2020年3月15日日曜日

揺らぎ 推敲 15


デフォルトモードは瞑想状態なのか?

デフォルトモードネットワーク(DMN)を理解するうえでしばしば出会うのが、いわゆる瞑想状態との関連についての議論だ。デフォルトモードでは、心はぼんやり浮遊していて、何事の焦点を定めない。その状態はまるで瞑想のように思える。ところが瞑想はこのDMNとは逆の活動なのだ、という説明によく出会うのだ。瞑想にもさまざまな種類が提唱されているが、最近流行しているいわゆるマインドフル瞑想などは、むしろ心を浮遊させないような試みといえる。つまり心をDMNに向かわせないことが心身の健康に役に立つ、と説明されてある。しかし他方では、このDMNは人間が何か創造的な活動を行う上で決定的な役割を果たしているとの記載もされているのだ。
最近は脳科学の発展によりDMNに関する科学的な知見は沢山提出され、それぞれが得られた所見を論文等で発表するのだが、それらが示すものは時には矛盾していたり、つじつまが合わなかったりする。それらのデータをどのように理解して、少なくとも治療的な仮説を作り上げるかは、実はそれぞれの臨床家にかかっているのである。そこで以下が私の独自の理解である。
まず瞑想には「観察瞑想」と「洞察瞑想」という事なった瞑想が存在するとされる。観察瞑想は心に湧きおこってくる思考や感覚を観察するという。これはいわばDMNを高める瞑想といえる。そして洞察瞑想、あるいはマインドフル瞑想と呼ばれるものとは逆の瞑想という事になる。
ここで私が特に注目すべきと考えるのは、いわゆる「マインドフルネス瞑想」に関する研究である。まずマインドフルネス瞑想においては、心がある一つのことに注意を向け続けることで、心がそこからフラフラと一人歩きをしていくことへのブレーキをかけることが求められる。マインドフルネス瞑想でしばしば注意を向けるように促されるのが呼吸であり、たとえば鼻から唇にかけて息が吹きかけられるときの感覚などに焦点を向けることが要請される。通常人はそれをしばらくは行うことが出来るが、それはしばしば中断されてしまう。気持ちはそこから逸れて、他愛もない事柄に移っていくからだ。それはある意味では必然的な事であり、心とは実は一定の事柄に注意を集中するという活動と、そこから離れるという活動を交互に行っているのである。これはたとえば何かを注視している際にも、時々瞬目して注視を再開するという運動に似ている。(実際瞬目時はDMNが生じているという研究もあるほどだ Nakano et al. 2013)。
Nakano, T, Kato, M, Morito, Y, Itoi, S and Kitazawa,S (2013) Blink-related momentary activation of the default mode network while viewing videos. PNAS 110: 702-706.

2020年3月14日土曜日

揺らぎ 推敲 13


脳の全体の揺らぎがシンクロナイズすること

ここで一つ補足説明が必要かもしれない。脳の活動を理解する際に、ひとつの決め手はそこで生じている脳波がどの程度同期化しているかどうか、ということだ。脳波計は大脳皮質で起きているさまざまな信号を拾うのであるが、普通はそれぞれの部位がバラバラな活動をしている。ところがある事柄について、それを一つのもの、ないしは同じものと見なすという現象は、脳のある部分が一緒になって活動していることを意味する。例えばABが、実は同じ物体だということが分かった時、両者に関する信号は同期化するのである。
このことをもう少しわかりやすく説明しよう。私たちがある遮蔽物の上下で動く物体をみるとする。その際上下の物体は互いに別々の方向に動いていると認識されるため、視覚野においてそれぞれに反応している部位は、ばらばらの信号を出す。ところがその遮蔽物を通して、上下の物体まるがつながっていることが分かった場合、視覚野における上下の物体に反応した部位は、同期化する。つまりは脳波の位相(山と谷の位置)が一致するのである。(これに最適の図をどこかの本で見たが、あいにく見つからないので省略。)
 もう少し身近な例を出そう。小さいころ親しくしたAさんという友達がいるとしよう。そして20年後にたまたま出会った人が、しばらく話すうちに同じAさんであったということを知ったとする。すると幼少時のAさんに関する記憶と、目の前でそれまで別人と思っていたAさんに関する記憶は突然同期化をすることで重なることになる。その時私たちは「あ、そうか!」という体験を有することになる。すべての事柄がつながったという感覚、それまでバラバラにしか認識できなかったことが一つにまとまった体験。刑事事件でそれまで断片的であった証拠が、ある犯行の詳細が分かることですべて繋がった時の感覚。これを人はたとえば「ジクソーパズルのピースがはまった」という言い方をするが、感覚的にはその通りなのである。

