2019年9月7日土曜日

書くことと精神分析 推敲 9


新たな説を唱える余地などあるだろうか?

最後に私が論じたいテーマは、著作の独創性についてであるが、これは著作に限らずもちろん論文一般についてもいえることである。最近論文や著書を書くということについて諸先輩や同僚や学生から異口同音に聞こえてくる声があることに気が付いた。それは「論文や著作では独創性が求められるわけだが、そもそも私たちにそのような余地は残されているのだろうか?」という声である。「精神分析に関して高名な先生方が膨大な著作を残しているのに、一介の療法家である自分にこれ以上新たな発想など生まれるのだろうか?」という考えである。
私も著作の独創性に関しては、まったく同じような懸念を有する。しかし他方ではそこにはひとつの思考上の歪曲が含まれている気がする。私たちはしばしば「自分たちには独創的なものは生み出せないのではないか?」という考えに捉われてしまうのだが、分析的にいえばこれは私たちが先人の著作に対して持つ転移現象のようなものではないかと考えるのだ。
一般論から言えば、ある学問や理論について学ぶ立場に身を置くと、私たちは先人によって書かれていることがことごとく真実であるという錯覚を起こしがちである。特にそれが高名な学者の書いた文章であれば、なおさらである。私たちはそれらの著書を読んで、意味不明だったり、すぐには納得出来なかったりする場合、たいていは私たち読む側の予備知識の不足や理解力のなさのせいだと考えがちだ。するとこの分野で最先端を行っているこの先生の論文をまず十分に理解することなしには、その先を切り開くことなど到底無理だ、と考えてしまう。そしてその論文を半分も理解できていないのに、そこから先に新たな議論を展開することなど不可能と考えてしまうのだ。しかしそこには発想の転換が必要である。他人の書いたものを完全に理解して納得することは土台無理な話なのである。
このことについて考えるために、私たちがバイジーや担当している学生や後輩の論文を読むときのことを思い出してみよう。あるいは査読を経験した方の場合はその方がよりわかりやすいかもしれない。私たちはそこで読みづらい部分や意味の取れない部分に出会うと、たいていは書き手の側の表現力不足や勝手な思い込みが原因だと思うだろう。この場合私たちは逆に書き手の技量を疑い、批判的に読むというスタンスを取っていることになる。
しかし実際の文章はそれが著名な理論家によるものでも初学者のものであっても、ある種の独創性と思い込みと表現力不足との混じり合ったものであることには変わりがない。そこには読みやすく、論旨が通っている部分もあれば、矛盾を含み、再考や編集のし直しを必要とする部分もある。だからどれほど偉大な大家が書いたものでも、書き手の側のせいで理解が難しいということは往々にしてありうるのだ。そして興味深いことに、精神分析の大家の文章は、そのような矛盾や思い込みを、それだけ多く含む可能性すらある。なぜならその理論が認められ、その道の大家として扱われるようになった彼らの文章は、半ばノーチェック状態になり、誰の査読も経ずにいきなり活字になってしまうという可能性があるからだ。そこにはその大家の自由で独創的な思考が反映されるであろうが、矛盾を抱えたり推敲が不十分だったりするような「ユルイ」部分も活字になっている可能性がある。そしてそれらの部分に対して先ほど述べたような「この先生が書いてあることには間違いはない筈だ」という錯覚が働いてしまう場合がある。
しかし初学者がその「ユルイ」部分についても必死に意味をつかもうとする努力はあまり報われないだろう。初学者はその大家の文章のうち、その独創性が一般的な評価や理解を得られている部分に注目し、その理論の先を開拓していかなくてはならないのである。そしてその大家の著作の「ユルイ」部分については、クエスチョンマークでも付けておいて理解を保留にして置けばよいのだ。
