2026年9月23日水曜日

エナクトメントについて 1

 Tジェイコブスの論文以来、エナクトメントは北米での理論と考えられているが、そこでの単一の概念は存在しないとも言われる。決して一枚岩の概念ではないのだ。それぞれの論者が異なる意味で用いているのが現状である。  歴史的にも押さえておかなくてはならないのが、エナクトメントは無意識的な事柄が意識化されることなく行動に移されたという、いわばアクティングアウトと同類の概念として扱われる傾向があり、それは当分続くであろうということだ。つまりそれはそのままでは分析空間を破壊ないし侵害するものだというニュアンスを伴い続ける。 IPAの「IRED」のエナクトメントの項目にも、ラテンアメリカでは、エナクトメントは発散や行動で分析的フィールドが侵入 invade されることとして論じられていると述べられている。つまりよくないこと、解釈などにより解消されなくてはならないこととして扱われているのだ。ただしそれがジェイコブスの論文により、治療者の側からも生じるという認識が生まれ、それがより臨床的な形で論じられるようになったということであろう。

 ただし私自身が考えるエナクトメントの潜在性はそこにはない気がする。エナクトメントが何かを伝える可能性を持つこと、としてそのために何らかの「セカンドルック(見直し)」がなされる対象であるということには同意する。しかしそれが取り除かれるべきもの、という考え方には納得がいかない。それはむしろ常に起きていて、機会があったら見直しをすることでより豊かな何かを創造する可能性を秘めているということだ。そしてそれは半ば必然的に、治療者の側の「あれ?やってしまったかな?」的な気づきを伴う。何しろ患者の側の言動について「あれ?彼は何かやってしまっているかな?」は明確化や直面化などの対象になるだけであり、エナクトメントは呼ばないであろう。エナクトメントは、治療者の側の「何が起きているのだろう?(そして自分はどうしてこんな反応をしているんだろう?)」という体験を必然的に伴うわけである。その意味で「エナクトメントは治療者の側から生じる」というのはある意味では正しい理解になる。同じ現象が患者の側から生じても、それはエナクトメントと呼ぶ必要がないという意味で、である。それはほぼ確実に治療者の側の「あれ?」を持って始まるのである。そしてその「あれ?」という気付きはそれが起きない限りは非治療的かと言えばそういうわけではない。  ある例を出そう。ある時ある患者が「先生は私のことを真剣に聞いてくれていませんね」という。それに対して治療者一瞬はムッとした。もちろん表情には出さなかったが、その患者の言葉に対しての頷きは少し遅れたであろう。  この「ムッとした」はエナクトメントと言って差し支えないだろう。でもこれは治療者の無意識の何かがそうさせたのであろうか? いや、実はその治療者は「どうしてムッとしてしまったのだろう?」とは思わない。ムッとした理由はとてもはっきりしている。というより相手に責められていい心地がしないのは普通のことだ。しかしおそらくこのエナクトメントは俎上に上らない。このままでは使い道がないからだ。それは例えば患者の「あれ先生、気分を害したのですか?」という反応を待って、すなわち治療者のエナクトメントを患者の側が感じ取り、それを何らかの形で表明したことで使えるようになる。「先生、気分を害しましたか?」という言葉は必ずしも必要でないが、治療者の情緒的な反応が患者に伝わった何らかの印が必要になろう。そのやりとりで二者の間でいわば情緒的な連鎖が生じる必要があるのだ。  さてここからが私が通常のエナクトメントの概念と恐らく異なるイメージを持っている点だ。私はこれが俎上に載せられ、患者と一緒に観察されることに意義があると考える。それが治療者の側の何を意味しているかという探索は、大切ではあるが、第一義的ではない気がする。それはどういうことか?