揺らぎ 推敲 14

第1章 心のデフォルト状態としての揺らぎ

 まずは心のデフォルト状態、ということから考えたい。英語の「デフォルトdefault 」、とは不履行の、とか怠慢な、と言う意味を持つが、最近ではコンピューター用語での「初期設定の、手つかずの」といった意味の方が広がり、一般化している。心のデフォルト状態、と言った場合も、特に何も手を付けていない、何もしていない、と言う意味で用いることが多い。
 これまでの議論では自然も、生命現象も、そして神経細胞も最初から、何もしなくても揺らいでいる、という話をした。そしてそれは心そのものについても当てはまる、という話から始めたい。そう、心はデフォルト状態から揺らぐ、と言う仕事をしているのだ。
 そもそも私たちの脳は、「何もしない」「ないも考えない」という活動は許されない。少なくとも脳は何もしていなくても、莫大なエネルギーを消費して「活動」を行っている。それは現在の脳科学では常識になりつつあるが、その知見も比較的最近になって得られたことだ。
脳科学者ゲオルグ・ノルトフは、以下のように記載している。
脳はいかに意識をつくるのか―脳の異常から心の謎に迫る ゲオルク・ノルトフ (著), 高橋 洋 (翻訳) 白揚社、2016年

 人間の中枢神経系は、何もしていない時、安静にしていて何も考えていないような時でも自発的な活動をしている。それは脳の中央部に集中した領域で、彼が「正中線領域CMS」と呼ぶものである。そしてそこでの活動は「安静時活動resting-state activity」と呼ばれる。
 ノルトフ先生によると、この安静時活動を脳波という形で記録すると、その波形は非線形的であり、非連続的、予測不可能なものとして特徴づけられるというのだ。これらの表現は一見分かりにくいが、簡単に言えばその波形は決して単純な繰り返しではなく、一回ごとに異なり、また次にどのような方向に動いていくかがわからない。つまりはまさに「揺らぎ」の性質を持っているということになる。そしてこのような視点から心のあり方を考えるのが、彼らの提唱する「神経哲学neuro- philosophy」という分野であるという。
 ここで安静時活動というものの意味についてもう少し説明しよう。従来は、精神の活動は外界からの刺激に反応することにより確かめられていた。本来主観的な世界での出来事は客観的に記述することが出来ない。だから心の働きを外界からの刺激に対してどのような反応を見せるかという観点から観察するというアプローチが心理学において主流を占めていた。そのことの名残もあり、脳は外からの刺激に反応をする以外は、静かに何もせずに休んでいるものと思われがちだった。しかし決してそのようなことはなく、休んでいるように見えても、活発な活動を行っていることが最近のfMRIなどの研究によりわかってきたのだ。