ただし大家の作品の筆の滑りや矛盾点は、後世の分析家にとっては、その大家に批判を加えたり、そこから新たな発想をもらったりするきっかけともなるという意味では貴重である。S.フロイトは非常に多くの著述を残したが、その多くは彼の一筆書きのようなところがあり、その結果として多くの突っ込みどころを残してくれたと考える。そしてその意味でもフロイトは後世の分析家たちに偉大な遺産を残してくれたのだと思う。
この「自分たちが独創性を発揮する余地は残されているのか?」という件に関し、一つ示しておきたい視点がある。私たちはことごとく異なる脳を持ち、異なる心を持ち、誰一人として同じ思考回路を持ってはいないということだ。その意味では私たちが一人の人間であるという事はすでに独創性の萌芽を有しているという事でもある。私達の独創性ははじめから可能性としては存在していて、しかしそれはさまざまな諸条件により不活性化されているだけだという視点である。
たとえばあなたがある分析家A先生の理論に共鳴して、その分析家の論文に感動し、そこに書かれていることにことごとく同意するとしよう。しかしあなたはそれを何度も読み、自分の日常生活や臨床活動に応用した場合に、結局は幾つかの矛盾点や改善するべき点を見出すはずだ。それはあなたがA先生より優れているから、というのではなく、ただ単にA先生と異なる心を持っているからである。するとA先生の著作の矛盾点を見出した時点で、あなたはA先生の理論を下敷きにした独自の論文を書く準備が出来ていることになる。あなたはいわばA先生という分析家の肩の上に載って論文を書くことになるのだ。
ただしあなたはまた、A先生の理論を読んで持った疑問点が、すでにB先生という分析家によりすでに指摘され、扱われていることに気が付くかもしれない。すると今度はB先生の論文を精読することで、結局はB先生の意見とも異なる部分を見出すはずである。なぜならあなたはB先生とは異なる心を持った人間だからだ。すると今度はA先生の肩の上に載ったB先生のそのまた肩の上に載った論文を作成することになる。ただしもちろんB先生の肩に先に載っていた分析家C先生が、あなたと同じ論旨の論文を発表している可能性を十分に考えなくてはならない。そして場合にはあなたは今度はC先生の論文を精読し、そこに不満点や矛盾点を見出すことになるだろう。
このような形で論文が執筆される場合に大いに助かるのは、文献の渉猟という問題の半分はすでに解決されていることだ。なぜならB先生やC先生の論文の最後にはカバーすべき主要な論文の多くがすでにリストアップされているからである。そこにあなたが新たに持ち込む論文は、おそらくあなたの論旨を支えてくれるような本の数編の論文で十分かもしれないのだ。
もちろんこのようなことはおそらく自然科学の世界では起きにくい。ペレリマンがポワンカレ予想を証明した論文は、それを精読した数学者ごとに矛盾点や改良点が見つかるということはおそらくない。それは証明として正しいか間違っているかの二つに一つでしかなく、それを読んだ数学者がそれぞれの考え方や人生観により別のバージョンに書き換えられるということはおきないだろう。あるいは1953年にJ.ワトソンとF.クリックによるDNAの二重らせん構造が発表されたが、それを読んだ科学者がそれぞれの個性を反映した別のDNAの構造を提唱し始めるということもおきない。しかし人文科学、特に精神分析の場合にはその種の出来事は常に起きている。それは真理や事実の発見という事が自然科学とはおよそ異なるニュアンスを持っているからである。心理は常に多面的であり、それに対するアプローチは限りなくあるからだ。

