、2014年、ただしオリジナルは2011)を手に取った。解離性障害をテーマにした小説である。本文を読む前に「解説」を読んだが、そこに書かれている某精神科医の言葉には本当に失望した。これを読むことでますます一般の人々のこの障害についての誤解が深まることは間違いない。

 私自身は、岩本広志のような「見事な多重人格」とは出会ったことがない。ただ、あたかも多重人格だけれども実はそれを装っているだけ(決して詐病ではなく、本人がそのように思い込むところに病理がある)といったケースなら何名か知っている。多重人格といういかにもドラマチックでしかも精神科医が関心を向けそうな症状を呈することで、自分自身をアピールしている。私はこんなに辛いんだ、こんなにユニークな私なのに(あるいはそれゆえに)世間は私を退ける、私はもっと注目され特別扱いされるべきだ―そんな気持ちが多重人格という大胆な症状に仮託されているのだ。(中略)こうしたケースに薬など無用である。人格変換という「派手な症状」にはあえてそっけなく向き合い、アピールなんかしなくてもあなたは十分言い切る価値があるし意味があるという事実を理解してもらうことに力を注ぐ。催眠療法とか精神分析などの込み入った療法を採用すると、むしろ本人は「多重人格である私」を肯定された気分になって勢いづいてしまうので、淡々と対処していく。・・・

 ちなみに私は「解離新時代」(岩崎学術出版社,2015年,pp.2-3)で以下のように書いた。

解離否認症候群は以下の6項目にわたる主張をほぼ全面的に受け入れるものである。

1.私は定型的な解離性同一性障害に出会ったことはほとんどない。

2.ただし自分を解離性障害という患者さんには何人かであったことがある。

3.自分がいくつかの人格を持つという主張はアピールであり、それを一つのアイデンティティと見なしている。

4.最善の対処の仕方は、人格部分が出現した場合に、それを相手にしないことである。

5.相手にしないことで、人格部分の出現は起きなくなる。

6.解離性障害はおおむね医原性と見なすことができる。