2020年3月11日水曜日

揺らぎ 推敲 12


1章 脳は揺らいでいる

話は脳波を発見したドイツの神経学者ハンス・ベルガーに遡る。もう100年も前の話であった。彼は人間の頭皮に電極を付け、きわめて微小な電気活動が起こっていることを発見した。ごくごく小さな揺らぎの発見である。そして彼は1929年の論文で、「脳波を見る限りは、脳は何も活動を行っていない時にも忙しく活動しているのではないか」という示唆を行った。何しろ脳波を見る限り細かいギザギザが常に記録されているからだ。もしこれがフラットに(一直線に)なってしまったら、それは脳が死んだことを意味するくらいである。
しかし世の医学者たちは、脳波が癲癇の際に華々しい波形を示すことに注目したり、睡眠により顕著に変わっていく波形の変化に注目する一方では、それ以外の時にも絶えずみられる細かい波のことは注意に止めなかった。ここで皆さんは雑音ないしはノイズについての議論を思い出すだろう。ノイズはそれが揺らぎとして抽出されるまでは、ごみ扱いされるという運命にあったと述べたが、それは脳波でも同じだったのだ。
 以上、神経細胞という単位ごとに、そこで発生する電気的活動の持つ揺らぎという問題について論じた。しかし脳の活動全体を考えると、一つ一つの細胞自体は極めてローカルで起きている出来事と言えよう。私が何度か用いた地震の比喩を取り上げるならば、脳の活動全体が中等度の地震のサイズだとすると、神経細胞の電気活動は、それこそ砂粒にたとえられるだろう。しかし巨大な岩盤の揺らぎである地震が実は砂粒の動きと連動しているのと同じように、脳の活動も個々の神経細胞の活動に帰着することができる。ただそのスケールがあまりに違いすぎるので、神経細胞の揺らぎから心の揺らぎを論じることにはあまりにも大きな話の飛躍がある。
William Calvin "the Cerebral Codes" より

心の揺らぎについては第3章で論じるとして、ここでは神経細胞の揺らぎに話をとどめておきたいが、次のレベルとして私が挙げるのが、大脳皮質の円柱、コラムという単位である。
神経細胞 → マイクロコラム(円柱) → 機能円柱 → ~野(運動野、など) → ~葉(前頭葉、など)

大脳皮質は厚さ2.5ミリほどであり、それが6層の構造からなる。このコラムは大脳皮質のいたるところで見られる。感覚をつかさどる一次体性感覚野や、運動をつかさどる一次運動野などでもそうだ。直径0.5mmほどのコラムには 約10万個もの神経細胞があるが、その詳細な構造や機能はまだよく分かっていないという。
その構造をもう少し細かくみると、「ミニ円柱(minicolumn)とよび、2540μmほどの大きさの集合であることがわかる。人間の大脳には200億個のニューロン2億個のミニ円柱があるというから、その数はとほうもない。
1つのミニ円柱は約100個ほどの神経細胞により構成される。さらに、このミニ円柱が100個ほど集まったものが機能円柱と呼ばれるものだ。つまりコラムは、神経細胞の10010000個の塊で、地震の比喩では小石くらいの大きさの塊と考えることができる。