2019年9月6日金曜日

解離性健忘について


1.解離性健忘について

解離性障害とは、患者が突然普段とは異なる人格状態になり、また突然元の状態に戻るという特異な現象を呈する精神疾患である。患者をA氏とすれば、彼は突然通常のA氏としての在り方とは明確に異なる状態を呈するようになる。すなわちAの持つ人柄や知識や記憶や判断力とは明らかに別な状態、いわば人格Bの状態にスイッチする。その切り替わり(スイッチング)は通常は極めて素早く、しばしばある種の知覚的な刺激が引き金になる場合が多いが、時には一見明確な引き金がなくても生じる場合がある。また人格状態のスイッチングは徐々に生じることもあり、いったんAが意識を失い、Bとして目覚める(あるいはその逆)という形をとることもある。治療者により催眠等によりスイッチングを誘導する際は、1,2分をかけてこれが生じ、その際しばしば患者は頭痛や眩暈を体験することがある。
このような現象を解離性障害と呼ぶが、時には意識状態のスイッチングの代わりに、ある種の身体症状(手足の麻痺、失声(声を失うこと)、失明、など)が急に出現したり、また収まったりという形で生じる場合があり、それは一般に「転換症状」ないし「転換性障害」とよばれる。いずれもどの程度の頻度で発生しているかはわかりにくく、それはしばしば周囲には気づかれなかったり、は当人たちがそれをことさら隠すことで確認されないことが多いからである。
解離性障害が典型的な形で現れるのが「解離性同一性障害」であり、これは従来「多重人格(障害)」と呼ばれていたものである。その障害では主として幼児期の虐待などのトラウマ体験が原因となり、人格B、人格C、人格D、・・・といった多くの人格が形成され、それぞれが異なる年齢や性別や記憶や性格を持った、あたかも異なる人物のように交互に入れ替わり、ふるまうという形をとる。しばしば人格Bが出ている時には人格Aは「眠っている」ために、Bがその間に持った体験については何も知らない。つまりAはBでの体験を健忘している(忘れている)ということになるが、実際には本当に忘れるという体験とは異なる。なぜなら人格Bの状態に戻った際には、彼は自分の持った体験を思い出すことが出来る(というよりは最初から「忘れて」いない)からである。また人格AはBが出ている時にも眠る代わりに「後ろから見ている」状態になることがあり、その場合はAはBがとった行動を、あたかも人事のように、幾分ぼんやりとではあるが記憶していることがある。ちなみにここで「眠っている」という表現の仕方をしているが、実際には意識が消失している状態であり、通常の意味で入眠している状態、すなわち刺激を与えれば起きる、と言った状態とは異なることは留意していただきたい。
このように解離性同一性障害(以下、DID) では、あたかも脳にいくつかの人格が共存するという不思議な現象が生じている。これらの現象が通常の私たちの体験とはあまりにかけ離れているため、DIDは実際には存在しない、あるいは患者はしばしば別の人格の演技をしているだけだ、と主張する精神科医さえいまだに存在するのが日本の現状である。(ただしもちろんDIDは米国やWHO (世界保健機関)の精神科診断基準にも掲載されたれっきとした精神疾患である。)
さていわゆるDIDではなく「解離性健忘」という状態では、どのようなことがおきているのだろうか。解離性健忘の場合も、一つの人格状態Aからもう一つのBへとスイッチングするということは生じるものの、人格BはDIDの場合ほどに明確な人格として成熟した形で姿を見せるわけではない。人格Bはその状態で出会っても言葉を話さなかったり性別や年齢が明確でなかったりする場合も少なくない。いわば原始人のような状態ということが出来る。
解離性健忘には一回だけ生じてそれ以降は再発がない場合と、何度も再発する場合がある。前者の場合はいわゆる「解離性遁走」という形をとることが多く、患者はある日突然人格Bの状態になり、ふらっと家や職場を出て、数時間から数日、時には数か月にわたって放浪し、旅先でふと我に返る。そして今度はそれまでの放浪していた数時間~数か月のことを思い出せない。つまりいったい自分がどうして見知らぬところにいるのかが分からず、本人も当惑し、途方に暮れて周囲の人に助けを求めるという形をとることが多い。著名人がこのような形で失踪した後に発見された場合はニュースに取り上げられることもある。また場合によっては本人がそれ以前の人生について思い出せずにそこであらたに生活を始めてしまうこともある。幸いなことにこの種の解離性健忘(解離性遁走)は再発することは少ないが、失われた記憶は永遠に戻らないことも少なくない。
再発するタイプの解離性健忘では、とつぜんBの状態になって短い失踪を繰り返すこともあるが、特に失踪はしないものの突然普段とは全く異なる行動を示し、ふと我に返るということを繰り返す場合が多いようである。その際には実は本件のように万引きが繰り返されるケースも少なくない。解離性健忘という病名が示す通り、通常はその問題となった行動の最中のことは後になっても全く思い出せないが、ぼんやりと思い出せる場合もある。そしてこれが本当の意味での健忘とは異なる点はすでに述べたとおりである。
再発するタイプの解離性健忘は、放浪や万引きなどの行為以外にもさまざまな形をとる。仕事中に手を休めてしばらくボーっとした状態で、その時にあったことを記憶していない、学校で授業を聞いていた時に解離が生じ、その授業の内容を覚えていない、というようなパターンの方がむしろ多いものと考えられる。それらのエピソードは大抵は周囲にも気づかれずに終わってしまう。ただしいちばん周囲に影響を及ぼし、また周囲の目にも明らかのは遁走や万引きなどということでそのような形での解離が目立つということになるだろう。

