2019年9月7日土曜日

書くことと精神分析 推敲 9


新たな説を唱える余地などあるだろうか?

最後に私が論じたいテーマは、著作の独創性についてであるが、これは著作に限らずもちろん論文一般についてもいえることである。最近論文や著書を書くということについて諸先輩や同僚や学生から異口同音に聞こえてくる声があることに気が付いた。それは「論文や著作では独創性が求められるわけだが、そもそも私たちにそのような余地は残されているのだろうか?」という声である。「精神分析に関して高名な先生方が膨大な著作を残しているのに、一介の療法家である自分にこれ以上新たな発想など生まれるのだろうか?」という考えである。
私も著作の独創性に関しては、まったく同じような懸念を有する。しかし他方ではそこにはひとつの思考上の歪曲が含まれている気がする。私たちはしばしば「自分たちには独創的なものは生み出せないのではないか?」という考えに捉われてしまうのだが、分析的にいえばこれは私たちが先人の著作に対して持つ転移現象のようなものではないかと考えるのだ。
一般論から言えば、ある学問や理論について学ぶ立場に身を置くと、私たちは先人によって書かれていることがことごとく真実であるという錯覚を起こしがちである。特にそれが高名な学者の書いた文章であれば、なおさらである。私たちはそれらの著書を読んで、意味不明だったり、すぐには納得出来なかったりする場合、たいていは私たち読む側の予備知識の不足や理解力のなさのせいだと考えがちだ。するとこの分野で最先端を行っているこの先生の論文をまず十分に理解することなしには、その先を切り開くことなど到底無理だ、と考えてしまう。そしてその論文を半分も理解できていないのに、そこから先に新たな議論を展開することなど不可能と考えてしまうのだ。しかしそこには発想の転換が必要である。他人の書いたものを完全に理解して納得することは土台無理な話なのである。
このことについて考えるために、私たちがバイジーや担当している学生や後輩の論文を読むときのことを思い出してみよう。あるいは査読を経験した方の場合はその方がよりわかりやすいかもしれない。私たちはそこで読みづらい部分や意味の取れない部分に出会うと、たいていは書き手の側の表現力不足や勝手な思い込みが原因だと思うだろう。この場合私たちは逆に書き手の技量を疑い、批判的に読むというスタンスを取っていることになる。
しかし実際の文章はそれが著名な理論家によるものでも初学者のものであっても、ある種の独創性と思い込みと表現力不足との混じり合ったものであることには変わりがない。そこには読みやすく、論旨が通っている部分もあれば、矛盾を含み、再考や編集のし直しを必要とする部分もある。だからどれほど偉大な大家が書いたものでも、書き手の側のせいで理解が難しいということは往々にしてありうるのだ。そして興味深いことに、精神分析の大家の文章は、そのような矛盾や思い込みを、それだけ多く含む可能性すらある。なぜならその理論が認められ、その道の大家として扱われるようになった彼らの文章は、半ばノーチェック状態になり、誰の査読も経ずにいきなり活字になってしまうという可能性があるからだ。そこにはその大家の自由で独創的な思考が反映されるであろうが、矛盾を抱えたり推敲が不十分だったりするような「ユルイ」部分も活字になっている可能性がある。そしてそれらの部分に対して先ほど述べたような「この先生が書いてあることには間違いはない筈だ」という錯覚が働いてしまう場合がある。
しかし初学者がその「ユルイ」部分についても必死に意味をつかもうとする努力はあまり報われないだろう。初学者はその大家の文章のうち、その独創性が一般的な評価や理解を得られている部分に注目し、その理論の先を開拓していかなくてはならないのである。そしてその大家の著作の「ユルイ」部分については、クエスチョンマークでも付けておいて理解を保留にして置けばよいのだ。
ただし大家の作品の筆の滑りや矛盾点は、後世の分析家にとっては、その大家に批判を加えたり、そこから新たな発想をもらったりするきっかけともなるという意味では貴重である。S.フロイトは非常に多くの著述を残したが、その多くは彼の一筆書きのようなところがあり、その結果として多くの突っ込みどころを残してくれたと考える。そしてその意味でもフロイトは後世の分析家たちに偉大な遺産を残してくれたのだと思う。
この「自分たちが独創性を発揮する余地は残されているのか?」という件に関し、一つ示しておきたい視点がある。私たちはことごとく異なる脳を持ち、異なる心を持ち、誰一人として同じ思考回路を持ってはいないということだ。その意味では私たちが一人の人間であるという事はすでに独創性の萌芽を有しているという事でもある。私達の独創性ははじめから可能性としては存在していて、しかしそれはさまざまな諸条件により不活性化されているだけだという視点である。
たとえばあなたがある分析家A先生の理論に共鳴して、その分析家の論文に感動し、そこに書かれていることにことごとく同意するとしよう。しかしあなたはそれを何度も読み、自分の日常生活や臨床活動に応用した場合に、結局は幾つかの矛盾点や改善するべき点を見出すはずだ。それはあなたがA先生より優れているから、というのではなく、ただ単にA先生と異なる心を持っているからである。するとA先生の著作の矛盾点を見出した時点で、あなたはA先生の理論を下敷きにした独自の論文を書く準備が出来ていることになる。あなたはいわばA先生という分析家の肩の上に載って論文を書くことになるのだ。
ただしあなたはまた、A先生の理論を読んで持った疑問点が、すでにB先生という分析家によりすでに指摘され、扱われていることに気が付くかもしれない。すると今度はB先生の論文を精読することで、結局はB先生の意見とも異なる部分を見出すはずである。なぜならあなたはB先生とは異なる心を持った人間だからだ。すると今度はA先生の肩の上に載ったB先生のそのまた肩の上に載った論文を作成することになる。ただしもちろんB先生の肩に先に載っていた分析家C先生が、あなたと同じ論旨の論文を発表している可能性を十分に考えなくてはならない。そして場合にはあなたは今度はC先生の論文を精読し、そこに不満点や矛盾点を見出すことになるだろう。
このような形で論文が執筆される場合に大いに助かるのは、文献の渉猟という問題の半分はすでに解決されていることだ。なぜならB先生やC先生の論文の最後にはカバーすべき主要な論文の多くがすでにリストアップされているからである。そこにあなたが新たに持ち込む論文は、おそらくあなたの論旨を支えてくれるような本の数編の論文で十分かもしれないのだ。
もちろんこのようなことはおそらく自然科学の世界では起きにくい。ペレリマンがポワンカレ予想を証明した論文は、それを精読した数学者ごとに矛盾点や改良点が見つかるということはおそらくない。それは証明として正しいか間違っているかの二つに一つでしかなく、それを読んだ数学者がそれぞれの考え方や人生観により別のバージョンに書き換えられるということはおきないだろう。あるいは1953年にJ.ワトソンとF.クリックによるDNAの二重らせん構造が発表されたが、それを読んだ科学者がそれぞれの個性を反映した別のDNAの構造を提唱し始めるということもおきない。しかし人文科学、特に精神分析の場合にはその種の出来事は常に起きている。それは真理や事実の発見という事が自然科学とはおよそ異なるニュアンスを持っているからである。心理は常に多面的であり、それに対するアプローチは限りなくあるからだ。