2020年3月10日火曜日

揺らぎ 推敲 11


「カオス」と揺らぎ、予想不能性

 以上「カオス」についてごく簡単な紹介をしたが、本書で論じている揺らぎのテーマと「カオス」について確認しておきたい。
ひとことで言えば揺らぎの予測不可能性は「カオス」の性質に由来するということだ。
たとえば次の数字の列を見ていただこう。
19,864.09 20,812.24 20,663.22 20,940.51 21,008.65 21,349.63 21,891.12 21,948.10 22,405.09 23,377.24 ・・・
やたら小数点以下が多いが、先ほど見た「定常状態にならない」「繰り返さない」システムという定義で見たような「カオス」的な動きを見せている。そしてこの数字は2019年の一月からのダウ平均株価の月ごとの値だ。
第○○章で、揺らぎの典型例として株価の上下運動を挙げたことを思い出そう。その動きは予想が付きそうで、しかし時には大きくそれを裏切る。結局どこに向かっているのか分からない。そしてそれは二重振り子や三体問題に見られるような振る舞いに似ているのだ。それはなぜだろうか?
「カオス」の場合は決定論的でなくてはならない。三つの天体ABCはある時点でそれぞれがどのような力を及ぼしているかについて、少なくとも曖昧さはない。なんとなればPC上でシミュレーションをしてしまえばいいのだ。それでも結局動きはバラバラだ。二重振り子の関節部分や、天体Aのシルエットを追ってみれば、まさに「揺らぎ」を見せるはずである。
それでは実際の実験室で行ったらどうだろう? 間違いなく余計「カオス」的になる。「カオス」的、と言うのは、たとえば液体の中で、あるいは宇宙船内で無重力状態を無理やり作ってもどこかでノイズが加わり、あるいは理想的な真球A,B,Cを実際に作ることも不可能だからだ。だから既に決定論的であるという「カオス」の定義を満たしていない。そして三体それぞれが互いに及ぼす微妙な力はますますそれ以外の外力の影響を受けてしまい、仮想上見られる「カオス」よりさらにバラバラで予測不可能になるだろうからだ。
ましてや株価の動きのように、複数の人間が互いの心を読み合うという事態では、仮想的な状況よりもはるかに大きなノイズが加わる。
 結局本章で私が示したかったことは次のようなことだ。ここ半世紀の間に急速に注目を浴びるようになった「カオス」という概念は、科学は、特に数学的では未来を予測できるという楽観的な見方を打ち砕くという意味があったのだ。
皆さんは19世紀初頭のピエール=シモン・ラプラスによる「ラプラスの悪魔」という概念をご存知だろう。当時はニュートン力学により、様々な自然現象が説明できるようになり、「全ての出来事はそれ以前の出来事のみによって決定される」と言ういわゆる決定論や、「原因によって結果は一義的に導かれる」という因果律が唱えられるようになっていた。さすがに科学者たちはそのような考え方から離れては来ていたが、それは「理論では結果は分かっていても、現実はそうはいかない」程度の認識でいる人たちも多かった。現代でも科学に興味を持たない人の多くは同様の考えを持っているかもしれない。しかし「理論上も原因によって結果を知ることが出来ないことがある」ということを示したのが「カオス」の存在だったわけだ。本書では脳について(第二部)、そして心について(第三部)揺らぎについて論じていくが、予想不可能性の度合いはいよいよ増していくと言わざるを得ない。しかし重要なのは、実は理論上も予想不可能な性質を有するのが、この世界であるという世界観を共有しておきたかったのである。


2020年3月9日月曜日

揺らぎ 推敲 10


一番のストレンジアトラクターとしての恋愛体験

恋愛もまた典型的なストレンジ・アトラクターを形成する。ある男女のカップルを例に取り、その所在地を地図上で追ってみよう。おそらく上に見たローレンツのアトラクターに似たような動きを見せるはずだ。
やがてカップルとなる運命にある二人は、最初は別々の場所で生まれたはずだ。だから両者はそれぞれの地元のあたりをうろうろするだろう。ほとんどは自宅と学校の往復運動をするかもしれない。そのうちどこかで出会って(たとえば大学のサークルの集まりとしよう)、それから週に一度ごとにいっしょになる(デートというわけである)。週に一度合流する、それ以外は自宅と学校の往復運動という軌跡を示すだろう。そのうち両者はずっと一緒の場所にいる時間が長くなり、時間も共にすることが多くなる。つまり同棲ないし結婚したわけだが、これはかなり明確なアトラクターという事になる。
 しかしこのアトラクターが面白いのは、いったん一つのアトラクターに収束したらそれでおしまいかといえばそうとも言えないという点である。10年たってみたら、あれよあれよという間に二つは離れ、しばらくして別のところで互いに地元に戻り、大学以前のそれぞれのアトラクターに近い形で収まるかもしれない。
以上は異性同士の行動をマクロ的に見た場合のアトラクターのあり方であったが、両者が行う生殖行動もかなり独特で強烈なアトラクターである。そして生殖行動については、もちろんこれは人に限ったことではない。生殖を営む動物一般についても同様のことは言えるのである。
 しかしなぜ生物はこのようなアトラクターを有するのか、という疑問を持つことにはあまり意味がない。そのようなアトラクターを有する個体が種を保存し得て現在に至っているのだ。そのような意味では現在存在している生命体はことごとく色好みの遺伝子を有しているのである。私たち(と言っても動物代表として、である)はおそらく異性をアトラクターとして選択し、一定の行動を取るようなプログラムを備えていて、それにしたがって生殖活動を行っていく。ただし異性がアトラクター(惹きつける人)というだけでなく、その行動そのものがアトラクターなのだ。一連の生殖行動を行うとき、動物は普段とはまったく異なる振る舞いをする。普段は近づかない異性に接近し、普段は取らない行動を起こし、それが最終的に遂行されるまでは一心不乱にそれに従事する。その間は天敵に狙われ命を落とす可能性は限りなく増幅するが、それは命を賭してでも行わなくてはならない。いったい何がそのような特定の、普段とはかけ離れた行動へと誘うのだろうか?
Andreas Bartels and Semir Zeki
2000The neural basis of romantic love.11:
3829-2834
ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの研究者 Semir Zekiは、人が好きになった相手のことを考えているとき、脳でどのようなことが生じているかを調べたが、その研究結果が興味深い。MRIスキャンの結果、人は夢中になっている相手の写真を見せられた時、大脳皮質の前頭葉が抑制され、批判や疑いといった心の機能がストップすると伝えている。前頭葉は人間が判断(行動選択)を行う重要な部分である。また恐れを感じる扁桃核も抑制され、その代わりに快感を生み出す報酬系が活性化される。つまり生殖行動というアトラクターに嵌っている最中は、それが心地よさを与え、それが危険であるという可能性を忘れさせるような脳のメカニズムがはたらいているのだ。その意味では上述の嗜癖としての要素をそれだけ多く持っていると見ていい。