2.解離している際の人格状態

解離性健忘の場合、解離中の人格状態Bは、明確で成熟した人格の形をとることが少ない。通常のAのような判断力は持ち合わせず、衝動的で短絡的な、あるいはパターン化された行動を無反省にとることが多い。(明確で成熟した人格が一定のエピソードを繰り返す場合は、むしろDIDにおいてある人格が確信犯的に、何らかの目的でそれを繰り返しているケースと見なすことができる。ただしBの状態でA当人にしかわからない情報を用いてATMから暗証番号を入れてお金を引き出す、という複雑な行動を示したり、その行動の証拠となるようなものを破棄したり、携帯の履歴を消し去るというような複雑な行動を示すことがある。しかしそれでも長期的な計画やそのための準備をするといった様子は見られない。失踪中のBの行動には予測が付きにくいことが多いが、時には以前精神的なトラウマを受けた場所に向かったりする場合もある。
万引きを繰り返す際の人格Bについて言えば、たいていは判断力は十分ではなく、短絡的である。盗んだ商品を隠す様子もなく(つまり盗んでいる、という自覚もなく)そのままレジの横をスタスタ歩いて出ていく、あるいはその商品自体が高価なものではなく、それを万引きしなくてはならないような経済的な事情が見当たらないという場合も多い。このようにBの状態では万引きをすることで失われる社会的な信用などを顧慮する様子も見られず、そもそもAへの気遣いや、自分たちが運命共同体であるという自覚に乏しい。その意味ではまるでロボットの様にふるまっているような印象も受ける。これはいわゆる心神耗弱や心神喪失状態に相当するといえるだろう。
 ちなみにこの人格Bの状態は、専門用語では「解離性トランス」とよばれる状態と理解される。解離性トランスとは、「直接接している環境に対する認識の急性の狭窄化または完全な欠損によつて特徴づけられ、環境刺激への著明な無反応性または無感覚として現れる 無反応性には,軽微な常同的行動(例:指運動)を伴うことがあるが、一過性の麻痺または意識消失と同様に、これにその人は気づかず、および/または制御することもできない。」と米国精神医学会の発行しているDSM-5という診断基準に定義されている。

2019年9月5日木曜日

あるトリビア どうして「イッカク」の角の蒐集が難しいか

 今日は何も書く暇がなかったので、どうでもいいトリビアである。先日「イッカク」について書いたが、どうも気になっていた。どこかに「あれ、一本欲しいな。」と思っていたりする。特に収集癖がある方ではないが。実際にイッカクの槍がネットで売買されているのも確認した。しかし何と輸送中に破損してしまうことが多いらしい。そうか、だから一角の槍の蒐集家ってあまり聞いたことがないのか。それにしてもどうしてシカや牛の角のように頑丈ではないのか? どうしてイッカクの槍はもろいのか。いろいろ妄想は膨らむ。そして以下は私の至った結論である。想像だが恐らくあたっていると思う。
イッカク再登場!
イッカクの槍は実は片方の歯(おそらく犬歯?)だけが巨大に伸びたものであり、もともと神経が通っていたものだ。そう、私たちの歯と同じだ。敏感なのである。そしてそれを魚の群れの中で振り回すわけだ。お、今3匹当たったぞ、などと感じられるのだろう。ところが一角を捕まえてそれを採集するために折る、という事は当然神経も切断される。すると神経を抜いた歯になるわけだが、私たちの多くは、神経を抜いた歯がいかにもろくなっているかを知っているだろう。(虫歯を経験した人ならわかる話だ。)要するにイッカクの槍はもともと神経が通っていない象牙や鹿の角などと違って、採集をした時点でどんどん脆くなって行ってしまうのである。ネットでは数十万の値がついているが、それでも集めている人はいるのかもしれないが。
しかしこんなことを知ったところで何の得にもならない。だからトリビアなのだ。
それにしても甘い物好きのイッカクが虫歯になったら大変だろう。クラウンを被せるとしても、相当高価なものになるだろう。

2019年9月4日水曜日

ランダム性の支配する世界と揺らぎ 追加

物質と細胞をつなぐランダムウォーク

 ところで水に垂らした墨汁の微小な炭素の粒はもちろん無生物である。それはしかし極めて微妙なランダムウォークを繰り返している。では細胞内をうごめくタンパク質が行っている揺らぎや震えを考えてみよう。これは生物なのだろうか? これは微妙な疑問であろうし、もちろん答えなどでない。もちろんたんぱく質の分子だって無生物だ。しかしそれが独特の揺らぎを伴った動きによりある種の働きを担うのが、細胞内であり、それはれっきとした生物に属するとしたらどうだろう? それはもう生物とも無生物ともいえない分野である。いわば細胞は物質と境界を接しているエリアであると言っていい。
大学の私のオフィスの地下は(物質-細胞統合拠点)アイセムズ iCeMS (Institute for Integrated Cell-Material Sciences)という施設が陣取っている。この建物の地下の半分がアイセムズであり、残りの半分は我らが心理相談室という臨床系の相談室であるという事実は、この大学の中で起きている動きを象徴しているように思う。昔ながらの心を扱う臨床心理学の分野では、人が心と心を通わせるという地道な作業が繰り返されている。しかしその隣ではまさに生物と物質の境目の研究がおこなわれている。
さてこの二つの相容れない(と考えられていた)分野を結ぶ現象の一つとしておそらく揺らぎが意味を持つ。そしておそらくは水 H2O も、と私は言いたい。なぜ水であり、揺らぎであろうか? それは水がものを溶かすうえでの最高の媒体だからだ。多くの物質が水に溶けるが、溶けるという事はその中で揺らぐという事だ。そして揺らぎの中で初めて物事は進行していく。そしてその進行の極致が生命体とも言えるだろう。水という媒体の中で揺らぎが生じ、そして雷というスパーク、そして隠し味としての鉱物の分子が介在することでアミノ酸が生まれ、核酸が生まれ、RNAがたまたま生じ、それが生命体となって発展したと考えられている。そして物質の形成は分子が揺らいでいることで初めて成立する現象という事になる。
こんな風に考えよう。ある媒体(水でもいい)の中にたくさんのレゴブロックの塊が浮かんでいる。水と同じ比重に作ってあるので、浮くことも沈むこともない。ブロック同士は緩やかに引き付け合い、ぶつかり合う傾向にあるとしよう。しかしそこからブロックの新たな組み合わせや分解が起き、さまざまなブロックが形成され・・・・・。それは絶対にありえない。ブロックたちはただプカプカ漂い、時々ぶつかるだけだろう。
そこでこのブロックたちにある種の細工を加える。ブロックの一つ一つがブルブル震えるような仕組みを持っているのだ。すると様々なことが生じる。ブロックの塊ごとの接触の頻度が格段に高まる。それだけでなく、レゴブロックの塊を構成しているブロックどうしが、実はわずかな隙間を残して震えており、付いたり離れたりを繰り返しているではないか。つまりブロックの塊と言ってもそれぞれががっちり組み合わさっているわけではないのだ。それとブロックの塊自体が全体として揺れ動いている。固まり自体が何か周囲から押されてランダムウォークを行っている。今ここにあったと思っていたブロックの塊はあっという間に遠くに離れていってしまう ・・・・。
さてここでレゴブロックに対して私は魔法をかけたわけではない。単に縮尺をおよそ10-8程度、つまりナノの世界にしてみただけである。そしてレゴブロックを酸素や水素や窒素の分子に見立てている。そこでは揺らぎはいよいよ際立ち、それどころか媒体の水分子もまたブルブル震えているのである。