2020年3月8日日曜日

揺らぎ 推敲 9


べき乗則を可視化してみる
  
べき乗側について一言で言えば、ある値の規模が単調に大きくなるにつれて、それに対応する値がグングン、級数的に、つまり10のn乗倍として変化していくということだ。そしてべき乗側がこの世を支配する、ということは私たちの生活にこのような例はいくらでもあるということだ。
たとえば私たちが有する所得について考えよう。例によって人が持つ所得の行列を考える。するとおそらくほとんど一文無しの人の列が延々と続いて、たまに小金もちが並んでいる。かと思うとごくごくまれにそこそこのお金持ちがいる。そしてその額によってそのお金持ちのレア度が増していく。ごくごくまれに億万長者が混じっている。
あるいはCDを売れ行き順に並べる。すると自費で出した売れないCDの列が延々と続き、時々ヒットが混じっている。そしてヒットの大きさと同時にレア度が増していく。それらを暇な人が売り上げ順に並べると、以下のような表ができる。これがいわゆるロングテール(長い尾)の図式で、左端に行くほど天体の大きさ、所得の大きさ、CDの売れ行きは大きくなり、該当する天体、人、CDの数は莫大になる。他方右端はおそらくとんでもなく永遠に続いていく。
この説明からわかることは次のことだ。揺らぎとは、この表に現れる値(所得、CDの売れ行き、天体、など)を順不同に、あるいは値に関係ない順、例えばアルファベット順に並べたようなものなのだ。世の中の大部分の人は低所得で、その額はどんぐりの背比べだ。でも時々そこそこに高所得な人も交じってくる。それが揺らぎなのだ。小川のせせらぎなどはこの部分だし、風に揺らめくカーテンや旗もこの部分に相当する。日常はこれがほぼ永遠に続くように考えられるので、これを「揺らぎ」などと、のんびり表現しているわけである。
ところが実際はロングテールの頭に属する部分も時々顔を出す可能性がある。だから揺らぎは突然巨大化する可能性を持っているのだ。揺らぎはどんなに波のように見えても、正確な正弦波や同じサイズのジグザグではない。それは時に大きく、時に小さくなり、突然とんでもない大きさの揺れを可能性として含む。ここで「可能性として」というのは、それは実はめったに起きないからだ。でも起きる時は起きる。そんなことが起きてもおかしくないことを予告するかのように、揺らぎは最初から不規則で、ある意味では予想が不可能なのだ。ここら辺、株価の動きに敏感な人は良くわかるだろう。
地震の話に戻って考えよう。地面は常に揺らいでいる。それはおそらく地殻のどこかで小さな岩がずれるということが起きているために起きる。つまりはプレート同士が少しずつズレながら動いている、という、ある意味では不安定な状況が生じているからだ。(地殻やプレートが全く動いていないのであれば、地震など起きようもない。)