2019年9月3日火曜日

書くことと精神分析 推敲 8


精神分析の原著論文でいかに独創性を盛り込むかについては、何をテーマに選ぶかも非常に重要になってくる。これまであまり論じられていないテーマを選ぶことはワクワクするような楽しみを感じさせる一方では、テーマとしてふさわしくない、と却下される可能性がある。面白い、と言ってくれる査読者と、なんじゃこりゃ、と門前払いをする査読者に分かれるだろう。またすでに多くのことが論じられているテーマは、受け入れられる可能性は高いものの、そこで他の論文とのし烈な競争があり、その中で独創性を主張するのもそれだけ難しくなる。査読もまた別の意味で厳しくなるだろう。常にこのバランスが重要なのだ。
すでに査読者が登場しているが、実は論文を発表することとは、査読者との戦いを前提としている。かつてグレン・ギャバード先生が、論文を書く際にまず何を決めるかと問われて、どの専門誌に投稿するかという事だと言っていたのを思い出す。当時は納得が行かなかったが今になるとその意味が分かる気がするのだ。各専門誌には独特の性格があり、そこで多く扱われてきた論文と大きく異なっているものはなかなか受け入れられないだろう。だから受理される論文を書くためには、どの専門誌に投稿するかというのは決して無視できない問題なのだ。そして論文を投稿する際に、投稿先の専門誌の査読者との対話がどのように進むのか、という形で考えるといいだろう。査読者だったら自分の論文をどのように位置づけるか、という事をまず考えるのである。つまりは自分がその専門誌の査読者ならどう考えるだろうか、という事である。その上で少し考えてみる。
たとえばすでに論じられているテーマとして、逆転移について書くことを考えるとする。するとそのために読むべき論文の数は膨大であろう。たとえそれを日本の専門誌に原著論文として投稿しようとしても、わが国ですでに多くの論文が発表されている。もちろん日本語の専門誌に投稿する際には我が国の研究を網羅することは大事であるが、たとえば国際誌に投稿するためには、英語で書かれた逆転移の論文にもっぱら目を通す必要があり、その分情報を獲得する上では不利である。そもそも精神分析がオーストリアのウィーンでドイツ語で始まり、英語圏で発展したことを思えば、ドイツ語や英語を母国語としない私たちが彼らの議論に追い付くためにはそれだけ多くの努力を払わなくてはならない。しかも巧みな英語表現も込めた論文を作成する必要がある。
しかしその精神分析でも我が国からの発信が大きな意味を持つ場合がある。その例として北山先生を取ろう。北山先生はかつて、日本人には日本人として貢献できる部分があるという話をされていた。日本には古沢先生や土居先生のように日本の文化に根差した精神分析理論を構築して発進したという例がある。西欧人の土俵に乗るのではなく、こちらから新たな土俵を提供するような気概がなくてはならない、というお話だったと思う。
実はこの北山先生の話はそれまさしくその通りであり、一般の研究についてもいえる。それまでの研究の土俵に入り、そこですでに存在している何人もの研究者と競うのは大変であり、おそらくその土俵ですでに発表された論文はことごとく目を通して理解しておく必要がある。しかしおそらくそれよりも大事なのは、みずからがある土俵を提供することで新たな分野を開拓することが出来る。もちろんその土俵をどのようなものにするかはとても大切である。精神分析という巨大な土俵の横に全く別な土俵を作ったとしても、ほとんど誰からも相手にされないであろう。そこで精神分析という土俵の中のすでに数多く出来上がっている小さな土俵の上に載り、その上で新たな土俵を提示していく必要がある。すでに存在するような理論はあたらな土俵とはなり得ない。しかし既存の土俵とは少し異なる新たな土俵を提示することで、斬新さをアピールすることが出来るかも知れない。新しい土俵を作ることの利点は、他の土俵でそこにある理論をことごとく取り込んだ理論を構築する必要がないという事である。

2019年9月2日月曜日

書くことと精神分析 推敲 7


新たな説を唱える余地などあるだろうか?

論文や著書を書くということについて様々な考えを諸先輩や同僚や学生から聞くうちに、異口同音に聞こえてくる声があることに気が付いた。それは「論文や著作では独創性が求められるわけだが、そもそも私たちにそのような余地は残されているのだろうか?」という声である。「精神分析に関して高名な先生方が膨大な著作を残しているのに、一介の療法家である自分にこれ以上新たな発想など生まれるのだろうか?」
私にはそれらの意見がとてもよくわかる気がするが、一方ではそこにはひとつの思考上のトリックがある気がする。私たちはしばしば「自分たちには独創的なものは生み出せない」という考えに捉われてしまう可能性があるのだ。
ある学問や理論について学ぶと、私たちはそこに書かれていることがすべて真実であるという錯覚を起こしがちである。特にそれが高名な学者の書いた本であれば、なおさらである。私たちはそれらの著書を読んで、不明だったり、意味がつかめなかったりする場合、たいていは私たち読む側の予備知識の不足や理解力のなさのせいだと考えがちだ。すると、この分野で最先端を行っているこの先生の論文をまず理解できないことには、その先を切り開くことなど到底無理だ、と考えてしまう。しかしそこには発想の転換が必要である。

このことについて考えるために、私たちがバイジーや担当している学生や後輩の論文を読むときのことを考えよう。あるいは査読を経験した方の場合はその方がよりわかりやすいかもしれない。私たちはそこで読みづらい部分や意味の取れない部分があると、たいていは書き手の側の表現力不足や勝手な思い込みの原因だと思うだろう。この場合は書き手の技量を疑い、批判的に読むというスタンスを取っていることになる。
しかし実際の文章はそれが著名な理論家によるものでも文章を書きなれていない初学者のものであっても、ある種の独創性と勝手な思い込みや表現力不足との混じり合いであることには変わりがない。そこには読みやすく、論文のその他の部分との整合性が保たれている部分もあれば、矛盾を含み、再考や編集のし直しを必要とする部分もある。そして興味深いことに、その理論が認められ、その道の大家として扱われるようになった分析家の文章は、ある意味ではフリーランの状態になり、誰の査読も経ずにいきなり活字になってしまうという事が生じる。そしてそれに対して先ほど述べたような「この先生が書いてあることには間違いはない筈だ」という錯覚が働いてしまう。しかし大家の作品の筆の滑りや矛盾点は、後世の分析家にとっては、その大家の説を覆したり批判したりする一つのいいきっかけとも言えるのである。
ここで一つ考えていただきたいのは、私たちはことごとく異なる脳を持ち、異なる心を持ち、誰一人として同じ思考回路を持ってはいない。たとえある分析家Aの理論に共鳴して、その分析家の論文に感動し、そこに書かれていることにことごとく同意するとしよう。しかしあなたはそれを何度も読み、それを臨床活動に応用した場合に、結局は幾つかの矛盾点や改善するべき点を見出すはずだ。それはあなたがAより優れているから、というのではなく、ただ単にAと異なる心を持っているからである。するとAの理論に基づいての論文を書く準備が出来ていることになる。あなたはいわばAという分析家の方の上に載って論文を書くことになるのだ。
ただしあなたはまた、Aの理論を読んで持った疑問点をすでにBという分析家により指摘されていることに気が付くかもしれない。すると今度はBの論文を精読することで、結局はBの意見とも異なる部分を見出すはずである。今度はAの肩の上に載ったBのそのまた肩の上に載った論文を作成することになる。ただしもちろんBの肩に載った分析家Cがすでに同じ論旨の論文を発表しているかもしれないので注意しなくてはならない。ただしそれはCに先を越されたのであなたの論文に価値がなくなるというわけではない。Cの論文を今度は精読し、そこに不満点や矛盾点を見出すはずである。それはCがあなたとは違う脳と心を持っている以上は必然的に生じることだ。
もちろんこのようなことはおそらく自然科学の世界では起きにくい。Cの論文がある種の発見であれば、Cに先を越されているという事は敗北を意味するかもしれない。ワトソンとクリックによるDNAの二重らせん構造が発表された翌年に、全く別ルートで同じ結論に至ったとしても、その一年の遅れは決定的にあなたの論文の価値を無意味にしてしまうであろうからだ。しかし人文科学、特に精神分析の場合にはその種の遅れはあまり問題にならない。それは真理や事実の発見という事が自然科学とはおよそ異なるニュアンスを帯びているからである。

2019年9月1日日曜日

書くことと精神分析 推敲 6


論文執筆に話を戻すが、学術論文を書く際に、私たちは読んだ面白さはおよそ眼中にはない。それは何よりも学術的な価値を追求するべきものであり、そこに着想の独創性、理論的な整合性、そして必要十分な先行研究の記述などが求められよう。もちろんそれを読んだ同業者が知的な刺激を受け、面白いと感じてくれるのであればそれに越したことはないものの、それは学術的な価値の高さに付随するものでしかない。
それでは学術論文の著者は、それを執筆することに面白さを感じるのだろうか。それはその論文の性質上必然的に喜びを伴っているはずである。これまで誰も思いつかなかったことを発見したという思いを抱き、いち早く文章にしよう、という活動が喜びを伴わないわけはない。先ほどのペレリマンの論文の例を考えてみよう。彼が数学の専門家の中でも数人しか理解できないような、という事は全世界で数人しか理解できないような理論を発表した際に、「沢山の人に面白いと思ってほしい」とは微塵も思っていないはずだ。ただ自分の発見した真理をしたためたい、それだけだったのだろう。その意味では彼は読まれることを特に望んでいなかったとも言える。事実彼は特に著書は書いていないようであるし、そもそも自分の説を公表しようとする意図も希薄だったらしい。「自分の証明が正しければ賞は必要ない」として数学のノーベル賞と呼ばれるフィールズ賞の受賞を辞退したという。これは前代未聞のことだというが、その気持ちも私は少しだけわかる気がする。
私がここで言いたいことは次のことである。書くという作業は、少なくとも私にとってはそこに独創性が発揮されていると感じるときに楽しさを伴う。もしすでに知られていることを面白おかしく、しかも読みやすいように書くことには楽しさを感じないのである。しかも私の本職は医師であり、売れるような本を書くことで入るであろう印税を当てにする必要はない。私が売れることのない本を確信犯的に書くとしたら、それはもともと書くという作業に伴う喜びが、学術論文に関するそれではあっても、売れる本を書くことの喜びではないということだ。
 もちろん学術論文が著作として成立するという可能性はある。論文集、アンソロジーというジャンルが立派にあるのだ。すでに述べた博士論文はむしろそのような部類に属するかもしれない。だから博士論文をいかに書くかという事を論じていた際、実はこの「一般の読者にとっては読んでもつまらない」論文集としての著作のことを論じていたことになる。そして事実博論が著書になったものは、たいていは絶望的なまでに読みにくく、一般の読者はなかなか手に取らないのである。(博士論文は大抵はとても読みにくく、理解するのに骨が折れる。)
ただしそうは言ってももちろん「売れる」論文集はある。それはその著者の評価がすでに定まっていて、読む人間がその読みにくさを高尚さ、自分の読む力がまだ足りないことの証明と感じつつ、それこそ勉学のつもりで読んでいく本だ。いかにヘーゲルの「精神現象学」が難しくても、ラカンの「エクリ」が意味不明でも、それを押して読むのはヘーゲルやラカンが偉大だという評価がすでに確定しているからである。もし無名の学者が同じような内容の本を自費出版でもしたとして、一般の読者が買う可能性はゼロに近いだろう。もし店頭に並んだその本を手にして2,3行読んだ文章が頭に入ってこないとしても、読者はその分からなさを、自分の理解力の不足とは考えず、著者の論述の意味不明さや文章の未熟さと決めつけて、それ以上余計なエネルギーを注ごうとは思わないだろう。
そこで独創性を盛り込んだ著書を書き、それをある程度売ろうと考えることがいかに難しいかという事になる。私はこれを書きながら、自分の本が売れて欲しいと願うことがいかに理不尽だったのかという事を痛感している。著書を発表できるというただそれだけでもいかに幸運かという事をかみしめなくてはならない。そしてもう私たちの世代は、独創的で面白くない著作を世に送り出すことが出来ないという宿命を一気に打破する手段に恵まれていることを心から感謝しなくてはならないと思う。それがネット出版である。
ネット出版に関しては私自身の体験も含めて語ってみたい。かつてアメリカの知人が素人ながら哲学的な文章を執筆していた。彼は黙々と書き溜めたその内容を、出版するという。そんなことは出来るのかと思ったが、彼はアマゾンを通してそれを無料で自費出版したという。米国ではそのような積極的な方が結構いらっしゃるようである。そのことが私の興味を引いた。私には英語の著書はないが、日本語の著書はあるので、そのうちの一冊をざっと英訳して(何年も前にこのブログでも連載したからご存知の方もいるだろう。半年ほど毎日英語の文章を書いていた、アレである)。私はごく単純に、日本語で書いた本を英語に自分で翻訳したらモノになるのかが知りたかったのだ。作業はさほど苦痛でもなく、むしろ楽しかったくらいだ。ただしもちろん英語に直した後にネイティブチェックが必要であり、それにかなり費用をかけることとなった。まあ必要経費だから仕方ない。(ネイティブチェックとは、英語を母国語としない人の文章を、ネイティブスピーカーに校正してもらうことである。) そしてさっそく米国の出版社に売り込んだのだが、案の定ことごとくボツである。もちろんその事情はよくわかる。日本の専門書の出版社に出版の経歴のない人間が原稿を持ち込んでも、門前払いを食らうのがふつうである。それが解離関連の本なので、何人かの専門家に送ったが・・・・・。全く反応なし…であった。そこでアマゾンを通してE出版を試みると、あっさりできてしまった。今でも私の名前を入れるとその本が出てきて、数ドルでキンドル版をダウンロードできる。しかしどれだけ読まれたかは調べようもない。